「幻想プラネタリウム」について

糸はひとたびピンと張り詰めると、もうどうやってもそれ以上引っ張ることはできない。引きちぎるという唯一の逃げ道が物理的に不可能だとすれば、糸の持つ問いの限界値のN極は、このピンと張り詰めた状態にあると言えるだろう。それならば、他方のS極は、糸を限りなくたわめた地点ということになるだろうが、この「限りなく」もある限界値をどこかに持つ。ダンス・パフォーマンス集団「幻想プラネタリウム」が惹起するあらゆる問いは、このN極とS極の間の帯域のうちで自在に展開されるということをまずは確認しておこう。

補助線を一本引きたい。『超人の倫理』という本の中に、次のような事例がある。

「例えば、缶ビールがそれほど一般的ではなかった頃、しばしばこんなことが起こりました。瓶ビールを飲もうとしたが、栓抜きがないという状況です。そんなとき、人はどうするでしょうか。大抵は、周囲を見回して、栓抜きの代わりになるようなものがないかと探すでしょう。
言い換えると、そのとき人は、瓶ビールの栓を開けて飲むというコンテクスト(文脈)の外にある物を、このコンテクストの内に延長可能かどうかとまさに解釈し始めているわけです。これと同時に、物の側では別のことが生じています。つまり、周辺のすべての物がその遠近法に即してざわめきはじめるのです」

糸が持っている可能性のコンテクストを立ち騒がせること。幻想プラネタリウムが行っていることのまずひとつ目はこれで、それによって踊り手たちの動きが変わってくる。言わば人間たちが「ざわめきはじめる」のである。これは「ダンス」なのか、と問われれば、主体性に与した、人間「が」踊るダンスでない(少なくとも糸を用いた部分に関しては)、と答えたい。はじめにまず糸という所与があり、その可能性(コンテクスト)を文字通り伸び、縮み、巻き、編み、ひっくり返す中で、それに人間の動きが帯同する。踊り手の年齢のことを問題に出すのは失礼に当たるかもしれないが、これは非常に理にかなった踊りだと私は思う。つまり、「私バッキバキに踊れます!」的な身体能力をもはや保有していない人間(それ自体はなんの欠損でも罪でもない)たちがそれでもなお踊りたいというとき、糸の声を聞き、糸から立ち上がってきた踊りを踊ること、糸に踊らされること(この「〜される」は主体性の欠如ではなく解体という積極的意義を持つ)。「私」はたとえバキバキに踊れなくても、糸によってなら踊らせてもらえる。そんな喜びの声が彼女たちのパフォーマンスから聞こえてくるようだ。

幻想プラネタリウムのパフォーマンスは、デッドロック(暗礁)に乗り上げたところから芸術は始まると述べ、示し続けたサミュエル・ベケットの「クワッド」などのミニマルな演劇を時に想起させる。いわゆる「順列組み合わせ」というやつだ。幻想プラネタリウムのメンバーにとって、おそらくベケットの演劇作品は他人事としては見られないはずだ。ベケットは常に引き算で思考したが、それと全く同じことをする必要もないので、そこに糸というものを加えたとき、「編む/編まれる」という行為が自然発生し、それがひとつのランドアート的に芸術となる。作品制作過程そのものが作品となる。

余談だが、私はあやとりというものが全くできない。何がなんだか、全くわからないのである。仮にどんなに説明されてもわからない自信(?)がある。その神秘=Xに当たるものを、彼女たちの一連の踊りが持ち得ているだろうか。例えば彼女たちが手の先でひらひらと振る白い布、あれが単なる「きれいですねー」の装飾などでは断じてないとしたら。彼女たちは布きれをしきりに投げる。そこには「落としてしまうかもしれない」という不安が常に付きまとう。そうした動きの機微が、見るものを惹きつけつつ、踊りを単なる「ダンス」に完結させない、正解を持たない神秘性=Xとして留めることに寄与しているのではないかと思う。

人間は死や老いというある種の限界を持ち、時にはそれに絶望する。しかし限界こそ、絶望こそ創造の源ではないのか。糸の持つ限界から考え始めたことで、その限界を超えようとするのではなく、その限界に巻き込まれて踊り手たちが踊ることで、幻想プラネタリウムのパフォーマンスは見るものに清々しい希望を与えることに成功していると思う。糸に何ができるか、私に何ができるか…そんなことを考えながらパフォーマーたちがご飯を食べ湯に浸かっているひとときを、ふと考えたりしてしまった。

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