小笠原鳥類『吉岡実を読め!』を読め!②
人は人を褒めたい!と思うとき、褒め言葉を、賛辞を用いるだろう。その賛辞には色々なタイプがある。例えば私にとって、「こいつは不良だ!」は最大級の賛辞なので、前回小笠原氏にむけて(失礼かなーと思いつつも)使った。この賛辞の様々なタイプのなかで私が最も嫌いなのは「この作品は〇〇ということに見事に成功している」とか「この作品はうまくいっている」とかいうタイプの褒め方だ。敢えて名前を出せば、菊地成孔氏が『ユングのサウンドトラック』の文庫版に増補としてつけた、松本人志監督全作評において彼はこのタイプの批評を積極的に行っていた。本を捨ててしまったので正確な引用はできないが、「この“うまくいってない”ということすら監督本人は織り込み済みで…」云々、知らんがな!と言いたくなる。あまつさえ彼は作品の出来不出来をサッカーのPK戦にたとえて「ここまでの4作、○××○だ」とかなんとか。もし私がどうしてもPKの比喩を使えと依頼されたら(例えば吉岡実に対してとか)、すべての作品が△△△…(審議、もしくは測定不能という意味で)にならなきゃおかしい。問題提起的な作品とは○×で測れるようなものではない。
前置きが長くなってしまったが、小笠原にとっての最高の賛辞は「おもしろい」なのだと読んでいて感じる。小笠原は吉岡の初期の詩が「〜しまう」で終わるパターンが多いことを見つけ、このように書く。
「おしまいに「しまう」で終わるのは、終わりらしく終わってしまうのが、ストレートで、どうなのか。ストレートすぎることの、おもしろさ、美しさが、あるだろうか」
また別の箇所では、
「これも、しまって、終わる。繰り返されると、おもしろくなる。『液体』で「しまう」で終わる詩はここまでの三つ〔…〕。厳しく決めすぎない、かたちの、柔軟なおもしろさ」
「しまう」という〆方の是非について、小笠原はすべてを「おもしろい」に帰着させているようにも思えるし、そうではなくすんでのところで「〜か」と問いを開きっぱなしにしているようにも思える。この微妙な差配が「おもしろい」。また別のページでは、
「しっかり勉強して知識がたくさんあったほうが、おもしろいと思う」
「勉強」「知識」という語も著者の中では結局「おもしろい」につながるのだなぁと思う。これは彼をして、いわゆる評論的なものから遠ざけさせることの必然性を物語っているだろう。「おもしろい」は通常、ただの「感想文」として斥けられるからだ。だがこの「おもしろさ」のレベルに徹底して留まるのが本書の美点である。それは単に「面白い面白い」とつぶやくということとはまったく違う。詩を深く読み込んだ者として、時には以下のような括弧付きの「ちゃんとした」読解もある。
〔吉岡の以下の詩(部分)に対して〕
銹びたフォークの尖に
一匹の狐がめざめた
それは医者のにぎる
北十字星よりも
「フォーク、狐、北十字星、という、つながりが、するどいものたちの、つながりだ。北十字星は白鳥座、そして近くに小狐座があり、近くにフォークではないけれど、するどい形の矢座がある」
この後は、それこそ評論ではなかなかできないアクロバット加減(ゆるさ)でもって、次の詩、そして次の詩を、つぎつぎに召喚してくる。
小林秀雄には『感想』というベルクソン論があり、荒川洋治には『文芸時評という感想』という本があるが(私は後者は読んでない)、評論ではどうしてもできないこと、感想という形をとることでしか表現できない沃野もあるのではないか。小笠原はいっけん素朴に見える。「きれい」「おもしろい」「いいと思う」といった語彙を用いることで(あるいは「用いながらも」?「用いつつ」?どれがいいだろう)、他の吉岡論がたどり着けなかった道へ踏み込もうとしているように思える。
少し話を転じるが、前回私は、「ただ「真面目はつまらない」と書くだけなら真面目な人にもできる。重要なのは実践のレベル(もちろん文章の、だ)で不良になることだ」というようなことを書いた。本書をめくると、あちこちに「真面目であることのつまらなさ」が書いてある。「すなおに、きれいなので、ついていけないとも思う」とか「戦争を賛美して勝利を予言してほしいのでもなくて、なんだかわからないものであってほしい」など、表現はさまざまだが、ひとつのところに帰着するような強い主張が繰り返される。だが私は向後、できるだけそういう箇所ばかり引くのは控えようと思う。それはあくまで主張のレベルでの言葉で、例えば以下のような文章のほうがそれよりも更に重要だと思えるからだ。
「この人〔立原道造〕の詩を岩波文庫などで読みはじめて、けっこう長い時間、それはこの人が生きた時間よりも長いのだけれど。」
ここで段落が変わってしまっている。読み手はガクッとなる。この感触が一番「おもしろい」。もしこの本にこういう文章がなかったら、ただの「著者の主張に共感できる本」どまりだが、こういうガクッがたまにあるので、読むのが楽しくてやめられない。
私の『吉岡実を読め!』読解は今どこにいるかというと、54ページ、『静物』の前までだ。『静物』は吉岡の詩の中でもひょっとすると一番好きかもしれないので、また今度は吉岡のほうにも力点を置きつつ書けたらなと思う(できるかどうかはわからない)。最後に最低な告白をしておくと、私は以前、「わーっとなった」ときに持っていた現代詩文庫をすべて売り払ってしまい、吉岡のも小笠原のも、すべて手元から失くしてしまった。それで今『小笠原鳥類詩集』を調べてみたら、どこの本屋にも置いていないしネット価格もめちゃめちゃ高騰しているではないか。『吉岡実全詩集』もAmazonで見たら相変わらず25000円だ。私のような影響力皆無の人間が言っても仕方ないが、もう少し手に入る値段で売ってくれないだろうか。
つい愚痴をこぼしてしまったが、小笠原さんのことを調べている過程で、昨年11月に『現代詩が好きだ』という本を『吉岡実を読め!』と同じライトバース出版から出されていることを知り、さっそくポチった。まるで、現代詩が手元にひとつもないという私の窮状、惨状に救いの手を伸ばしてくれたような心持ちだ。これが届く喜びを待ちつつ、不定期連載を次回も続けられるようになんとか生き延びたいと思います。