生きているかぎり、死ぬもんだ
朝、ふっと目が覚めると、
お日様の光が、薄暗い部屋を少しずつ明るくしていく様子に
出逢うことがある。
まだ覚醒していない脳みそを持ったままで、その様子を見守る。
そんな時間が、意外と好きだったりもする。
窓から差し込むその光が、私の方に伸びてきて、
頬に当たって、少しだけジリジリとしてくるのだ。
おひさまが、私の頬を撫でる。
「おはよう。朝だよ?」
と言われている気分になってくるから不思議。
あったかいなぁ……。
そう感じながら、今日も1日が始まるんだ。
布団から出て、キッチンに行くと、もう起きてる子どもたち。
元気に「おはよう」って言ってくれる。
その4文字で、子どもたちの機嫌までわかるから面白い。
いい夢見たのかな? 今日は元気だ。
今日は、いやなことがあるのかな?
まだ眠いのかな?
たった4文字が、すごい情報量だったりもする。
おいしい朝ごはんも食べて、小学校に送り出す。
洗濯機のスイッチを入れたり、洗い物をしたりしながら、
全てが終わったころ、やっと1人の時間。
ゆっくりコーヒーを淹れる。
気に入ってる豆。
気にいっているコーヒーポットとカップ。
そして、ゆっくりとお湯を落とす。
落ちるお湯が、豆をふわっと踊らせる。
ふんわりと立つコーヒーの香り。
そんな何気ない毎日。
きっと状況だけ見れば「幸せでしょ?」と聞かれるし、
世間がいう勝ち組のイメージは、これなんだろう。
いい主婦代表?
そんなイメージがある光景だ。
私自身、子どもが2人。
しかも男の子と女の子に恵まれた。
ふたりともアレルギー体質なので、
気をつけなくちゃいけない事は、多々あるけれど、
それでも、大きな入院や大きな怪我をすることもなくここまできた。
すくすくと育っているほうだと思う。
年齢はひと回り以上離れているが、夫もいる。
彼は、毎日仕事に行き、毎日ほぼ同じ時間に帰ってくる。
結婚当初は深夜までの残業もあったが、
転職のおかげで、ほぼ定時に帰ってくるようになった。
一軒家に住まわせてもらって、大阪なのに車も二台。
しかも、私は自営業という形で
20代から事業主をさせてもらってる。
23歳で結婚して、24歳、25歳のときに、子どもを産んだ。
あの子たちが18歳、成人になった頃には、私はまだ43歳。
まだまだこれからって自分でも思える。
状況だけ見たら、
きっと「キラキラして充実した主婦」と言われるものなのかもしれない。
文面だけ見たら、
雑誌に載るような「切り取られた幸せ像」をなぞっているようにも見える。
これのどこに不安や不満があるんだろう?
そう、思われるのかもしれない。
だからといって、夫とは別に可もなく不可もなく、という仲だ。
仲が悪いわけではない、と思っているが
真相は夫にも聞いてみないとわからない。
昔は仲が良かった、と言い切れるけど。
「誕生日プレゼント、何がいい?」
「わたし、ときめきが欲しい」
「コンビニに売っていればなぁ」
そう言われて、大笑いしていたのは、もう昔のことだ。今はそんなことはない。
子供たちが元気なこと。
夫も元気なこと。
夫のお仕事がまだあること。
私の仕事もあること。
そんな日常が、当たり前になったのか?
それとも、何かが足りないと初めて気づいたのか?
何故かわからないけど、そんな日々は、いつしかモノトーンの幻になったのだ。
はて、いつから変わったんだろう?
毎日を過ごす。
それは生きていくことなのだ。
でも、生きていくこと自体、
希望なのか絶望なのか、実は、私にはよくわからない。
「生きてる限り死ぬもんだ」
そう祖父から教わって、ずっと生きているから。
小さかったからこそ、文字通りに受け取った。
私の祖父が10歳の時に、戦争が終わった。
そこから、復興まで、なかなかに過酷な時代だったそうだ。
祖父は北海道の田舎に住んでいた。
農村部といわれる場所だ。
食べることに困る、というのはあまりなかったけれども、
落ちてる鉄屑を拾っては業者に届けて、
買い取ってもらったりしていた。
そうしないと、現金は手に入らなかったから。
お金、としては持ってなかったけど、
サツマイモやかぼちゃなど、
そういったものを育てていたから、
食うに困る、というのはなかったらしい。
その小さいときの記憶は、86歳になった今でもあるのだ。
だからこそ、いも、くり、カボチャは好きじゃない。
「その時に食べすぎたからな」と
苦そうな顔で笑いながら教えてくれる。
ご飯に何か雑穀が混ざっているのも嫌がる。
白いご飯が大好きで、
お刺身が大好きで、
仕事があることが幸せ。
そんな祖父だ。
「健康と知識だけは、誰にも奪うことができない。
でもな、生きてる限り死ぬもんなんだ。
家は空襲で燃やされる。
お金は、何かがあったら価値が変わる。
そんなものを当てにして
生きるわけにはいかないんだ。
だから健康な体があって、
知識があれば、何度でもやり直せる。
何度でも立ち上がれる。
だからその2つだけは、
絶対になくしちゃいけないんだぞ」
そんなふうに教わった。
うちの祖父の尊敬するところは、
生きてる限り死ぬもんだと言った後に
「だからこうしなさい」とか
「だからアレしなさい」とかを言わないこと。
【だから】の後は自分で決めるところなのだ。
それぞれで考え方が違うって教えてくれる。
「生きてる限り死ぬもんだ。だから俺は精一杯生きる」
なのかもしれない。
「だから今を生きる」なのかもしれない。
まだ、たった35年しか生きていない私に【だから】につながる答えは、まだ見つからない。
だから人のために生きるのか?
人のために生きようって思ったこともある。
自分を犠牲にしてもいいって思ったこともある。
けれど、どちらもやっぱりどこかで、つらくなってしまった。
きっと、その時々の最適だったのかもしれないけれど、
人生の最適解では無いんだろう。
実は、「生きてる限り死ぬもんだ」と育った私は、生への執着が淡白だ。
でも、そんな私に「生きててほしい」と言った人がいた。
祖父でも親でもない。
他人から、そんなことを言われたこと自体が、奇跡的な出来事だった。
私自身の感覚としては
「死にたい」と常に思ってるわけじゃなくて
「生きる理由がない」ってだけなのだ。
しかし、あまり理解されることがない。
子どももいるのに、この世に未練が少なめなのだ。
「生きてる限り死ぬもんだ」を、
そのまま額面通りに受け取って
「死んだら、そこまでって、だけだなぁ」
と思って生きている。
「明日死ぬと思って今日を生きよう」というキャッチコピーもあるが
「ごもっともで」と思ってしまうのだ。
「やり残したことがあるでしょ? 悔いが残らないの?」
と聞かれることもある。
しかし、やり残しがあったとしても
「そこで退場」と神様が言ったなら、仕方ないかな、
と思ってしまう。
生まれたからには、生きる運命にあって、
確実に100%死に向かって進んでいるのだ。
子どもでも大人でも、きっとそれは変わらない。
誰かが生きていたかった今日を、私は生きている。
誰かがあきらめた明日を、きっと私は生きるのだ。
地に足がついているような、ついていないような、
ふわっとした私に
「生きてて欲しい」と言ってくれた。
しかも、他人が、である。血縁じゃないのだ。
「素直になっていい」
「生きてるだけで価値がある」
「価値がない人間なんていないし、キミに生きててほしい」
「そのままでいい。そばに居てくれるだけでいい」
「キミが死んだら、僕はきっと生きているけど、心は生きていけない」
私は「生きてる限り死ぬもんだ。だから……」の続きは知らない。
けど、そう言ってくれる人がいるから、
生きていようと思える。
こう言ってもらうこと自体が、生まれてきた意味、
とは思わないけど、
生まれてきた意味の1つかもしれない、と思えるのだ。
先日見たワンピースという国民的アニメで、
かなり衝撃的な技があった。
相手の悲しみや後悔の残る部分を、
幸せな幻に変換して見せて、その幻に浸ってる間に攻撃をする、
というものだった。
幻に浸ってる間は、確かに幸せなのかもしれない。
人間って誰しも後悔がある。
こうだったらよかったのに、とか。
こうしたらよかったのに、とか。
「あの出来事があったら今がある」と思えるのは、その【今】が幸せだからだ。
本人がふりきってしまったからだ。
そこまで行きついて、はじめて言えることなんだと思う。
でも、その後悔が、幻の中のように、後悔にならなかったら?
きっとそれは、その人が選ばなかった未来なのだ。
選ばなかった生き方なのだ。
だからこそ、幸せと感じるのかもしれない。
だって、まだ見ぬ道だから。
その道が幸せに続いている確信はないけど、
幸せだったかもと希望はもてる。
でも、アニメの中では、いつまでも幻の中には居られない。居たらやられてしまうのだ。
幻から覚めたら、また後悔した現実を突きつけられる。
何度も、何度も、喪失を味わうことになる。
失ってしまった人に幻なら会えるけど、
目が覚めたら、やっぱり居ないんだと感じてしまう。
幸せだった思い出とともに、
失った瞬間の痛みも、同時に思い出してしまうから。
それは、何度味わっても慣れないし、慣れてはいけない感覚かもしれない。
死んでしまった人にも、幻なら会えるけど、
目を開けたら、その人がいない現実は続いていく。
居たときのうれしかった記憶を思い出して、
ほっこりするかもしれないが、
また失う怖さまでも思い出してしまう。
幻なら、隣にいて欲しいと恋願う人にも会えるけど、
現実はもう手が届かない人だったりもする。
なかなかに残酷な技だな、と思ってしまったのだ。
生きている限り死ぬのは事実だ。
そこに後悔があろうと、なかろうと、不老不死はないのだから。
そんなときにふっと思う。
もしかしたら、
【死ぬからこそ……だから……】を探すのが人生なのかもしれない。
出逢いの1つ1つに
「生きててよかった」と感じられるから、
今日を生きる人もいる。
毎日、毎日、生きててよかった、と思うことはないけれど。
ふっとした瞬間に感じるんだ。
あっ、生きててよかったかもって。
その思いが、ふわふわと積み重なっていくように思えるのだ。
あの人にまた会いたい。そう思える人が周りにいること。
その人の笑顔や会話が思い浮かぶこと。
ケーキを食べに行って、今度はあの人と来ようと思い浮かぶこと。
一緒に見たいと思える風景があること。
迷惑をかけあってもいいよね、と、笑い合える人がいること。
強がらなくていいよ、と言ってくれる人がいること。
私も同じように「弱っているあなたのことも好きだよ」と言えること。
その人の前でなら、素直になれる、と思えること。
そんな出逢いと別れが、
折り重なって人生をつくっているような気がしてくる。
あふれるほどの光の束に包まれた街。
そこで大事な人に出逢えたこと。
空に見えるこぼれ落ちそうな星。
それを見せたいな、と思える人がいること。
眼下に見える人の生き様というネオン。
その夜景を見下ろすなら、あなたと一緒がいい、と思えること。
満員電車に乗らなきゃいけない。
そんな憂鬱なときでさえ、
あなたが隣にいてくれたら、
きっと二人だけの空間と思い込むことができるかもしれない。
朝、ゆっくり落としたコーヒー。
一緒に飲む? と声をかけたい人がいること。
おはようと言うと、おはようと返ってくること。
おやすみと言うと、おやすみが返ってくること。
そんな「誰か」がいなかったとしても、
私たち人間は一人で生きてはいないのだから。
おにぎりひとつでも、
自然に寄り添いながら、
お米を作ってくれた人がいる。
それを炊いておにぎりにしてくれた人がいる。
工場であっても、その機械を動かしている人がいる。
ひとりで生きているような錯覚にとらわれることもあるけれど、
きっと誰かの支えがあって生きているのだ。
生きてる限り死ぬもんだ。だから……
に続く答えは、
やっぱり持ち合わせていないけど
「生きてて、よかったかも」と思える瞬間を
たくさん集めていきたいな、と思うのだ。
集めているうちに、何かの答えにたどり着くかもしれないのだから。