魔法少女の系譜、その7~『ひみつのアッコちゃん』、口承文芸~
前回、『ひみつのアッコちゃん』を取り上げました。初期の魔法少女ですね。「変身」という要素を、魔法少女史に強く刻んだ作品です。
また、魔法道具への強い依存を見せた作品でもありました。
今回も、『ひみつのアッコちゃん』を取り上げます。伝統的な口承文芸と、この作品とを、比べてみましょう。
『ひみつのアッコちゃん』と比べられる口承文芸には、何があるでしょうか?
魔法道具が鍵になる話、ということで、『聴耳頭巾【ききみみずきん】』と比べてみます。
『聴耳頭巾』は、魔法の頭巾が主役の話です。その頭巾をかぶると、動植物の話がわかる頭巾です。それが、聴耳頭巾と呼ばれる魔法道具です。
魔法のコンパクトがない『ひみつのアッコちゃん』が成り立たないように、聴耳頭巾が登場しない『聴耳頭巾』も、成立しません。どちらも、話自体が、魔法道具に強く依存しています。
『聴耳頭巾』のあらすじを紹介しておきましょう。
この話には、いくつものバージョンがあります。ここでは、有名なバージョンだけを取り上げます。
ある所に、貧しいけれども働き者の良い男がいました。この男は、若い男であるバージョンと、老人であるバージョンとがあります。
この男が、善行の報酬として、聴耳頭巾を手に入れます。「助けたキツネからもらった」、「観音さまに授けられた」などのバージョンがあります。男は、この頭巾を使って、いろいろな動植物の話を聴いて、楽しみました。
ある時、男は、あるお金持ちの娘が、病気で苦しんでいるという噂を聞きます。男は、そのお金持ちの家へ行き、聴耳頭巾の力で、病気の原因を突きとめます。多くのバージョンでは、「庭の木の根の上に新しい蔵を立てたために、苦しがった木が娘に祟っている」ということになっています。
男のおかげで、祟りの原因を除くことができ、娘の病気は治りました。喜んだお金持ちから、男は、たっぷりとお礼をもらいます。主人公が若い男だった場合は、娘と結婚することになります。
その後も、男は、聴耳頭巾を使って、楽しみながら暮らしましたとさ。
『聴耳頭巾』の主人公も、アッコちゃんと同じく、魔法の道具を使って、良いことをしています。
アッコちゃんと、聴耳頭巾の男が違うのは、善行の報酬と、結末ですね。
聴耳頭巾の男は、お金持ちから、お宝や嫁といった、実際的な報酬をもらっています。
アッコちゃんは、人を助けても、お金がもらえるわけではありません。人を助けることそのものが、心理的な報酬になっています。
これは、アッコちゃんが少女だからでしょうね。変身という能力で、人を助けること自体が、彼女にとっては快感なわけです。誰だって、快いことは、やりたくなりますよね。
もう一つ、大きく違うのは、結末です。
アッコちゃんは、最終回で、魔法のコンパクトを、魔法の国へ返してしまいます。
ところが、聴耳頭巾の男は、話の後も、ずーっと頭巾を持っていたことになっています。魔法の道具を、魔法の世界へ返さなくていいんですね。
これまでの魔法少女の話で、「生まれつき型」の魔法少女は、最後には、必ず、魔法の国へ帰ってしまっていました。人間と違う「異類」は、人間の世界には、ずっといられないんですね。
これは、口承文芸の時代から、長く続く「お約束」でした。
でも、人ではなくて道具になると、人間の世界にずっとあってもいいことになります。
魔法道具が登場する口承文芸の例を、もう一つ、挙げてみましょうか。
それは、『一寸法師』です。この話では、最後に、打出の小槌【こづち】という魔法の道具が登場しますね。
小さな一寸法師は、体に似合わず勇敢でした。悪い鬼を退治して、囚われていたお姫さまを救出します。
鬼が持っていた打出の小槌は、何でも願いを叶えてくれる魔法道具でした。お姫さまが、打出の小槌を打ちふって、「大きくなれ、大きくなれ」と願うと、一寸法師は、立派な体格の若者になりました。
一寸法師は、お姫さまと結ばれて、めでたしめでたし。打出の小槌は、そのまま、一寸法師とお姫さまが持っていたことになっています。
やはり、「魔法の道具は、ずっと持っていてもいい」という思想がうかがえます。
『ひみつのアッコちゃん』は、魔法道具を返すことで、口承文芸の範囲から脱け出しました。
念のため。
「魔法道具を、最後になくしてしまう」口承文芸が、まったくないわけではありません。
例えば、『天狗の隠れ蓑【みの】』などは、魔法道具である隠れ蓑が焼かれてしまい、その灰も、流れてなくなってしまいます。
けれども、『天狗の隠れ蓑』の主人公は、隠れ蓑を使って、良いことをしていません。反対に、悪いことをしています。魔法の道具を悪用したのですね。
口承文芸の世界では、良いことした人には良い報いが、悪いことをした人には悪い報いがあります。『天狗の隠れ蓑』の主人公は、最後に隠れ蓑を失うことで、手痛いしっぺ返しを受けます。お約束が、きちんと果たされたわけです。
アッコちゃんのように、魔法道具を良いことに使ったなら、魔法道具を取り上げる必要はないはずです。口承文芸の世界なら、彼女は、ずっと魔法のコンパクトを持っていたでしょう。
しかし、そうはなりませんでした。アッコちゃんは、コンパクトを手離して、普通の大人になってゆくことが暗示されます。
『ひみつのアッコちゃん』の前作『魔法使いサリー』は、口承文芸のお約束から、ほとんど、外れませんでした。『コメットさん』も、そうですね。
それに比べると、『ひみつのアッコちゃん』は、お約束から離れて、新しい方向を目指しています。
『魔法使いサリー』と、『コメットさん』の段階では、米国から輸入された「魔法少女」という概念を受け入れ、打ち立てるのに、精一杯だったのでしょう。
その中にも、日本の独自性の萌芽がありました。話自体は、口承文芸の伝統から外れるものではありませんでした。
『ひみつのアッコちゃん』の段階になると、はっきりと、日本の独自性が出ています。魔法道具への強い依存、変身能力、少女が(少女の期間だけ)魔法を使うことなどですね。
そして、口承文芸の枠をも超えてゆきました。
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