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#005 飾らない。繕(つくろ)わない。借り物でない。"オーセンティック"な働き方の流儀

Cover photo by David Pisnoy

短期集中連載「インサイド・アウト – これからの『働く』の方向性を考える」 第4回(全6回)

インサイド・アウト、自身の内面に目を向けることからはじめるという志向は、リーダーシップ開発の領域においても顕著である。そこには、「自分らしさ」への回帰がある。


”オーセンティック”って、どういうこと?

リーダーシップの研究にも変遷がある。20世紀の後半までは、リーダーに共通する個人的な資質や特性を探求するアプローチが主流だった。「リーダーとしての適性とはなにか」という視点だ。
ところが、様々な調査・研究の結果、そこには共通の特性やスキルは確認されなかった。つまり、リーダーたちはそれぞれが自分なりのスタイルでリーダーシップを発揮していたということだ。

その後、リーダーシップ研究は、リーダーの行動分析へと移行する。「リーダーとしてどのような行動が有効なのか」という視点であり、メンバーの成熟度やモチベーションを考慮した状況対応型のシチュエーショナル・リーダーシップや、メンバーの主体性の発揮を促す支援型のサーバント・リーダーシップが隆盛となった。

こうした研究が一巡して、現在では、オーセンティックリーダーシップが注目されている。資質や特性(WHAT)から行動(HOW)へ、そして、人としての本来のあり方(WHY)を重視するリーダーシップへの移行は、不確実な時代の動向を反映しているといえるだろう。

「穴のあいた靴下」の微笑ましさ

オーセンティックとは「本物の、真正の」という意味。でも、これじゃ、ちょっとわからない。サンドの富澤さんでなくても、なに言ってるかわからない。「偽りのない」と訳されることもあるが、いささか仰々しい。では、どういうことか? 

それは、自身の価値観や考え方を尊重し、信条を体現すること。飾らない。つくろわない。借り物でない。イメージでいうと、穴のあいた靴下、ってところかな。武骨でいて、愚直でもあったり、微笑ましいほどに不器用で、といった感もある。

自身の内面に行動基準を求める

リーダーはマネジメント経験を通じて様々なスタイルを学ぶ。よいリーダーでありたいという思いや責任感が強ければ強いほど、リーダーという「配役」をうまく演じようとしてしまう。周囲から求められるリーダーシップを優先することもある。

ただ、リーダーの真価について、私たちは鋭い嗅覚をもっている。それらしく飾り立てられたスタイルに信頼を置くこともなければ、その場しのぎで一貫性を欠く、不本意につくろった行動に感化されることもない。ましてや、他人の真似事に過ぎない借り物のリーダーシップに、私たちの心がふるえることはない。

自分らしさの基準は、自身の中にある。それは、自分の外の基準をあてはめて、「それらしく」振る舞うことの対極に位置している。自らの行動の基準は、自身として確固たるものにしておきたい。

間違いを認める。「わからない」を受け容れる。

オーセンティックなリーダーシップは「自分らしさ」が鍵となる。しかし、それは自我を押し通すことや、自己中心的であることとは違う。
リーダーだって間違えることはある。実のところ、たくさんある。そんなとき、オーセンティックなリーダーは、間違っていたことを率直に認める。そして、メンバーの意見を聴く。助けを求める。

また、組織の上位者であっても、知らないこと、わからないことはいくらでもある。それを認めることも、オーセンティックなリーダーのあり方のひとつだ。

これまで私たちは、知らないこと、わからないこと、できないことは恥であると教えられてきた。リーダーとしての必要条件は、そしてプロフェッショナルとしての価値は、すべてに精通していることだ、と。

しかし、現代においては、新たな知識が日々指数関数的に生みだされている。必然的に、理解できること、コントロールできることは限られていく。従来のリーダーシップ論やマネジメント基準であれば認めがたいような現実を、私たちは受け止める必要がある。

不完全である自分を許す

オーセンティックであることはリーダーシップ論にとどまらない。前述のような状況は、どのような立場にあろうとも直面する問題である。

私たちに求められているのは、不完全である自分を許すこと。それは、ありのままの自分であろうとする「勇気」のことだ。

米国ヒューストン大学ソーシャルワーク大学院の研究者であるブレネー・ブラウンは次のように語っている。

私たちは子どもの頃、生身をさらすことで傷ついたり、けなされたり、失望したりすることから身を守る方法を見つけた。鎧をまとい、思考・感情・行動を武器にした。そして自分の存在を薄くし、消すことまで学んだ。
しかし、大人になった私たちは、勇気と目的と人とつながりのある人生を送るには ―ずっとなりたかった自分になるには― もう一度、生身をさらさなければならないことに気づいている。鎧を脱ぎ、武器を手放し、存在を示し、ありのままの自分をさらさなければならないことを。 

ブレネー・ブラウン|本当の勇気は「弱さ」を認めること

鎧(よろい)を脱ぐ。ぎこちないダンスを止める。

ここで語られていることは、既知の概念でいえば「自己肯定」の要素のひとつだろう。ただ、自己肯定は力の加減が難しい。「ありのままの自分で」と意識した途端に、どうも肩に力がはいってしまう。肯定感は持ちたいけれど、傲慢になってはいないだろうか、という葛藤もある。ひとり相撲をしているようにも思えてくる。

そこで、これを「共感」、自己への共感と捉えてみる。共感は、通常、他者に対して向けられる。そこには一定の距離が存在する。それと同じように、ある程度の距離感をもって自分と向き合うと、力の加減もほどよくなるような気がする。できないことに直面したら、「そうだよね。そういうことだって、あるよね。」と。

自分のできないこと、足りない部分に向き合うことは苦しい。認めがたいこともある。だが、自己への共感は「ない」ことばかりでなく、「ある」にも目を向けさせてくれる。自分ができることや足りていることが、実は「ありがたい」こと、かけがえのないものだとういうことに気づく。「ある」ことで十分だと思えるようにもなる。

周囲と比較することをやめる。もう完璧であろうとはしない。価値の判断を他者にゆだねない。何が大切かは自分で決める。
 
内的な基準を大切にすることによって、私たちはよろいを脱ぎ、ぎこちないダンスから解き放たれる。

インサイド・アウトには、オーセンティックな生き方の流儀の原点がある。

参考:


今回紹介したブレネー・ブラウン。彼女のTED Talksもおススメです。原題は"The power of vulnerability"。
このvulnerability、辞書を引けば「脆弱性」とある。ただ、この語感では、その真意を理解できるとは言いがたい。だからこそ、視て、感じてもらいたい。そんなTEDです。


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