【連載企画】ジム・ジャームッシュ調とは何か(4)

(承前)

ジャームッシュ映画には、フォトジェニックなシーンはいくつもあるものの、特権的瞬間、あるいはクライマックスと呼べるものがほとんどない。では、あるべきはずの起伏はどのようにして省略されてしまっているのか。例えば『ダウン・バイ・ロー』は広く括れば「脱獄もの」と言えなくもないが(もちろんそう言って語り切れないところに魅力があるのだが)、肝心の脱獄シーンはまったく描かれない。これを、脱獄を極めて心理的に描いた『ショーシャンクの空に』(フランク・ダラボン監督)や、あるいは脱獄にかかる時間や苦労をそのものとして表象せんと試みた『穴』(ジャック・ベッケル監督)と比べるとよりわかりやすいだろう。あるいはその最も極端な例として、われわれは『リミッツ・オブ・コントロール』の終盤のシーンを思い出すことができる。ターゲットであるビル・マーレイがいるアジトと、その周囲の厳重な警備が映し出され、それを凝視する殺し屋のバンコレ。と、次の瞬間には彼はもうアジトの内部に難なく侵入しているのだ。視線が距離を無化するということについて、古谷利裕はこう述べている。

「A地点からB地点まで歩くには時間がかかるが、A地点からB地点を見るだけなら時間はいらない。見る-見られるという二つのカットの接続には時間が差し挟まれず、視覚空間は瞬時に遠くへ展開-延長する。〔‥‥〕手元のマグカップを見るのも、遠くの山々を見るのも、対象へ届く時間に差はない」(『映画空間400選』より)

この映画には台詞があまりなく、ということは、多くのシーンが無声映画的になる。ということは、映画の原初的なつくりである視線劇的な展開が剥き出しになる。何度か見返すとよくわかるのは、バンコレが視線を動かすと、その視線の先にある(と思われる)風景や人やものが映し出される、という単純な視線ショットが異様に多いことである。しかし、人間(バンコレ)が現実にものを見ているその景色と、観客であるわれわれが今目にしている光景は、どうやっても一致し得ない。というのも、われわれは四角形のフレームのもとにものを見ているわけではないし、キャメラのように非中枢的にものを見ることもできないからである。つまりわれわれは、バンコレが見ている「もの」を見ているのではなく、バンコレが見ている「こと」を見ているのだ。しかし視線そのものを見ることができないのと同様、見る「こと」もまた見ることができない。

視線のドラマも、まさにつながること(一致)とつながり得ないこと(不一致)のドラマである。これもまたきわめてジャームッシュ的テーマである。

アジトに侵入してきたバンコレに対し、マーレイはわれわれの疑問を代弁するかのように「どうやって入った?」と聞くのだった。ここでバンコレは「想像力を使った」と答える。この「想像力」は、われわれ観客が映画に対して不可避的に持ってしまう想像力――すなわち、つながらないはずの二画面を見せられても、それがつながった(アジトに侵入した)とわかってしまう、ということ――の謂いだとも考えられる。そう、つながらないものが「想像力」を介してつながってしまう空間こそが映画なのだ。

(5)へつづく

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