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小国オランダの独立と世界覇権

オランダが16世紀にスペインから独立を達成し、その後、海の覇権を握り、世界的な貿易国家へと変貌を遂げた驚くべき歴史を振り返ります。


オランダの反乱と世界への影響力

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1)16世紀、ヨーロッパは大国の影響下にありましたが、オランダはスペインからの独立を果たしました。
2)スペインに反旗を翻したオランダは、その後、アジア・アフリカ・アメリカ大陸に貿易拠点を儲け、交易・金融の中心地として発展しました。
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オランダの独立からそれが国際承認を受けるまで(1568年~1648年)、80年間要したため、この独立の動きは80年戦争と呼ばれています。

オランダ 80年戦争

『オランダの独立』を学習した教材

今回も、ユーテラ世界史佐藤幸夫先生によるYoutubeの講義を参考にさせて頂きました。今回もハプスブルク家の家系図を使って分かりやすき解説頂いています。詳しくはこちらからご覧ください。

時代背景とオランダの反乱

ハプスブルグ家によるネーデルラントの支配

当時、ネーデルラント(現在のオランダとベルギー)は、スペイン領(ハプスブルク家の支配地)でした。

神聖ローマ帝国マクシミリアン1世の妃がブルゴーニュ公の一人娘であり、ブルゴーニュ公の領土は、ハプスブルグ家の支配下となりました。

オランダの反乱当時、ネーデルラント地域はスペイン国王フェリペ2世が支配する時代でした。

オランダの貴族と商人の反乱

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①.フェリペ2世は、この地域から更に搾取するために、重税を掛けます。
②.また、強烈なカトリック信者であるフェリペ2世は、ユグノー派の信者が多いこの地域でカトリックへの強制を行います。
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これらに対抗する形で、この地域の商業的繁栄と宗教的自由を求める気運が高まり、オランダは独立運動に火をつけました。

この時、ネーデルラントは、北部7州(ユトレヒト同盟)と南部10州(アレス同盟)が、それぞれ共同してスペインに抗戦を始めます。北部7州は、オラニエ公ウィリアムを指導者として抵抗します。
これに対して、スペインはカトリック教徒が多い南部10州に対して融和政策により懐柔し、南部同盟はその後もスペインの支配下におかれます。

16世紀ごろのネイザーラント地域の様子@世界の歴史まっぷ

独立とその国際的承認

1581年には北部7州が「ネーデルラント連邦共和国」を宣言し、オランダとしての独立を表明します。この独立は1648年のウェストファリア条約により国際的に認められ、オランダは公式に国家としての地位を確立しました。

注)現在のオランダの正式名称は、『Kingdom of Netherlands 』です。

オランダの海上覇権

その後、オランダは、スペイン・ポルトガルとの海上の覇権を争い、遂には当時の随一の貿易国家としての地位を確立します。

東インド会社や西インド会社を通じて、アジアやアフリカ、アメリカ大陸での貿易拠点を築きました。これらの会社は、香辛料や砂糖などの商品を欧州に運び、莫大な富をもたらしました。

オランダが海上覇権を握ることができたのは、スペイン・ポルトガルが植民地の支配活動を弱めたことが要因だったようです。オランダは、その地域からの略奪により、海上貿易の拠点を次々と抑えることができました。

17世紀なかばのヨーロッパ諸国の植民地@世界の歴史まっぷ

17世紀ごろオランダが貿易の拠点としていた地域
スリランカ・インドネシア・マラッカ・台湾・喜望峰(アフリカ)・ニューアムステルダム(北米)

世界の歴史まっぷ

オランダと江戸時代の日本との交流

江戸時代に日本は鎖国政策を行いました。その時にヨーロッパ国家として正式に交易を認められたのは、オランダでした。

これは、オランダがプロテスタントを国教とし、日本との交流は主に商業目的であり、キリスト教を布教する政策を取らない国だったためです。

まとめ / オランダの独立

オランダの独立とその後の発展は、小国がいかにして大国と対峙し、独自の道を切り開くことができるかの題材を提供しています。これは、主に下記のことが起因していると考えます。

  • オランダ商人がユグノー派であったこと

  • 小国ゆえ、海運・交易・金融業に乗り出さざるを得なかったこと

18世紀以降、オランダは世界の海上覇権をイギリスとフランスと争い、最終的にはその存在感は小さいものとなります。その歴史については改めて学習したいと思います。

最後まで読んで頂いてありがとうございます。オランダの歴史について考えることができました。次回は新たな地域の歴史をまた学習したいと思います。



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