仏陀の真理の言葉【ダンマパダ・法華経 第十六章~十九章】
(第十六章~第十九章 1:07:15~1:26:50)
【 第十六章 愛するもの 】
209 道に違うたことになじみ、道に順ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。
210 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。 愛する人に会わないのは苦しい。 また愛しない人に会うのも苦しい。
211 それ故に愛する人をつくるな。 愛する人を失うのはわざわいである。 愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。
212 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
213 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。 愛情を離れたならば憂いが存在しない。 どうして恐れることがあろうか?
214 快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。 快楽を離れたならば憂いが存在しない。 どうして恐れることがあろうか?
215 欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。 欲情を離れたならば、憂いは存しない。 どうして恐れることがあろうか。
216 妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。 妄執を離れたならば、憂いは存しない。 どうして恐れることがあろうか。
217 徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすべきことを行なう人は、人々から愛される。
218 ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(おもい)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、<流れを上る者>とよばれる。
219 久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰って来たのを祝う。
220 そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。──親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。
【 第十七章 怒 り 】
221 怒りを捨てよ。 慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。 名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
222 走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人──かれをわれは<御者>とよぶ。 他の人はただ手綱を手にしているだけである。 <御者>とよぶにはふさわしくない。
223 怒らないことによって怒りにうち勝て。 善いことによって悪いことにうち勝て。 わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。 真実によって虚言の人にうち勝て。
224 真実を語れ。 怒るな。 請われたならば、乏しいなかから与えよ。 これらの三つの事によって、死後には天の神々のもとに至り得るであろう。
225 生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんでいる聖者は、不死の境地におもむく。 そこに至れば、憂えることがない。
226 ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。
227 アトゥラよ。 これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこし語る者も非難される。 世に非難されない者はいない。
228 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。
229,230 もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。 神々もかれを称讃する。 梵天でさえもかれを称讃する。
231 身体がむらむらとするのを、まもり落ち着けよ。 身体について慎んでおれ。 身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。
232 語がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。 語について慎んでおれ。語による悪い行ないを捨てて、語によって善行を行なえ。
233 心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。 心について慎んでおれ。 心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。
234 落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、語をつつしみ、心をつつしむ。 このようにかれらは実によく己れをまもっている。
【 第十八章 汚 れ 】
235 汝はいまや枯葉のようなものである。 閻魔王の従卒もまた汝に近づいた。 汝はいま死出の門路に立っている。 しかし汝には旅の資糧さえも存在しない。
236 だから、自己のよりどころをつくれ。 すみやかに努めよ。 賢明であれ。 汚れをはらい、罪過がなければ、天の尊い処に至るであろう。
237 汝の生涯は終りに近づいた。 汝は、閻魔王の近くにおもむいた。 汝には、みちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。
238 だから、自己のよりどころをつくれ。 すみやかに努めよ。 賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。
239 聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、──鍛冶工が銀の汚れを除くように。
240 鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ-地獄にみちびく。
241 読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎しむ人が汚れる。
242 不品行は婦女の汚れである。 もの惜しみは、恵み与える人の汚れである。 悪事は、この世においてもかの世においても常に汚れである。
243 この汚れよりもさらに甚だしい汚れがある。 無明こそ最大の汚れである。 修行僧らよ。 この汚れを捨てて、汚れ無き者となれ。
244 恥をしらず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。
245 恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い。
246,247 生きものを殺し、虚言を語り、世間において与えられていないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺する人は、この世において自分の根本を掘りくずす人である。
248 人よ。 このように知れ、──慎みがないのは悪いことである。──貪りと不正とのゆえに汝がながく苦しみを受けることのないように。
249 ひとは、信ずるところにしたがって、きよき喜びにしたがって、ほどこしをなす。 だから、他人のくれた食物や飲料に満足しない人は、昼も夜も心の安らぎを得ない。
250 もしもひとがこの不満の思いを絶ち、根だやしにしたならば、かれは昼も夜も心のやすらぎを得る。
251 情欲にひとしい火は存在しない。 不利な骰(さい)の目を投げたとしても、怒りにひとしい不運は存在しない。 迷妄にひとしい網は存在しない。 妄執にひとしい河は存在しない。
252 他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。 ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。 しかし自分の過失は、隠してしまう。──狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。
253 他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。 かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている。
254 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。 ひとびとは汚れのあらわれをたのしむが、修行完成者は汚れのあらわれをたのしまない。
255 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。 造り出された現象が常住であることは有り得ない。 真理をさとった人々(ブッダ)は、動揺することがない。
【 第十九章 道を実践する人 】
256 あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。 賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。
257 粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。
258 多く説くからとて、それゆえにかれが賢者なのではない。 こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、──かれこそ<賢者>と呼ばれる。
259 多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。 たとえ教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人──かれこそ道を実践している人である。
260 頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。 ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。
261 誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。
262 嫉みぶかく、吝嗇(けち)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。
263 これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、──かれこそ「端正な人」とよばれる。
264 頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、<道の人>ではない。 欲望と貪りにみちている人が、どうして<道の人>であろうか?
265 大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。
266 他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。 汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。
267 この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。
268,269 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。 秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。 かれはそのゆえに聖者なのである。 この世にあって善悪の両者を(秤りにかけてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。
270 生きものを害うからとて<聖者>なのではない。 生きとし生けるものどもを害わないので<聖者>と呼ばれる。
271,272 わたしは、出離の楽しみを得た。 それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。 修行僧よ、汚れが消え失せない限りは、油断するな。