エッセイ「文章の接続について」
まずは、次の3つの文章を見比べてみてほしい。内容が突飛なことはとりあえず気にせずに。
①生肉にシャワーをかけた。猫がニャーンと鳴いた。
②生肉にシャワーをかけたので、猫がニャーンと鳴いた。
③生肉にシャワーをかけ、猫がニャーンと鳴いた。
①は、全く関係のない2つの文が並置されているだけだが、②ではそれが「ので」によって因果関係に置かれている(かなり強引に)。いとうせいこうは小説が書けなかった長い時期の間、この「ので」アレルギーになったらしく、笑っていいとものテレフォンショッキングでも「“コップが落ちたので割れた”の“ので”が気持ち悪い」と話していた(案の定、客はポカーンとしていた笑)。私にとってはそれはかなりわかりみのある話で、因果律の切断ということはこれまでも何度か書いてきた。
さて、それではこの③は一体なんだろう。ふたつの文章が、さりげなく(?)つなげられている。まず自分の実感から示せば、私はこの③に何らかの解放感を感じる。この③の醸し出す音域を追究していきたいと考えている。いとうの言う「小説のヒューム派」(ルーセル、セルバンテス、ディドロ、初期夏目漱石ら)とも無関係ではない気がするが、誤解ではないことを祈りたい。
自分でも「枝から木の実が落ち、太陽が昇った」のように、③的例文をいくつも作っている。日本語小説でそんな音域を感じたのは坂口恭平の『建設現場』であるが(これは素晴らしい小説だ)、これも誤読でないことを祈りたい。to be continued…といった感じである。