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一服時間旅行

 8月の夜はぬるい。仲間と騒ぐには少し蒸し暑いが、ただ座っていると何とも言えないこの温度が心地いい。僕はそんなどうでもいいことを考えながら、ベランダで一人タバコを吸っている。二本の指で挟んだタバコを灰皿の縁に軽く当てる。灰を落とす仕草もすっかり喫煙者のそれだ。

 すっかり慣れた素振りの僕だが、初めてタバコを吸ったのは一年ほど前だ。古い居酒屋の外で吸ったのを昨日のことのように覚えている。ただ彼女に近づきたくて、誘ってくれたことが嬉しくて、盛大に咳き込んで笑われたのが懐かしい。気づけば自分で買うようになり、今も一人で喫っているが、あの時から一度も銘柄は変えていない。僕のいいところはたぶん一途なところだ。

 ベランダから見える部屋は散らかっている。きっとこれが本来の僕で、部屋が綺麗だったのは彼女がいたからなのだろう。机の上にはビールの空き瓶が置いたままになっている。サッポロの赤星。彼女から影響を受け続けた僕が、唯一彼女に影響を与えたとしたらこれだろう。ビールの旨さを共有できた時は、彼女を自分色に染められたようで嬉しかった。今も赤星のんでないかな、思い出してくれないかな、そんな情けない想像をしてしまう。

 居酒屋で赤星の大瓶を見つけた時は、一杯目に二人で分け合うのが僕たちの定番だった。一つの瓶を分けて互いのグラスに注ぎ合うだけで、僕は大事なものを共有しているように感じていた。そして酔っ払った彼女は可愛かった。僕の前以外は友達の前でもそんな姿を見せないところも好きだった。酔って甘える姿を思い出すたびに、今はもう他の誰かに見せているのだろうなと思って胸が痛む。

 僕は人の絵を描くのが苦手だ。美しいと思った物や風景を描くのは得意だが、人は常に色や形が変化しているように感じるから難しい。また、心から美しいと思えないと僕の筆はのってこない。そんな僕が唯一描いたのは彼女の絵だった。なぜなら美しいからだ。そして何の絵よりも苦しんだ。どう頑張っても僕が感じている美しさを形にできなかったからだ。

 彼女がいなくなってから一度も絵を描いていない。僕の中にあった微かな芸術性という泉は、今はもうすっかり枯れてしまったらしい。鉛筆やペン、スケッチブックを全部しまった黄色い缶は薄っすら埃を被っている。黄色い缶の鳩サブレーという赤い文字がベランダの窓越しにもはっきりと見える。鎌倉の海辺を歩く彼女も人混みの中で、はっきりと輝いて見えていた。今思うとベタすぎるお土産だったが、画材を封印するにはもってこいなのかもしれない。

 そして缶の下には彦根カロム。琵琶湖を海と勘違いして、気づいた時に腹を抱えて笑ったことを思い出す。彦根城は思ったよりも小さかったが、そんなことはどうでもよかった。彼女と経験や感情を共有できることが幸せだった。彦根で買ったこのボードゲームは、結局置物になっている時間が長かった。少しだけ器用な僕がいつも勝ってしまって、彼女が拗ねてしまったからだ。そんな姿も、なんて一人で思い出すのはもうやめにしよう。

 互いの友達を呼んで4人で酒を飲みながら遊んだのが懐かしい。今この家にあまり人は来ない。4人揃うことは更に珍しいし、彦根カロムが棚から動くことはもうないかもしれない。旅行の思い出と共に部屋の隅で眠ってもらうことにしよう。

 最近こんなことはやめていたのに、自分の部屋をベランダから眺めながら感傷に浸ってしまった。いつも過ごしている部屋を外から見ると、失った思い出があちこちに散らばっていて、他人の家のような感じがした。そんなことを考えている間にタバコはすっかり短くなっていた。

 もう一本吸おうと箱から半分抜き出して、やめた。半分出たタバコを人差し指で押しこんで、箱とライターを置いて立ち上がった。最近増えていた本数を明日から少しだけ減らしてみよう。次の休みには部屋の片付けでもしよう。きっかけはわからないが、僕はなんとなくそう決めた。

 多分人はこうやって前に進んでいくのだろう。過去は無くならないし完全に忘れることもない。幸せな思い出はそのままで、幸せの黄色い缶にひっそりとしまっておけばいい。そうして時々一人で、こんな風にその蓋を開けるのも悪くはない。いつか他の人を愛するその日まで。

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