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学校教育と作業機能障害
まえがき
こんばんわ。すまです。
ふと思いついたように、子どもの学校教育について作業療法の視点から見てみたいと思いました。
僕には6歳の子どもがいます。
小学校に上がり、まあ色々と問題も起こすのですが、基本的にはまっすぐ育っていると思います。
でも、学校では授業中に出歩いてしまったり、機嫌が悪いと治らなかったりと迷惑をかけてしまうこともちらほら。
登校班での登校時も、列を乱してしまったり、イタズラをしてしまうこともあったそうです。
こんな様子を聞くと、ADHDかしら?発達障害?甘やかしすぎなんじゃない?という声も聞こえるかもしれません。
まともそうに思える先生ですら、子どもよりも他の親御さんの目線ばかり気にする始末です。
実際、周りの親御さんからすれば、同じ教室の○〇くんのせいで危なかったとか、授業が遅れていると聞けば、それは迷惑だと感じるかもしれません。
きっと視点が違えば、正義は違うんだろうなと思うのです。
でも、僕は作業療法士です。
この複雑な問題に、作業療法の力を使って挑みたいと思うのです。
学校教育とは
私見を言う前に、まず学校教育の取り巻く状況から整理したいと思います。
学校教育の目標は以下のものが挙げられます。
1.幅広い知識と教養を身に付ける
2.真理を求める態度を養う
3.豊かな情操ち道徳心を培う
4.健やかな身体を養う
5.人格の形成
これを目標として学校というツール(道具)を用いているわけです。
どの先生も知識的には理解しているはずです。
子を持つ親としての自分も、この目標に関しては異議はありません。
ですが、僕は学校や親の考え方に、違和感を覚えます。
それはどこなんでしょうか。
学校に求めるもの
次は、親が学校に求めるものを考えてみましょう。
先ほどの教育目標にあった「広い知識や教養」、「健やかな身体」、「人格形成」などでしょうか。
もちろん、学校にすべて任せるわけではないですが、学校でしか経験できない集団行動などを通して得るものも多くあるでしょう。
最近では、学力は予備校や家庭教師に任せ、学校には社会性を求めるなんて声もあります。
つまり、学校に求めるものって、子どもに求めてることそのままなんですよね。
これも当然だと思うんです。
親は子どもの成長を願い、それを学校に求めることは。
ですが、決定的に抜け落ちている考えがあることに気づきました。
子どもの視点
そう、子どもの視点です。
子どもはどう考えているのか?
何を求めているのか?
どうしたいのだろうか?
そんなこと、子どもに考えさせてはいけない。
子どもは分からないのだから、言う通り学んでいればいい。
どうしたいか聞けば、遊ぶに決まってる。
そんな風に、学校や親が口を揃えて言う姿が思い浮かびます。
まさに、子どもの視点が最もないがしろにされている状況が、就学期だと思います。
これは学校だけを責めているわけではありません。
家でもそうです。
親に怒られないように、親の顔色をうかがいながら過ごす子どもたちは、子どもの視点ではなく、親の視点で生きています。
ああ、怒らないでください。
親が悪いと言っているのでもないのです。
僕も親です。僕も同じように日々、間違っています。
作業療法の視点とは
「学校教育の目標」と「親が学校に求めるもの」は子どもの意志とは残念ながら関係ありません。
ここで考えるべきは、子どもの視点です。
作業療法では、子どもを一人の意志を持った人間として扱います。
当たり前のことですが、子どもには主体性があり、意志があります。
そこが出発点です。
作業療法の視点は、その人の生きづらさを分析することに長けています。
当たり前に見過ごされている就学期の子どもたちの生きづらさを、ここで分析してみたいと思います。
作業機能障害からみる生きづらさの種類
作業機能障害とは、やりたいことができていなかったり、からだの不調でできる状況じゃなかったり、周りの人からやりたいことを止められてしまう状況のことで、生活がうまくいっていない状態をいいます。
生きづらい状態ってことです。
大きく分けると次の4つに分けられます。
作業不均衡(さぎょうふきんこう)
暇すぎる、忙しすぎるなど、時間とやることのバランスが悪い
やりたいこと、やるべきこと、期待されていること、のバランスが悪い
作業剥奪(さぎょうはくだつ)
道具や環境がないせいでやりたいことができない
やりたくてもできる場所、機会がない
作業疎外(さぎょうそがい)
身体の不調によってやりたいことができる状況じゃない
やりたいと思えない
今の自分がやっていることに価値を見いだせない
作業周縁化(さぎょうしゅうえんか)
やりたいことが周囲の人によって止められる
やりたいことの価値を認めてもらえない
この4つの視点で、就学期の子どもの状況を考えてみましょう。
作業不均衡の視点
子どもの就学期は、忙しいか暇かと言われても判断が難しそうです。
少なくとも夏休みは暇そうで、普段は学校と宿題に追われて忙しそうで。
もちろん、受験勉強など本格的に始まれば、おそらく忙しいでしょう。
これらの時間的バランスよりも、今やっていることにどんな意味付けがあるかのバランスの方が重要だと思います。
大人も子どもも変わらず、人が営んでいることすべてに「やりたいこと」「やるべきこと」「期待されていること」の3種類があり、それらのバランスが生きづらさを解消するために重要と言われています。
子どもにとっての「やりたいこと」は、多くがゲームであったり、YouTubeを観ることであったり、外で遊ぶことでしょう。
「やるべきこと」は学業であったり、宿題であったり、学校でのルールに沿って生活することでしょう。
「期待されていること」は、親からの要望です。
あなたのお子さんは、このバランスが整っているでしょうか。
バランスと言っても、必ずしも1/3ずつが正解というわけでもなく、人によってその適切なバランスは異なります。
どのバランスが良いのかは、子ども本人にしかわかりません。
もちろん、子どもはまだ「本当にやりたいことを知らない」という意見もあります。
ですが、それは大人も同じで「本当にやりたいこと」をあなた自身はわかっているのでしょうか。
つまり、作業不均衡の視点で考えると、子どもがやりたいと思うことに耳を傾け、生活の中にバランスよく取り入れることが大切になります。
作業剥奪の視点
子どもがやりたいことに依存しますが、道具や環境は整っているかという視点です。
ゲームで言うとNintendoSwitch©を持っているかどうか、必要人数分のコントローラーがあるか、やりたいソフトを持っているかですね。
ゲームを例にしてしまうと、親の視点からは「ほどほどでいい」「制限した方がいい」といったマイナスな発言も聞かれそうです。
ただ、ここからがとても大切なところです。
なぜ、彼らはゲームや遊びをやりたいのでしょうか。
きっと楽しいんですよね。でも何が楽しいのでしょう。
面白いんですよね。どこが面白いのでしょう。
改めて、考えたことはあるでしょうか。
もしも知らないのであれば、あなたは子どもがやりたいことを知らずに、あるいは話を聞かずに、やりたいことを取り上げてしまっているのです。
剥奪された子どもたちは、ひどくつらい思いをしているでしょう。
まあしつこく聞いたら聞いたで、子どもからは煙たがられることも想像に容易いですが。
子どもの「やりたい」を剥奪してしまう状況は、ゲームのことだけではありません。
子どもは学校に行って、授業を聞いて、友達と話して、家に帰ってくる。
この当たり前の生活を、当たり前に過ごしたいと思っているはずです。
これは潜在的な「やりたい」であり、言語化されていない部分だと思います。
ですが、この当たり前の生活を奪われることがあります。
例えば、いじめ。
これは子どもにとって最大の障壁です。
例えば、授業の邪魔になるからと、別の場所に移されること。
これは大多数にとっては正義ですが、その子にとっては剥奪になります。
例えば、登校班での登下校を禁止されること。
みんなと当たり前に行くことを奪われるのは、つらいことです。
子どもが当たり前に持っている権利を、良かれと思って奪う大人たち。
これが当たり前で、正義として認められている異常事態に、どうか気づいてください。
作業疎外の視点
作業疎外とは、今取り組んでいることの価値を見失ってしまった状態です。
仕事を辞めようと決意する人のほとんどは、この状態を経験すると言われています。
自分なんて意味がない、自分なんてつまらない、自分なんて、、、
そんな風に、自分の価値を見失ってしまいます。
そもそも子どもは、自分の価値を知りません。
その価値は未来にあることがほとんどで、未確定であるからです。
言い換えれば、希望を持っていると言えます。
ですが、作業疎外になってしまうと、その希望が歪んでしまいます。
なぜこうなるかというと、大人たちのちょっとした一言が原因です。
「どうせ無理」
「お前なんか」
こんなこと、ついつい言ってませんか?
こうした一言が原因で、子どもの希望が失われてしまうことがあるのです。
逆に言えば、子どもの希望を生み出す言葉もあります。
「もしかしたら」
「きっと」
これは希望を与える言葉です。
変に希望を与えては残酷だとか、現実に目を向けさせることも大切だという声もあります。
でも、だからと言って「挑戦するチャンスを奪い取る」必要がありますか?
子どもの自己肯定感を奪っているのは、誰でもないあなたです。
作業周縁化の視点
周縁化とは、その子どもと、周囲を取り巻く人との意見が異なることです。
例えば子どもがサッカーが好きだとしましょう。
父はバスケをやらせたがり、祖父は野球をやらせたがり、母は水泳をやらせたがる。
こんな風に、子どもとの意見が異なれば、軋轢が生じ、嫌になります。
この時、子どもの多くは誰かに合わせようとしてしまいます。
すると、その意見に周りの大人も折れ、傍目から見ると丸く収まったように思えます。
でも、根本的には子どもの「やりたい」を奪ったことになります。
この問題は、受験でもよくみられます。
子どもが行きたいと思う進路と、親が薦める進路の食い違い。
親と子とはいえ、別々の人間ですから考えが違うのは当たり前です。
そもそも、「考えが違う」ところを理解することが大切なのです。
子どもは生きづらさの中でもがいている
至るところで、子どもは生きづらさを感じています。
知識がなく、経験もなく、どうしていいかの引き出しは少ないです。
周りの大人をみて、うまく全体や集団の流れを掴むスキルは身に付くのかもしれません。
怒られないように、無難に物事をこなす能力は高まることでしょう。
でも、本当にやりたいことって何なんでしょうか。
やりたいことをやろうとする前に、どうしてやりたくないことをやらなければいけないのでしょうか。
この就学期の間に、「やりたい」とか「できる」を育てないからこそ、夢も希望もうまく見いだせない大人になるのではないかと、僕は思います。
もちろん、大人になってからでもやり直せます。
何歳になっても「やりたい」とか「できる」を増やして、前へ突き進む大人になることはできます。
でも、「子どもは勉強だけしていればいい」が当たり前で、その考えが悪くないと思えてしまうこの世界の空気は、絶対に腐っています。
子どもは今も、生きづらさの中でもがいています。
どうか、その子どもに手を差し伸べてあげられる大人でいてください。
それが、一人の作業療法士からのお願いです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
すま