善人を気取らなくてはならない

何者であれ、心にはいつも不平不満が漂う。絶えず何かが不足し、満たされないことが、人類をここまで進歩させてきたのは当然といえよう。

だが、不平不満がすべて進歩の源になるわけではない。お堅いお利口ぶって遠回しに漏らす不平不満や、わがままに騒ぐ不平不満、マウントを取ろうとする不平不満には何の意味もない。

不平不満を口に出さず、心に溜め込む人もいる。うっかりそれを口にしないように慎重に言葉を選ぶことが、彼らにとってのコミュニケーションの難しさだろう。しかし匿名性が与えられると、不平不満を吐き出す。この不平不満も何の意味もない。

他者の不平不満は、彼らにとってはストレスとなる。そしてそのストレスは、直接的な口論、陰口、ネット上の論争として自分に跳ね返ってくる。

人間は絶えず不平不満を抱き、それを発せずにはいられず、ストレスのボールをやり取りし続ける。このボールのゲームに敗れた者は、精神的な病を患う。

人間は本質的に仲良しになれない種だ。それなのに「常識」や「社会性」、「モラル」といった言葉を説く。これらは、人間の悪辣な本性を過剰に否定する規則である。野生動物にもルールがあるが、それは種の本質に合わせて適切なバランスで成り立っている。

人間の本質を否定する規則は、もはや機能していない。SNSの台頭がそれを明確に示している。人間はどれだけ倫理やモラルを教え込まれようとも、抑えきれないその悪辣さを、言葉の暴力として示し始めている。

人間は、自らの正義に反するものに不平不満を抱き、排除しようとする。その過程で、人を物理的に傷つけたり、精神的に苦しめたりすることを厭わない。特に、精神的な暴力に対する積極性が顕著である。

断罪、リンチ、復讐。人間はこれらを正義の名の下に行い、その物語を異常に好む。身体的な暴力だけでは足りず、精神的な暴力を加えることで、最高の快楽を得ようとする。

しかし、人間の本質を理解しているからこそ、善人を演じなければならない。自らの大切な家族を守るためには、常に、凶悪な人間という存在がうようよと蠢いていることを念頭におかねばならない。害を及ぼされたくないからこそ、「仲良くしなければならない」のだ。

正直に言うと、自らの大切な人間以外がどうなろうが気にならないし、心からどうでもいいと思っているだろう。近寄るな、憎らしい、不満だ、そう感じているのは人間であれば当然だ。

だが、それは自分だけのことではない。周囲の人々が皆そうだからこそ、自分も善人を装わなければならない。人間という気味の悪い生き物は、少しでも油断すると害をなす。上手く共存するためには、常に善人を演じる必要があるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?