悲観的晩夏妄想。
2013.08.22
感傷と追慕のほかに感情があっただろうか。
悲しむことをやめたら僕はとても暇になるのじゃないかと思う。
心に何かが入っていた試しがない。
あってもそれは穴だらけで、いつも空気をなめているばかりのような。
たとえば。
夏は、
いっぱい死ぬ季節だ。
セミなど生きているうちはどこにいるのか、僕にはよくわからない。ただいつも激しく空気を振動させ、石を震わせ、木々を震わせている虫がセミなのだと教わったから、きっと生きているセミはそういうことをするのだろう。僕はよく知らない。
でも皆さんがご存知のように、セミの死骸はこの時期になるとたくさん落ちている。アスファルトのそこここで、威厳に満ちた大往生を夏空に向けて晒している。この街はセミの死体で埋め尽くされていると言っていい。彼らが遺した偉業はきっと夏の空気に染みついていて、その空気を弔いの声が震わせる。去りし者を讃える。夏はそういう季節だと言ってる。
僕はそういうのを悲しむことにとても忙しいのだ、とても。
だから前に進めない。
そういうことにしてはくれないだろうか。
だって、アスファルトの上で死んでいるのはセミだけではないから。車に轢き殺されたネコもいる。車に轢き殺されたカラスだっている。僕はとても忙しい。
むかし小学校の先生から、車に轢き殺された人間は毛布のようにボロボロになるのだと教わったことがある。それから僕は、粗大ゴミの捨て場になっている線路端にボロボロの毛布がうち棄てられてあるのを見ると、それはもう悲しくて、気が気でなくなってしまうようになった。
生き物を殺すのはたいがい車だ。車はいつだって悪くて、狂気に満ちてる。車を使わねば生きてゆけないということ自体、人間がいかに矛盾で満ち溢れているかを示す皮肉な例じゃないだろうか。人はいつも矛盾などないという顔をして歩く。矛盾などないという顔をして車を運転する。
一番殺されるのはザリガニだ。ザリガニは多い。
生まれ故郷の農業用水から這い出たザリガニは、よせばいいのにアスファルトを横断したがる。そのほとんどは轢き潰されて、道路を転々と彩るただの赤い模様と化す。それでもザリガニはアスファルトを目指したがる。
まるで誰かがわざとザリガニを何十匹も撒き散らして、ゲラゲラ笑いながら鉄板で押しつぶして行ったんじゃないか、っていうくらいにザリガニが死んでる。その間を縫って、ザリガニたちは隣の田圃へ歩いて行く。
自分と同種の生命体の死が累々と重ねられた脇を、僕は歩く勇気があるだろうかと思う。
ザリガニだって、悲しいに決まってる。
人が死体を踏みつけて歩かなければならない時に感じるであろう嫌悪感や罪悪感が、ザリガニに存在しないと言えるだろうか。
それは無言で死体を踏みつけた人間を、何の反省もない冷酷な人間だと一方的に決めつけるのと、同じではないだろうか。
誰だって、悲しいに決まってる。
ゆうべ若い狼がいた。
僕は見た。
眠れない夜の窓辺に腰掛けて、両耳をぴんと北に向け、風で揺れる樫の木の梢を黙って見つめながら、きっといくつもいくつも、命の潰れる音を聞いたのだろう。
きっと、聞くこと、見ることは弔いのうちだ。
去りし者へ敬意を表すやり方のうちだ。
悲しむことが、自然じゃないはずはないんだ。
悲しむことをやめたら、僕はとても生きてゆかれないと思う。