『リターン・トゥ・ホグワーツ』を観た
「『ハリー・ポッター』って“ドワネルもの”だよね」
これは私の友人が何気なく(?)放った一言である。今になってみると、かえすがえすもこの表現に尽きると思う。今のところ今世紀最大のドワネルもの、それが『ハリー・ポッター』シリーズである。
「アントワーヌ・ドワネルもの」略してドワネルものとは、フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーが、1959年の『大人は判ってくれない』から『アントワーヌとコレット/二十歳の恋』、『夜霧の恋人たち』、『家庭』、そして1979年の『逃げ去る恋』まで、いずれもジャン=ピエール・レオーを主演に撮ったシリーズものの映画である。20年の時間が経っていることからもわかるように、俳優レオーのリアルな成長が織り込まれ(その間レオーはゴダールやユスターシュと言った名匠たちの間で引っ張りだこになるのだが)、我々観客はレオーという人間のドラマと作品世界のドラマを重ね合わせて見ることになる。
『ハリー・ポッター』シリーズの最大の魅力もやはり、観客がキャストの成長や、ときには実人生における死も含め、変化を楽しむことにある。それを見ながら同時にまた自らも、観客として出会いや別れを経験し、実人生を送るのだ。このたび20周年記念として『リターン・トゥ・ホグワーツ』という、キャストやスタッフによる「同窓会」が開かれた(という体でドキュメント作品が撮られる)のも、ことの推移としてごく自然かつ必然的な成り行きだろう。ロン役のルパート・グリントは「俳優と自分の境目がわからなくなった」と語る。また終盤では、名優(このドキュメンタリーの中でもやはり際立った存在感を放つ)ヘレナ・ボナム・カーターの口から、この作品が持つセラピー効果についても語られる。「物語と癒やし」というだけのテーマなら河合隼雄や村上春樹や小川洋子が言葉を尽くして論じ、考え、実践してきたテーマだが、彼らでさえ視野に収めることが不可能だったのは、「ドワネルもの」というリアルな人間とフィクションとの相関関係である。これも含めて「セラピー」だとすれば、ただの娯楽である以上に、『ハリー・ポッター』シリーズは見直されてよいのではないか。また、それほどまでの巨大コンテンツは、今後果たして作られるだろうか。私は『ファンタスティック・ビースト』などの作品は見ていないが、問いが『ハリー・ポッター』シリーズだけで完結するものでないことは明らかだろう。2025年に我々が必要とする「ドワネルもの」とは、いったいどんな姿をした作品だろうか。