
なぜ広田弘毅は死刑となってしまったのか
どうもこんにちは、もゆるりです。
随分投稿していませんでしたが久しぶりに記事を書こうと思います。
今回は僕がnoteを始めて最初に書いた、広田弘毅がなぜ東京裁判で死刑となったのかについて考えていこうと思います。
東京裁判で死刑となった人物は7人。
その中で広田は唯一の文官でした。
なぜ広田は戦争裁判で裁かれ、死刑となってしまったのか。
3つ理由を考えてみました。
1.「軍部大臣現役武官制」の復活
1つ目は「軍部大臣現役武官制」の復活です。
軍部大臣現役武官制とは軍部大臣になれるのは現役の武官に限るという制度です。もともと明治時代に存在していた制度で、山本権兵衛内閣の時に廃止され、予備役の軍人も陸軍大臣になることができました。
それを陸軍が2・26事件で退役処分にした軍人が陸軍大臣として戻ってこられないように「軍部大臣現役武官制」の復活を要求し、当時総理大臣だった広田が承認。これが軍部の暴走を招いたと言われており、広田が死刑となった一つの理由でしょう。
2.「国策の基準」の制定
2つ目は「国策の基準」の制定です。
「国策の基準」とは広田内閣で制定された外交、戦略の方針のことです。
東京裁判で日本の大陸進出の方針が初めて国策として一致した文書とされています。
もともと東京裁判では田中義一総理大臣が昭和天皇に送った上奏文、田中上奏文が大陸進出の方針の文書として提出されていましたがそれが怪文書であると退けられ、「国策の基準」が大陸の進出の方針の証拠となってしまいました。
3.南京事件の責任
南京で起きたとされる虐殺を知っていたにも関わらず止めなかったという不作為の罪にも広田は問われています(当時広田は外務大臣)。ちなみに死刑になった7人は全てBC級戦犯としても裁かれています。つまりA級戦犯の罪状だけでは死刑にならず、そこにBC級戦犯の罪状が加わることで死刑の可能性が高まるのです。
しかし文官でありながらBC級戦犯の罪を問うのはどうなのかという意見もあります。文官をBC級戦犯に問う理由には欧州と日本の考え方の違いも関係しています。
当時の日本は内閣が統帥権をもっていたのではなく、天皇が統帥権を持っていたのですが、欧州は文官が軍人を統率する文民統制(シビリアンコントロール)、つまり内閣が軍の統帥権を持っていました。
これが広田が不作為の罪に問われた理由でしょう。
今回はここまで。最後まで読んでくださり、ありがとうございます。