「ボクたちはみんな大人になれなかった」
“昔フラれた大好きだった彼女に、間違えてフェイスブックの「友達申請」を送ってしまったボク。それは人生でたった一人、ボクが自分より好きになったひとの名前だ。90年代の渋谷でふたりぼっち、世界の終わりへのカウントダウンを聴いた日々が甦る。
43歳独身の、混沌とした1日が始まった――”
これは、90年代の東京を舞台にした「アイタタタ」な恋愛を描いた私小説です。当時の渋谷の様子はよく知らないけれど、その景色を、小説を通して想像することができました。
※今回もネタバレを含みますので、作品を読む予定がある方はご注意ください!
“マーク・ザッカーバーグがボクたちに提示したのは「あの人は今」だ。ダサいことをあんなに嫌った彼女のフェイスブックに投稿された夫婦写真が、ダサかった。ダサくても大丈夫な日常は、ボクにはとても頑丈な幸せに映って眩しかった。”
この本の中で最も印象的だった文章です。
変化するコミュニケーションツール
「友達申請」を送ってしまったボクの今と、過去の回想が入れ替わりながら、物語は進んでいきます。その中で象徴的だと思ったのは、コミュニケーションツールの変化でした。
“マーク・ザッカーバーグがボクたちに提示したのは「あの人は今」だ。”
現代ではスマホが普及し、SNSが広まったことで、いつでも人と繋がれるようになりました。気になる人の名前を調べれば、何かしら検索に引っかかるかもしれません。43歳のボクは、ふいに、もう会うこともないと思っていたであろう最愛の人を見つけてしまいました。
“今では信じられないけれど、あの時代たいがいのアルバイト雑誌には文通コーナーが巻末に載っていた。”
そんな彼女との出会いのきっかけは、90年代半ば、文通でした。
文通のことは知っていましたが、手紙をおくりあうというのは自分には新鮮に感じられました。手紙を待つ時間、届いた瞬間、開けて読む時間、返事を考える時間、一つひとつが楽しい時間だったのかなと思います。今のSNSではほんの一瞬で済んでしまいますね。
またもう少し経つと、ボクが仕事でPHSを使っていたり、携帯電話を使っていたりする描写があります。このツールの変化に、少しずつ、でも確実に時が進んでいることを想像させられました。
“「1957年、日本初の南極観測隊が南極に近づいていました。当時、電報は高級なものでした。そこで南極に向かう夫に向かって、妻は短い電報を送りました。(中略)そして、その妻はたった3文字の電報にすべてを託したのです。そう、たった3文字で愛を伝えたのです。」”
これは作中でも、昔の話として出てきます。今でも冠婚葬祭などでは使われている電報は、 1960年代に電話が普及するまでは連絡手段として用いられていました。伝えられる言葉も、量も、今よりずっと少なかったのではないかと思います。
そんな制約の中で、たった3文字で思いを伝えるところに心打たれました。
誰と行くか
"車谷はどんな話の語尾にもだいたい「どうせ、1999年に地球は滅亡するんだぜ」をつけた。(中略)
世の中にはまったく期待していなかった。世の中もボクには全く期待していなかった。そして1999年に地球は滅亡しなかった。(中略)
滅亡しなかった地球のどん底でボクはまだしぶとく生きていた。"
ノストラダムスの大預言、懐かしいなあなんて思いながら読んでいました。バブル崩壊が始まった頃、むしろ滅亡してくれ、と思う感覚はなんとなくわかるなと思います。目の前の不安や問題から逃れたくて、終末が来てしまえばいいのにと、本気で想像はしてないけれど言葉に出してしまうあの感じ、です。
けっきょく、地球は滅亡しなかった。滅亡しなかった地球で、また続く日常をやり過ごさなければいけない。そんな絶望に近いような気持ちが感じとれる、この章が好きです。
"「どこに行くかじゃなくて、誰と行くかなんだよ」"
遠くに行きたい、と呟いたボクに彼女が言った言葉です。そして、ボクはこのときの自分の感情を、次のように言っています。
"今ならわかる。霞のかかった目的地は、いつまでも霞がかかったままだと。あの頃は行き先もわからない自分の人生を楽しむ余裕がなく、ただただ逃げたかったのだと思う。"
確かな未来なんてなくて、漠然とした不安を持ちながら、それでも生きていかなきゃいけない。” 霞のかかった目的地は、いつまでも霞がかかったまま” 、という表現がとても腑に落ちました。逃げたい気持ちを抱えたボクにとって、彼女の言葉は心強かったのではないかと思います。
複雑なパズル
"ボクが凸で、君が凹。そんな単純なパズルは世の中にはない。ボクが△で、君は☆だったりする。カチッと合わないそのイビツさを笑うことができていたら、ボクたちは今も一緒にいられたのかもしれない。"
この言いまわし、本当に上手いなと思いました。そんな単純なパズルは世の中にない、と言われて、安心もしました。
簡単に合うパズルなんてなくて、きっとみんなイビツなパズルをなんとか上手く合わせているのかもしれない。けれど当時、ふたりぼっちのボクたちは、それに気づくことができなかった。イビツさを笑えるようになるまでには、時間がかかってしまうものなのかもしれないですね。
"「俺たちがあと50年生きるとして、1日に1冊ずつ読んだところで読み切れない量の出版物がすでにもう保管されてるんだ。そして一方では世界の人口は70億を超えて今日も増え続けてる。俺たちがあと50年生きるとして、人類ひとりひとりに挨拶する時間も残ってない。今日会えたことは奇跡だと思わない?」"
ここでは書ききれませんが、この物語の中では、ボクは色々な人との出会いと別れを繰り返しています。
会いたかった人、再会できた人、もう二度と会えない人。
知らない間に最後の別れになっていて、さよならも言えなかった人。
きっと人それぞれ、そういう人がいるのではないかと思います。自分もふり返ってみて、いろんな人の顔が浮かびました。
今日会えること、言葉を交わせること、奇跡だと思いました。
ダサくても大丈夫な日常
“ダサいことをあんなに嫌った彼女のフェイスブックに投稿された夫婦写真が、ダサかった。ダサくても大丈夫な日常は、ボクにはとても頑丈な幸せに映って眩しかった。”
大人、というのは、
生きていればいろいろあるけれど、わりきってあたりまえの日常を淡々とやり過ごせる人
なのかもしれません。
ダサくても大丈夫な日常に見えるのは、あたりまえの日常をわりきって淡々とやり過ごしているからかもしれません。
たぶん彼女も、色々な感情や後悔を抱えていると思います。それでも、わりきってあたりまえの日常を生きているんだと思います。
だからこそ、大人になった彼女の姿が、ダサくても大丈夫な日常が、幸せに見えて眩しかったのかもしれません。
生きていればいろいろあって、みんな過去に置いてきてしまったものや後悔を持っているのではないでしょうか。
大人になれてもなれなくても、それでもなんとか生きていくんだよな、と。フェイスブックの向こうにいる彼女とボクの対比を見て考えます。
忘れていた過去をふり返るきっかけと、いま、それでも生きていくんだ、という気持ちを改めて感じさせてくれる本だと思いました。
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