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遠くの光か、近くの安心か(「華麗なるギャツビー」を観て)
ハロー、u子です。
今日は「華麗なるギャッツビー」を観て、憧れの存在との距離について考えました。
「遠くの親類より近くの他人」ということわざ。
遠方にいる親類よりも近隣にいる他人の方が頼りになる。また、疎遠な親類よりも親密な他人のほうが助けになる。
ジャニオタにとっては「遠くの自担より近くの他担」と言われた方がしっくりきます。
わたしは「何よりも遠くの自担」なので、このことわざはしっくりきません。
そして、華麗なるギャッツビーを観てしんどい気持ちになったのは、この思考のせいだと気が付きました。
※以下、映画の内容に触れますのでご注意ください。
「華麗なるギャッツビー」というタイトルから、豪華絢爛な映像とマネーバトル的展開を想像していましたが、全く違いました。ギャッツビーの純愛と、ニックの友愛物語だと言っても過言ではありません。
登場人物全員が、主人公的であり悪者。どの人物にも感情移入ができる、それぞれの弱さ・欠点(ウィークポイント)を持っている人たちでした。
結末について、「相手のウィークポイントを許容し、良いところを見ようとすること=愛すること」だと解釈をしました。
ここで言う「愛する」とは、恋愛も友愛も家族愛も包括しています。
具体的には、デイジーはひき逃げしてしまったことをトムが肯定して認めてくれました。トムは浮気が許されました(これはお互い様ですが)。
ニックはギャッツビーの信念を貫く姿勢を認めていました。
そう考えると、「良いところ」が自分と似ている人に落ち着くようです。一種の無意識的な自己肯定でしょうか。
わたしがしんどい気持ちになった理由は、「遠くのデイジー」を愛したギャッツビーが撃たれて無実の罪を着せられたことと、その純愛の信念を認めていたニックが様々な依存症に罹ってしまっていること。
わたしもギャッツビーと同じ「遠くの自担」派なので、その報われなさに切なくなってしまいました。
しかし、よくよく考えてみると、デイジーとトムのその後については何も言及されていません。幸せに暮らしているとは限らないですね。
不幸になれとまでは言いませんが、自分たちが犯した罪(ひき逃げと浮気相手の濡れ衣による死)は償ってくれていたらいいな。
美しいと思っている光(自担)は、遠くにあるから真っすぐ見つめることができる。近くにあると、あまりのまばゆさに目が眩んでしまう。最悪の場合は失明してしまう。
ギャッツビーはそれに気付かず光に手を触れてしまったのです。
Superflyの「愛をこめて花束を」の歌詞でも「キレイなものは遠くにあるからキレイなの」と言われています。
遠くにエメラルドの光を。近くに少しくすんだグリーンの植物を。
それぐらいの方が、人生楽しくなりそうですね。
おしまい。