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30年戦争とオーストリアとプロイセンの争い

ヨーロッパ史の大きな転換点となった30年戦争。この戦争を境に神聖ローマ帝国の勢力は衰え、オーストリアとプロイセンという二つの大国が頭角を現しました。今回は、この争いの背景からその後の両国の近代化までを一緒に探っていきましょう。


この記事のまとめ

現在のドイツ・オーストリアにあたる神聖ローマ帝国が、17世紀後半から一気に影響度が低下します。17世紀に始まった30年戦争がその大きな一因です。この戦争が終わると帝国の皇帝のその諸侯に対する影響力が小さくなります。それ以降、新たに頭角を表したホーエンツォレルン家/プロイセン王国、ハプスブルグ家/オーストリア、バイエルン、ザクセンの有力諸侯の争いが始まります。

これらの争いは、オーストリアとプロイセンの二つの国家の争いとなり、その他のヨーロッパ諸国を含む戦争に発展します。これをきっかけにプロイセンはヨーロッパ諸国から強国として認められるようになったと言えます。また、この争いの中心物であった、オーストリア/マリア・テレジアプロイセン/フリードリヒ2世が、更に国の近代化を進めた立役者として、現在も両国で語い継がれているようです。

「プロイセンはいつごろ誕生したのか?」「マリア・テレジアはどのようにしてオーストリアを導いたのか?」といった疑問を掘り下げながら、この時代の魅力を探っていきたいと思います。

歴史の舞台裏を知りながら、ヨーロッパの近代史を少しだけ身近に感じていただけると嬉しいです。それでは、一緒に学んでいきましょう!

16世紀半ばのヨーロッパ情勢@世界の歴史まっぷ

『30年戦争とオーストリアとプロイセンの争い』を学んだ教材

今日もユーテラ世界史/佐藤幸夫先生のYoutubeを参考にさせて頂きました。オーストリア/ハプスブルグ家の家系図を用いて、登場人物からこの頃の歴史を解説されています。ご興味あれば、ぜひご覧頂けたらと思います。

30年戦争と神聖ローマ帝国の衰退

まずは、30年戦争についてです。1618年、ボヘミア(現在のチェコ)でカトリック信仰を強制するハプスブルク家の政策にプロテスタント諸侯が反発し、「ベーメンの反乱」が勃発しました。これを皮切りに、戦争はスウェーデン、フランス、オランダなど多くの国々を巻き込み、ヨーロッパ全土を揺るがす宗教戦争へと発展します。

30年にわたる戦いの果て、1648年に締結されたウェストファリア条約は、プロテスタント諸国に有利な内容でした。スウェーデンはバルト海の覇権を握り、フランスはアルザス地方を獲得するなど、神聖ローマ帝国は各国に領土を奪われ、諸侯の独立が進む結果となりました。この条約を境に、神聖ローマ帝国の皇帝権は大きく衰退したのです。

プロイセンの登場と軍国主義の台頭

その後、衰退した神聖ローマ帝国の中で、プロイセンという新たな勢力が台頭します。もともとポーランドに属していたプロイセン公国は、ホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯国と同君連合を形成し、30年戦争後にはプロイセン王国としてその存在感を強めます。

18世紀初頭、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム(兵隊王)は強力な常備軍を整備し、軍国主義の基盤を築きました。この軍事力が、プロイセンが後にヨーロッパ大国として認められる礎となったのです。

女帝マリア・テレジアとプロイセン王フリードリヒ2世の戦い


マリア=テレジア/世界の歴史まっぷ

オーストリア側では、ハプスブルク家の皇帝カール6世が男子の後継者を持たず、娘マリア・テレジアがその後を継ぐことになりました。しかし、これに反発した諸国がオーストリア継承戦争(1740-1748年)を引き起こします。

プロイセン王フリードリヒ2世(大王)は、戦争開始早々にオーストリアの重要なシレジア地方に侵攻し、その豊かな資源を掌握しました。この戦争はアーヘンの和約で講和が成立し、シレジアはプロイセン領となりましたが、マリア・テレジアはその奪還を諦めることなく再び戦争(7年戦争:1756-1763年)を起こします。

オーストリアはフランスやロシアとの同盟を築き、プロイセンを包囲しようとしましたが、最終的にはプロイセンがシレジアを保持する形で戦争は終結。これにより、プロイセンは軍事大国としての地位を確立しました。

外交革命(1756年)
シレジアの奪還を目指すマリア・テレジアは、神聖ローマ帝国と骨肉の争いを繰り返していたフランスと同盟を結び、プロイセンとの戦いに備えます。この両国の同盟は、過去の歴史を覆す出来事だったため、外交革命と呼ばれるようになりました。

近代化への歩み:オーストリアとプロイセンの対比

戦争の結果、両国は近代化への道を進みます。プロイセンではフリードリヒ2世が行政改革、教育改革、農業振興を進め、強固な国家基盤を築きました。一方、オーストリアではマリア・テレジアが宗教改革や農奴解放を進め、息子ヨーゼフ2世へとその改革のバトンを引き継ぎます。

この二人のリーダーは、国を守り発展させるためにあらゆる努力を惜しまず、その成果は今も語り継がれています。両国が切磋琢磨しながら進めた近代化のプロセスは、ヨーロッパの歴史における重要なパートと言えるでしょう。

まとめ:情熱と執念が形作った歴史

30年戦争後の混乱の中で台頭したオーストリアとプロイセン。両国の争いは単なる領土の奪い合いではなく、国家の存続と未来をかけた戦いでした。その背後には、マリア・テレジアとフリードリヒ2世という二人の偉大なリーダーの情熱と執念がありました。

フリードリヒ2世@世界の歴史まっぷ

この時代を振り返ると、リーダーが国を導く責任の重さ、そしてその努力が後世に与えた影響の大きさを感じずにはいられません。彼らが築いた基盤は、現在のヨーロッパにおけるドイツとオーストリアの存在感に繋がっているのです。

この両国の歴史を更に学習し、新たな発見したいと思います。ヨーロッパの歴史は、学ぶほどにその奥深さを感じさせてくれるものです。

最後まで読んで頂いてありがとうございます。いよいよ近世ヨーロッパの大きな歴史転換点のフランス革命を迎えます。これからも、世界史の学習を楽しみたいと思います。

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