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『コミケへの聖歌』を読んだんよ。【ネタバレ少々】
まず最初に言うておくんやけど、おっちゃん自身は割と楽しく読んだんよ。
「すごく良かった」とはまあ、残念ながらなれへんかったんやけど、「ええやん」くらいには。
ただ、読んだ感想として一番大きかったんは「今、これなん!?」やね。
あ、「今、これなん!?」は悪い意味やのうて、いい意味での驚きやで。
えーと、まずはタイトルからなんやけど、個人的にはどのへんが“聖歌”なんかはよう解らんかった。
内容に即するんやったら、『“コミケ”へのあこがれ』とか、あるいはもっと全然ちゃうタイトルのがしっくりくるんちゃうかな。
コミケに仮託した祈りにも似た思いが語られる、いう意味で「聖歌」っちゅう言葉を選んだのかも解らんねんけど…。
で、おっちゃん普段ここで何かについて書くときに公式のあらすじをまんま引用することは基本的にせえへんねんけど、今回はちょっと例外。
二十一世紀半ばに文明は滅んだ。東京は赤い霧に包まれ、そこから戻って来た者はいない。山奥の僻村イリス沢に生き残った少数の人々は、原始的な農耕と苛酷な封建制の下で命を繋いでいる。そんな時代でも、少女たちは廃屋を改造した〈部室〉に集まり、タンポポの〈お茶〉を優雅に楽しみながら、友情に、部活に、マンガにと、青春を謳歌する。彼女ら《イリス漫画同好会》の次なる目標は〈コミケ〉、それは旧時代に東京の海辺に存在したマンガの楽園だ。文明の放課後を描く、ポストアポカリプス部活SF。
うん。嘘はないねんけど、これ読んで想像する(あるいはおっちゃんが想像した)雰囲気とはだいぶ違うんよ。なんかこう、文明崩壊後の村で生きる少女たちがキャッキャする青春日常モノみたいか感じするやん? それかコミケを目指してポストアポカリプスな世界を旅するロードノベル。ちゃうねん。そこから何光年も遠いんよ。
基本的に描かれるのはイリス沢ちゅう集落の社会、そこでの生活、そこに生きる人々、同好会部員である少女たちの心の葛藤、苦悩。
前近代~近代初頭の僻村くらいな社会生活、生活レベルにあって「部活」は過酷な生活をやり過ごすための心の拠り所であり、辛い現実を保留にできる(と言って悪ければ「ここではないどこか」を感じさせてくれる)場所な側面が強い。
つまりまあ、「部活モノ」的な軽さや明るさ、のんきさや気楽さはないんよ。楽し気に部活動をしているんやけど、もっと重いというか、切実というか。「青春を謳歌する」っちゅうよりも「“青春を謳歌する”ってこういうことかな、でやってる」っちゅうか。
そういえば副部長は部活の事をちょいちょい“部活ごっこ”言うてたな。ホンモノやなくて、ホンモノにあこがれてやってるマネゴト、いう感覚なんやろうな。
そもそも“次なる目標は〈コミケ〉”ってあるんやけど、物語の大半は急に「コミケに行きたい」言いだした部長で次期村主の少女と、それに賛同できない副部長の葛藤を中心に進んでいくんよね。
物語はこの副部長の視点で進むんやけど、彼女の家はこの村唯一の医者の家系で、彼女も当然、いずれは医者として母の後を継ぐことが期待されているんよ。やから、部長・副部長の二人が村で果たすべき役割は重い。
それなのに、実際にはあると思えない(なんせ部長が旧時代に描かれたマンガを読んで行きたいって言い出しただけ)のコミケのために、野盗が跋扈し、その他どんな危険があるのかも、どうやって行けばいいのかも不確かな東京へ旅しようなんて、副部長はよう賛同できへんのよね。
ちなみに他に部員は二人いて、この二人は後輩ポジ(2先生と1年生)。部長、副部長が同い年の幼馴染で次期村主、次期唯一の医者なのに対して、この後輩二人は村社会での社会的地位はほぼ最下層(作男の娘と流れ者の猟師の娘)。部活では、それこそ学園モノの仲いい先輩後輩くらいな感じでいるんやけど、部活外では厳然とした格差がある。
つまりまあ、部活のあいだだけはそうした村内でのカーストの差がお互いないかのように振舞える、っちゅうわけやね。実際、四人はホンマに仲良くて、お互いを大事に思ってる。
というわけで、ここまで書いただけでも「あらすじ」でイメージされるような「ポストアポカリプスものの青春日常系」では全然ないことが伝わるやろか。
さらに、「文明崩壊後」「マンガを通してかつてあったという学園生活・部活にあこがれ」みたいな道具立てこそ現代的やけど、そこで描かれるのは前近代~近代初頭みたいな僻村を舞台にその社会、そこでの生活、そこに生きる人々、少女たちの心の葛藤、苦悩っちゅう構成。しかも、そういった構成要素から具体的に起こるエピソードや会話、心の動き、終盤で明かされる諸々の真相やその背景なんかは、これもう、あれなんよ。
見事なまでに「近代日本文学」なんよ。
この小説を現代の作品らしくしている文明崩壊やらマンガ・コミケみたいな道具立てを抜いて、たとえば「共産主義者によるクーデターが成功し、思想統制と弾圧を経た日本」と「少女小説やそこで描かれる都会の生活」を入れて、時代を大正とか昭和初期にすれば、何の違和感もなくどこぞの日本文学全集に入ってても不思議やない感じ。
「今、これなん!?」と思ったのはそこなんよ。令和のSF小説コンテストでこんなん書く人がおって、それが賞を取るなんて、っていう驚きやね。
現代的な問題や悩み、感覚や心性を扱うんやなくて、現代にも通じるけど古風ではある、っちゅうものを正面から扱ってのこの成果。それが新鮮に感じられたんよね。
そんなわけで気軽なエンタメを楽しみたいっちゅう向きには全然オススメじゃないんやけど、1周回って今となっては逆に新しい、っちゅう点ではかつて文学青年少女だった人らや、近代日本文学なんて国語の教科書でしか接したことないっちゅう若人にはオススメな1冊やった。
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以下、しっかり目のネタバレ感想。
読んでいるあいだ「曾祖母から祖母から母へ、そして子へ」って口伝で受け継がれる現代医療はだんだん劣化していきそうやな、と思ってたんやけど、終盤でそこにスポットが当てられる形になったんは個人的にスッキリしたポイントやった。まさか副部長の祖母の時点で現代医療としての実際的な有効性はのうなってて、病気やケガを治しているかのように上手く振舞ってるだけの「医者ごっこ」やったなんて。
ここでも「ホンモノにあこがれて行われるマネゴト(=ごっこ)」っちゅうんが一つの重要なポイントになってるんやな。
この部分は現代のSF的な感じにも見えるんやけど、「実用ではさして意味のないものが、共同体の安定性を保つための要素として実用的なものの仮面をかぶって存在している」っちゅう建付けは土着の信仰、神事、儀礼として伝統的な村落共同体の中で温存されている構図とよく似てはいる思うんよ。
専門職能の(本当は実効性のない)知識や所作が実効性のあるものとして問題を解決するとされ、そういう問題解決手段を持つ共同体の「特別さ」「優れている」が保証される。その「保証されること」が人々の心の、ひいては共同体の安定維持に役立つ。
そこでは実際に問題解決に役立っているかどうかよりも、役立つ手段を持っていると人々が思えることが重要なんよね。
その意味で、イリス沢にかつていたインチキ宗教家と副部長の家系が、「傷病を癒してほしいという願い」を権威の源泉にしている部分も含めて実はけっこう近い存在なんは上手い構成やな、と。
あと、巻末に収録された選評で神林長平が「毒母の束縛からの独り立ちの瞬間を描く。」と述べられてたんやけど、個人的にはそないにパーソナルな「親と子」の関係やのうて、「村落共同体の呪縛からの逃走の瞬間」なんやないかな、と思ったんよ。そのために自分たちの創作である「廃京で開催されているはずのコミケに参加しに行く」っちゅう物語にイチカバチかで全ベットすることにしたんやないかな。強烈な引力から逃れるには、それ以上に強烈な推進力が必要で、それはほとんど狂気の沙汰やねん。