我々は「自分らしさ」を求めて自滅する
週刊少年サンデーの現在
週刊少年サンデーといえば、名探偵コナンが有名だし、最近でいえばリメイクされた「うる星やつら」の高橋留美子の最新作MAOも連載中だ。加えて新連載漫画も豊作な現在、是非本誌を手にとってみて欲しいと思ってこの記事を書きました。
ビグネス参式について
新連載のひとつに「ビグネス参式(勝朗作)」という漫画がある。
ベルトとそれに装着するデバイスという組み合わせを見ると「仮面ライダー555」を思い出す方もいるのではないだろうか?ギャグ要素を前面に出しつつも、新しいヒーロー像を提起する作品のためその点については別稿で論じてみたい。
今回着目したのは現在サンデーで連載中の作品群の中で登場人物たちの発言から読み取れるいくつかの傾向を分析してみたい。先ずはビグネス参式のあらすじをご紹介する。
早速だが、主人公の龍ヶ崎ハルトの発言を引用してみたい。
これはハルトが音ゲーができないという理由で怪獣と戦うことを決意したエピソード。怪獣と戦う理由が世界を救うとかそういう社会的動機ではなく、個人的動機からくるものなのは特段珍しいヒーロー像ではないが、「俺が俺の意志でやりたいことをやるだけだ!」「外部の評価」なんて関係ない、と言い切ることの気持ち良さを感じることができる。
帝乃三姉妹は案外、チョロいについて
そして同様にサンデー連載中の「帝乃三姉妹は案外、チョロい(ひらかわあや作)」からも発言を引用してみたい。
三女の三和のライバルとして登場した矢乙女桜のセリフで以下のものがある。
"俺"と"私"の連呼の中に潜む何か
紹介した2作品にあった発言の共通点として注目したいのは「俺」「私」への執着です。むかし「僕たちはガンダムのジムである」という常見陽平氏の著作があったが、ガンダムであろう(ニュータイプであろう)とすることは、茨の道を歩むようなもので、現代においては"俺"や"私"を貫き続けることも同様に茨の道なのである。
橘玲氏の著作に「無理ゲー社会」という新書があるが、”「自分らしく生きる」という呪い”という章立てがある。橘氏が語るのは世界のリベラル化が先鋭化しているということだ。
何を今更と言われることだと思うが、"自由"というものは意外と新しい概念だということを再認識することが重要だ。
我々に馴染みのあることでいえば江戸時代には士農工商という身分制度があったし西洋においてはギルドと呼ばれる職業組合があり、自分が就ける職業が固定されていた。つまり、親が農民であれば子も農民だし、親が皮職人だったら子も皮職人なのだ。ふと思い立って明日から武士になりたいと思ってもなれない世界が当たり前の世の中だった。この世に生まれて直ぐにその先の人生が決まってしまっていたというのも珍しくない時代なので、そもそも農民が武士になりたいなんて考えもしなかったかもしれない。
時が経ち、身分制度が瓦解した後は職業選択の自由が生まれるが、高度経済成長後からサラリーマンという職業に就く人が大半になった。衣食住足りたところで、車や家電製品など自分の暮らしを便利にしてくれるものを買い漁るようになる。物欲が満たされてきたところで、今度は豊かな暮らし的な、心理的充足を求めるようになってきた。そこでふと考えるようになる。自分は何がしたいんだろう?「自己実現」なんて言葉が生まれてきたのも、それほど前の事ではない。
今どき”自分探し”なんてする人はいないのだろうけど、多くの人が自分を探して海外を放浪したりしていた時代がある。フリーターの誕生だ。しかし、夢のような経済成長が終わりを迎え景気が悪くなり始めると、将来が安定しないフリーターのような立場は敬遠され誰もが正社員になろうとした。正社員になって安定は手に入れたけど、私のやりたいことって本当にこれだっけ?と思い始める。世の中には好きなことをして生きるインフルエンサーが溢れ、キラキラした生活が嫌でも目に入ってくるようになった。私もああして”私らしく”生きていたい。
私らしく生きるという誘惑
先に引用した2人の登場人物の発言はとても魅力的だ。誰にも邪魔させない、私は私がやりたいことをやって行くんだ。それはなんら否定されるものでもないし、むしろ周囲からの応援が得られるかもしれない。しかしながら、実はその大変さというのは誰も教えてくれなかったりするのではないか?
ここで、龍ヶ崎ハルトと矢乙女桜には明確な違いがある。
龍ヶ崎ハルトは自分のオタク趣味に没頭させて欲しいということが彼を突き動かす動機だ。一方の矢乙女桜はライバルである帝乃三和への対抗心が根底にあって、天才の陰に隠れた人生(モブであること)を否定するために自分を貫こうとする。
どちらがより茨の道であるかは明らかだろう。
「無理ゲー社会」では一つの章を割いて知能格差社会についても語られている。その社会は人が努力によって獲得できるとされる「メリット」、すなわち「学歴」「資格」「経験」の3つで評価されることが公正とされる社会のことだ。それらは努力によって獲得されるものとされていたが、橘氏は著書でイギリスの社会学者マイケル・ヤングは「メリトクラシー」という造語を作った。
この思想はリベラルとされる人たちの根拠となるものであり、能力主義の社会において能力・資格・経験は本人の努力によって向上できるものなので、学校での成績が悪いのは本人が努力を怠ったからであり、一流企業に入社できないのは学歴や経験に問題があるからで、本人の自由意志による結果であるということだ。
しかし、それ(本人が努力すれば知能はいくらでも向上するという教育神話)が誤りだったとしたらどうだろうか?数十人のクラスがあるとすれば、その中の1人か2人は、どれだけ努力したとしても学ぶということがそもそも苦手だとしたら?それが当人の努力というよりも遺伝的要素が絡む問題であったとしたら。。。自分らしく生きていくために、不断の努力を重ねていくことの弊害が生じてくるだろう。努力が負担にならない、という人も中にはいるかもしれない。しかし、精神的にも肉体的にも自分を追い込むことを努力と勘違いすることは危険である。
矢乙女桜が抱える危険性は努力が全てを解決する(帝乃三和に勝つ)と考えてしまうことにある。実際に棋戦において彼女は1戦目、2戦目と三和に勝利しているが、最終的な棋戦の結果、そして彼女のその先の人生はどのようなものになっていくのだろうか?作中には描かれないだろうが、彼女の将来の姿や生き方というのは読者にとっても大事なポイントだろうと思っている。
一方で、龍ヶ崎ハルトは他人や外部を基準とした生き方をしていないため、怪異獣を倒すために能力を向上させようと思って努力をしたことは今のところ無い。それは、ハルトが参式と呼ばれる巨大兵器との相性が抜群に高いために成り立っているものであるが、もし現状のハルトの能力では太刀打ちできない敵が現れた時に、彼の新しい側面が現れて来るのだろうと期待している。一昨年に大流行りした鬼滅の刃の竈門炭治郎は矢乙女桜と同様の努力の人であるが、彼が持つ優しさ故の危うさというものがあったように思う。敵味方問わず、共感力が高すぎるというのも戦いの中では危うい側面になってしまうだろう。
週刊少年サンデーを毎週楽しみに読んでいる若者たちが、これらの漫画を読んでどう感じるのかは分からないが、当人の努力次第で全てが解決する、裏返せば目的を達成できないのは自分の努力が足りないからである、と勘違いしてしまうことで自分を追い込んでしまうことを危惧してしまう。
漫画が描くヒーローは虚構の物語であるがゆえに、すっと読者の心に入り込んで考え方や生き方にぼんやりと影響を与えるように思う。そうであるがゆえに、現在進行形で描かれる漫画が、どのような人物像を描くのか詳細に分析して考えて見るのも面白いのではないだろうか。