自己嫌悪の排除
今年は新しい学校に異動し、多くの新たな出会いの中で仕事をしてきた。
昨年までは思いつかなかったような授業のやり方を自分なりに考え、やってみた。うまくいくこともあれば、そうでないこともあった。
自分がこれまで出会ったことのない生徒にも出会うことができた。その子のおかげで、自分自身を見つめ続ける習慣がついた。今もそうだ。
変化の1つとして、Twitterをあまり使わなくなった。異動初年度で、新しい学校への適応のため時間がとりにくくなったというのもあるが、なんとなくつぶやく意欲がわかなくなった。Twitterでは等身大の自分を投影できないという意識もある。自分自身の心境の変化が大きい。
ここまで、何を書いているのかよくわからない。ほぼノンストップで手が動いているが、特に何を言いたいわけでもない。
2020年は、「自分はだめだなあ」と思うことが何度もある年となった。
自分の未熟さへの失望。いや、うまくいかないことは多いが、毎日の仕事は楽しいし、面白いし、充実感を感じてやってこれた。
しかし、自分の力不足によって数学の力をつけてあげられない、ある生徒が目の前にいる。今も、その子は数学ができなくて苦しんでいる(と思う)。今年は、その子のことを考えながら授業をつくることがある。しかし、ほとんど失敗に終わる。その子が1時間授業に参加し続けた授業は1度もなかった。毎回、自分の力のなさに打ちひしがれている。
もし、その子の担当教師が自分じゃなかったら。その子が数学に目を輝かせる姿がそこにはあるかもしれない。自分よりも力のある先生などいくらでもいるわけで、そう考えると、その子がいたたまれなくなった。
教師という仕事への畏れ。先人たちが声高らかに叫んできたことだが、その「教師という仕事への畏れ」というものは、言葉では理解することができないものなのだと今年理解した。いや、ほんとうは、あらゆることが言葉では理解できないことなのかもしれない。言葉は確かにある部分を伝えてくれはするが、ほんとうの核心部分は伝えきれない。ほんとうに大切な部分はそぎ落とされて伝わってくるのだ。
この1年、もしその子が100回以上の僕の授業を経て、数学を好きにならなかったとしたら。数学ができるようにならなかったとしたら。自分はなんのために存在していたのか、という存在意義を問われることなのだ。
ああ、なんということをしているんだ、自分。
そう何度も思った1年だった。
僕は、なんでもない、何者でもない普通の人間だ。何をすることもできない人間だ。自分自身の力の無さを日々感じながら、ここまで過ごしてきた。
しかし、「自分はだめだなあ」と思うことほど、自分の前進を妨げるものはない。
自己嫌悪は、過去の自分に向いている。
過去の自分を見て、自己を嫌悪する。
自己を嫌悪する自分は、今の自分だ。
ほんとうに、心から現在の自分を嫌悪し、変わらなければと思っていれば、過去の自分ではなく、未来の自分に目を向けるはずだ。そして、自己変革に向かって走り出しているはずだ。
自己嫌悪という行為は、「自分はダメだ」と言いつつも、そのダメな部分を変えたくない怠惰な自分が、過去の自分を否定することによって免罪符を得ようとする行為なのだ。自分はダメなやつだ。それを自分はわかっているんだ。自分自身の悪いところを理解しているんだ。
自分はわかっているぞ――――――。
そう思うことによって、自分は何かしら前進していると思いたいのだ。
しかし、その実は「ダメな自分」はそっくりそのまま、何も変わらずここに存在している。何の向上もないままに。
自己嫌悪。
そこからは、何の成長も生まれてこない。
そうでなく、「今、前進している自分」をつくり続けなければならない。自己嫌悪などしている暇はない。
学ぶ。
2021年。年が変わる。だからどうということもないが、時間によって区切りをつけやすいということはある。
すでに自己変革への道を歩みだしている自分。
2021年は変革の年になる。