見出し画像

#014 モチベーション再考(後編)「三人のレンガ職人」には、後日談があった。 

Cover photo by Claus Jensen

短期集中連載「自己理解 ー 「働く」のデザインにおけるインサイド・アウト」 第5回(全6回)

マネジメントセミナーや企業研修でよく紹介されるストーリーがある。三人のレンガ職人の話だ。登場人物がレンガ職人ではなくて石工だったり、答えのパターンにはいくつかのバージョンがあって若干ニュアンスが違ったりもするが、おおよそ次のような筋立てである。

ある建築現場を通りかかった旅人が、そこで働いている職人に「なにをしているのか」と尋ねた。
一人目の職人は「見てのとおり、レンガを積んでいる。」と答えた。
二人目の職人は「食い扶持を稼いでいるのさ。」と答えた。
三人目の職人はこう答えた。「大聖堂を造っている。訪れる人たちの心に安寧がもたらされるような場所になるようにね。」と。

このストーリーから得られる学びは、人は大きな目的との結びつきを意識して仕事に取り組むべきである、ということ。三人目の職人のように「目的=パーパス」をもって仕事を意義あるものと認知することの重要性が述べられている。「まぁ、そういうものかな」と、一見納得のストーリーではある。

ただ、何度も耳にしているとやや食傷気味にもなる。メッセージがストレートな教訓だから、だろうな。まあ、こういう場で紹介される寓話は、そういうものなんだろうけれども・・。

物語には主役と脇役がいる。ただ、脇役だからといって、ずっと脇役に座している必要もない。主役を食ってこそ、の脇役であっていい。

・・などと考えていると、一人目と二人目の職人が少々不憫に思えてくる。彼らは、パーパスをもって仕事に取り組む三人目の職人の引き立て役に過ぎないのだろうか?

すると、このストーリーには後日談があることがわかった。一人目の職人についてはこんな話だ。

マスタリー(熟達)の境地へと近づく

一人目の職人はレンガを積むことに没頭していたが、やがて、その作業にはある種の要領、コツがあることがわかってきた。「こうすれば、こんな出来上がりになる」という、ある種の感触をつかむ。このやり方でもう一度やってみたら、イメージしたような結果が得られるだろうか? 試行錯誤しながら、思い描いた出来映えへと近づけていく。さらに作業への没頭を深め、自分なりのやり方を追究する。
作業をしながら、様々なアイデアも湧いてくる。天候に応じた最適なモルタルづくりに精を出したり、レンガの焼きの工程にも注文をつけたり。想像力を働かせ、工夫を重ねる。少しの変化も見逃すことがない。単調な繰り返しにみえるプロセスも、彼にとっては濃密な時間となる。
そうこうするうちに、自身の技術の進歩に気づく。良いものを作り上げているという手応えがある。それまでは単なる「作業」でしかなかったレンガ積みが、洗練されたプロフェッショナルな「仕事」へと変化している。周囲からの評価も得られるようになった。蓄積された知識、失望と前進を繰り返した経験、磨かれた匠の技を学ぼうと、多くのレンガ職人が訪ねてくるようにもなった。
このようにして、彼はマスタリー(熟達)の境地へと近づいていった。

「後日談」

なるほど。単純作業を黙々とこなしているだけのように見えたけれど、その裏にはこんなストーリーがあったんだね。

いつの時点から、仕事への没頭感を覚えるようになったのだろうか? それは、言葉にするとどんな感覚なんだろうか? 「作業」という意識でしかなかったものが「仕事」という認知に変化するって、なにが、どう変わることなんだろうか? 

訊いてみたいことがたくさんある。 

自律的に働き方を選ぶ

「食い扶持を稼いでいるのさ。」とうそぶいていた二人目の職人も、実際のところはどうも様子が違ったらしい。

二人目の職人は、レンガを積み上げ、壁を造ることを主たる業務としていたが、それ以外の仕事にも従事することができた。彼のいる現場では、3MやGoogleなどで運用されている「20%ルール」があり、労働時間のうちの20%を個人的な取り組みのために使ってもよい、とされていたのだ。
そこで彼は、そのルールを使って、好奇心の趣くままに様々な仕事に取り組んでみることにした。 原料の調達先の検討を手伝ったり、設計のアシスタントのような仕事をしたり、工事全般の工程管理に知恵を絞ったり。
「これはもっと深いところまで関わっていきたい」と心が動いた案件については、自らの課題として設定し、挑戦する。「こうしたら」と思う方法を試してみる。
自分はどんなことに興味を覚えるのか。どんな仕事に向き合っているときに「自分らしく」いられると感じるのか。そんなことを自問し、振り返りながら、取り組みたい仕事やタスクを選択する。「やってみよう」と思ったやり方を実践する。
その自律的な働き方は、彼の創造力を刺激していく。自己の裁量を存分に発揮しながら、彼は自分の仕事に楽しみを見いだしていった。

「後日談」

こちらもがらりと印象が変わる。そこには、実は主体的で、自律性が尊重される働き方があったのだ。

このような後日談を知ると、「パーパス」を意識して仕事をしていた三人目の職人の姿だけが、私たちが目指すべきものとは限らないことがわかる。

実際には、三人が三様に、内発的動機づけを覚えながら仕事に取り組んでいた、ということだ。

目的はひとつではない

では、三人目の職人は、その後どうしているのだろうか?

三人目のレンガ職人は、運河のある街にいた。新たに大学で職を得た伴侶と一緒に移り住んだのだ。新天地での仕事探し。大聖堂を造るような現場はない。男は、働くことの目的を見失った。
やっと見つかった仕事は、カフェの雇われマスター。接客業などはじめての経験で、勝手がわからない。客足は鈍い。家から持ち出した本を読んで、暇をやり過ごす。にぎわいにはほど遠い。仕事場に持ち込んだ本が、カウンターに積み上がっていく
ある日、数少ない常連客のひとりの老人が、ここにある本を読んでいいか、と訊く。断る理由もない。素直にうなづく。本の山をじっと眺め、老人は一冊を手に取る。黙ってページを繰るうちに、午後の日射しが傾いていく。
何日か経って、老人が連れを伴ってやってきた。二人でカウンターの本に手を伸ばす。濃いめのマキアートを相棒に、静かな高揚に身を浸す。日が暮れると、ふたりは思い出したように帰っていった。
やがて、どこからか噂を耳にして、本を目当てに客が集まってくる。カウンターにあった本を壁際にしつらえた本棚に並べると、居場所を見つけた猫みたいな顔になった。窓からの陽光がたゆたう。夕闇の家路につく人々の表情は、来店した時よりもいくぶん柔らかくなっている
日がまた昇る。こんなものも本棚に並べてみようかと、夜遅くまで選んだ写真集や美術本で膨れたリュックを背負って、元レンガ職人は新たな仕事場へと足を速めていった。

「後日談」

大聖堂を造るという「目的」を失った三人目の職人は、新たな仕事での経験をつうじて、「目的」はひとつでない、ことに気づいたようだ。


私たちには、それが内発的動機づけであろうと、外発的なものであろうと、なにかに突き動かされるように、行動に駆り立てられる瞬間がある。

多様性をもった存在である私たちが動機づけされる理由は人それぞれであり、また、状況次第でもある。それらは広く許容されるべきであって、そこに良し悪しといった基準や判断は存在しない。

モチベーションが高まると、私たちの内部では認知の変化が起こる。

厄介な問題ほど取り組み甲斐があるように感じられたり、やり遂げることが当たり前という不思議な自己効力感に包まれたり、「できる」と確信する前向きな気持ちがふつふつと湧きあがってきたりする。

湧き上がる衝動の源泉は、ひとつではない。脳の線条体は浮気者で、様々な刺激に敏感に反応する。私たちの心も揺れ動く。

理屈を超えた部分で、その豊かな源泉を探る。モチベーションと付き合うことのもう一つの楽しみは、こんなところにあるのかもしれない。


※すでにお気づきのとおり、本稿の「後日談」は筆者によるフィクションです。

モチベーション再考(前編)はこちら。



この記事が参加している募集