見出し画像

【解説・入菩提行論】第二章 #3「罪悪の懺悔」


【本文】

 一切の方位に住する正覚者と、大慈悲心ある菩薩に、合掌をささげて私は次のごとく告げざるを得ない。

 無始の輪廻において、あるいはまた今生において、獣のごとき私が、いかなる悪をなし、あるいは他をしてなさしめたとしても、
あるいは無智のゆえに、身を滅ぼすための罪過を是認したとしても-
かかる罪過を、私は後に受けるべき苦痛に悩まされて、告白する

 三宝に対し、父母に対し、師に対し、あるいは他人に対し、身と言葉と心をもって、私は怠慢のゆえに罪過を犯した。

 導師よ。多くの過ちによって堕落した罪深き私が、いかに恐るべき罪悪を犯したにしても、そのすべてを私は告白する。

 どうして私はこの罪悪を逃れえようか。速やかに守りたまえ。私の罪が滅びない間に、にわかに死が私に到来しないように願う。

 この死は、我々がことをなし終わったか否かをかえりみない。確信をもってわれらを滅ぼす。それは、健康なると否とによって当てにしがたい。大電撃のように突然に我々を襲う。


【解説】

 仏教やヨーガで説くカルマの法則をリアルに分析するならば、私たちが今生において、あるいは過去世も含めて、今まで犯してきた罪というのは膨大にあります。
それはごまかしていればわかりませんが、リアルに考えれば考えるほど、その果報が恐ろしく感じられます。
 だから懺悔の修行が必要なのです。

 懺悔において、自分の心に封印してきた一切の罪を、ごまかさずに告白します。 そうすると、そのカルマによって形成される自分の未来や来世というものがいかに危ういかということが理解でき、修行してその罪を浄化せずにはおれなくなるでしょう。
 だから、懺悔とは、卑屈になるためするのではありません。 卑屈になるのは、まだ懺悔ができていない証拠です。 本当にリアルに自己のカルマを分析したら、卑屈になんてなれません。

 たとえば、「あと一週間で死ぬ。それまでにカルマを浄化できなければ、地獄に落ちる」ということが、もし明確に提示されていたとしたら、どうしますか? 
もしここで「ああ、どうせ俺はいいんだよ」と言って卑屈になれる人がいたとしたら、逆にその人は大変な勇気の持ち主だと思います。
普通、この状態に陥ったら、死に物狂いで、カルマを浄化しようと励むでしょう。

 もっと面白いたとえも、お釈迦様はよく使っています。
たとえばあなたの髪の毛に炎が引火し、燃え上がったらどうしますか?--「どうせ俺は、燃えるんだよ」なんて、卑屈になっている暇がありますか? 何をおいても、全力で消化に努めるでしょう。

 同様に、過去の自分のカルマが自分の魂に悪業の火をつけ、地獄に落ちることが、あるいは苦悩の未来がもう避けられない切羽詰った事実としてあることが、懺悔の修行によって理解できるようになってくるのです。 

 しかも、人はいつ死ぬかわかりません。カルマを浄化するのを、死は待ってくれないのです。様々な理由で、死は突然やってきます。それは私たちの周り、あるいはニュースなどで、よく理解できるでしょう。

 今のままだったら、どんな苦しみが未来にやってくるかわからない。 地獄に落ちる危険性さえある。 しかも、それを浄化できるタイムリミットは、いつまでなのか、全くわからない。 明日死ぬかもしれない。
いや、一分後に死ぬかもしれない。 こういうことは、脅しではなく、現実なのです。 だからその現実をごまかさずに、しっかりと見つめ、一分一秒を惜しんで、カルマと心の浄化に励まなければならないのです。


 「虹の階梯」の中に、次のような印象深い良い言葉がありますね。

「今すぐに、ここから発って修行に出かけなさい。あなたに死が訪れるのが早いか、その前に死を乗り越えるゾクチェンの境地にたどり着くことができるか、今その熾烈な競争が始まったのだから。」



いいなと思ったら応援しよう!