中世ヨーロッパ / フランク王国の始まり / ゲルマン民族の大移動
今日は、ゲルマン民族の大移動(375年)が現在のドイツとフランスの基礎を築いたことについて学んでみましょう。覚えやすく言うなら、「375年はみなゴリラ」と覚えると良いかもしれません。
まとめ:ゲルマン民族の移動=西ヨーロッパ諸国の成立
この大移動が始まると、ヨーロッパ東北部のゲルマン民族の一派であるフランク族が、やがて現在のドイツとフランスの礎を作ることになります。彼らは、ローマの正統派キリスト教であるアタナシウス派に改宗し、ローマ人と融合することにより、後にフランク王国という国家を発展させました。
まとめ:西ローマ帝国の滅亡と復活(ローマ=カトリック教会の転機)
🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟
476年、西ローマ帝国が滅亡した後、ローマ=カトリック教会は政治的な後ろ盾を失いました。こうした状況で教会は、新たに支えてくれる勢力を求めていました。そのころ、フランク王国は勢力を拡大しており、教会との関係を深めることができました。教皇領の寄進や外部勢力の撃退を通じて、フランク王国はローマ=カトリック教会の庇護者としての立場を確立していきます。
そして、ついにローマ=カトリック教会から、西ローマ帝国として認められるようになります。それが、800年のカール大帝の戴冠です。
🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟
教材の紹介(ゲルマン民族の大移動)
今日学んだ内容の教材を二つ紹介します。どちらも、高校世界史以上の内容を知ることができ、とても分かりやすい教材となっています。
ゲルマン民族の大移動
375年、東ヨーロッパに住んでいたゲルマン民族が、遊牧民族のフン族による圧迫を受けて、西ヨーロッパへと移動を開始します。この移動が、現在のフランス、ドイツ、イギリスなどを含む地域に多くのゲルマン系の王国を作るきっかけとなりました。彼らは、ローマ帝国との戦闘や交渉を繰り返し、最終的には西ヨーロッパの広範囲に定住し、それぞれの国を成立させました。
これらのゲルマン民族が立ち上げた国家は、しばらく勢力を保ちましたが、ローマ帝国や後のイスラム王朝との対立を経て、多くの民族国家は衰退していきます。そして、476年には、ゲルマンの傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国が滅ぼされることとなります。
ローマ=カトリック教会とその役割
ローマ=カトリック教会は、当初はローマ帝国の権威を背景にしていましたが、西ローマ帝国の滅亡後はその政治的庇護を失い、東ローマ帝国に頼らざるを得ない状況に陥ります。しかし、8世紀に入ると、東ローマ帝国が聖像禁止令を発令したことが、カトリック教会とコンスタンティノープル教会との対立を深める要因となりました。
フランク王国の台頭
フランク族は、ライン川付近に移動し、現在のフランスとドイツ地域で発展を遂げました。
メロヴィング朝フランク王国の成立(5世紀末)
フランク王国の国王クローヴィスは、ゲルマン民族が信仰していたアリウス派キリスト教から、当時の正統派キリスト教であるアタナシウス派に改宗します。この改宗を契機に、フランク王国はローマ人との融和を進め、次第に西ヨーロッパで大きな勢力を築くことになります。
カロリング朝フランク王国(8世紀)
8世紀には、メロヴィング朝の王政が弱体化し、各地に派遣された宮宰が実質的に国政を支配するようになります。この時期に登場したのが、宮宰カール・マルテルです。
カール・マルテルの活躍
カール・マルテルは、フランク王国の実力者となり、特に732年のトゥール・ポアティエ間の戦いで、イベリア半島に進出してきたイスラム軍を撃退しました。この勝利により、カールはローマ=カトリック教会から絶大な信頼を得ます。
宮宰ピピンの寄進
カール・マルテルの子であるピピンは、フランク王国の実質的な指導者となり、ローマ教皇との関係を深めました。ピピンはイタリアのラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進し、その功績によってフランク王国の王位につきます(カロリング朝の始まり)(751年)。
カール大帝の戴冠(800年)
ピピンの死後、フランク王国を引き継いだカール大帝は、フランク王国をさらに拡大し、西ヨーロッパでの大国の地位を確立します。そして、ついにローマ=カトリック教会はカールを西ローマ帝国の皇帝として戴冠させることを決定します。
これにより、カール大帝は神聖ローマ帝国の皇帝として、教会の庇護者となり、カトリック教会の普及や領土内の政治の安定を担うことになります。
結論:ゲルマン民族の大移動とフランク王国の成立
🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟
ゲルマン民族の大移動からカール大帝の戴冠に至るまでの歴史的出来事は、ヨーロッパの国家形成や教会の権威を大きく変える転換点でした。フランク王国の台頭とローマ=カトリック教会との関係強化は、後の中世ヨーロッパにおける教会と国家の関係の基礎を作り、その後の西ヨーロッパの歴史に深い影響を与えました。
この学習を通して、ドイツという国の起源がゲルマン人にあることを理解することができました。もちろん、ヨーロッパの歴史全てを理解したわけではありませんが、この時代の大きな転換点を学べたことは本当にうれしいことです。
🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟
おまけ:フランク王国の分裂とフランス・ドイツ・イタリア
カール大帝の没後その孫の世代で、フランク王国は三つに分裂します。それは、フランク民族の古い慣習『男子分割相続制度』の影響です。彼の孫が王国を引き継ぐ際、三兄弟が国を相続しますが、その際王国は三分割されることとなりました。
その三分割された地域が今のフランス・イタリア・ドイツの基礎となりました。
ヴェルダン条約(843年):カール大帝の孫たちは、フランク王国を分割想像駆使ます。長男が、西ローマ帝国皇帝と中フランク王国を、三男が東フランク王国を、四男が西フランク王国をそれぞれ相続します。この相続は、ヴェルダンで結ばれました。
メルセン条約(870年):その後、中フランク王国国王の死により、三国間で再び相続をめぐる争いが起きます。中フランク王国は一部を東西フランク王国に取り込まれ、一部はイタリア王国として生まれ変わりました。
この相続は、メルセンで結ばれました。
まだまだ知りたいヨーロッパ。これからも学び続けたいと思います。最後まで読んでいただいてありがとうございます。