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長編小説「紡がれた僕らに終わりの春を」第七章

第七章「ラブホテル・バレンティン」

 このごろ東京でも雪がちらつくようになった。汚れたアスファルトに遠慮がちに広がった白は、数時間経つといろんな人間に踏まれて鼠色に濁っていった。
 改札を出てすぐに白い息が出る。汚れて湿ったアスファルトを踏んで家に帰る。
 ――家にいてくれる?夜になったらふたりで迎えに行くから。
 母親の引っ越しの話がついに決まったらしかった。ふたりで暮らす前に、真央くんに会っておきたい、泉さんは母親にそう言ったらしい。母親もそれを飲み、金曜日の夜、仕事帰りのまま僕を迎えに来ることになった。
 ちゃんとした服を着て、ねぐせなんてついたままにしておかないで。部屋は片付けておいて。
 母親は早口で僕にそう言いつけると、すぐに電話を切ってしまった。
大学の講義を終えると、まっすぐ改札を通って電車に乗った。寄り道をしたら間に合わないと思った。枕もとの小瓶をどこかへしまわないといけなかったし、洗い物をすませて洗濯物は畳まないといけなかった。
 いつもの暮らしで、つまらないいろいろをあとまわしにしているツケが、ときどきこうやって跳ね返ってくる。
 鍵を回して玄関でスニーカーを脱ぎ、転がったから揃える。
 自分の部屋に帰ってきたのに、僕は僕じゃなくなっていく気がする。
 鍵の回し方。ドアの開け方。靴を脱いでそろえること。手を洗ってうがいをすること。ひとつひとつの動作に靄がかかっていく。
 恥をかきたくない、そんな母親の気持ちくらいわかっているつもりだった。だから寄り道せずに帰ってきたし、今こうして干しっぱなしだった洗濯物を取りこんだ。夜の風に冷えてかたくなったタオルは頬に刺さる。繊維はいつからこんなに嫌な感じになったんだっけ。
 床に座りこんでタオルを畳んでいた。嫌なくらい丁寧に。
 さっき手を洗ったときもそうだった。嫌なくらい丁寧に。いつもの僕はこんなに丁寧に暮らしたことなんかなかったかもしれない。
 こうやって自分の行動をいちいち認識しはじめると、なぜか猛烈な不安と焦りがぐっとせりあがってきてやりきれない気持ちになってくる。
 タオルを畳む。部屋は当たり前に静かで、時間の経過がわからなくて眩暈がしそうになる。
 よれて癖のついたタオルを意味もなく伸ばしながら、そこへうっすら泉さんの顔を頭の中で書いてみる。母親はいつも色の白くて線の細い、我の弱そうな男を選びがちだった。父親がいつもはっきりした人間だったせいなのか、僕は知らない。
 押しつぶすみたいに新しく畳んだタオルを重ねる。ため息が出る。
 普通だったら。
 普通だったら、嬉しいのかもしれない。
 僕にはもうお父さんなんて存在がいなかった、でも泉さんはもしかしたら僕の新しいお父さんになる男の人なのかもしれない。ふと、バカみたいに単純になってみたらいいんじゃないかと思った。
 ちゃんとした人よ。
 あの梅雨に、母親はたしかにそう言った。ちゃんとした人ってなんのことを言うんだろう。不動産勤めの泉さんがちゃんとした人なのは、収入が安定しているからなのか、それとも、
 ……考えるのが嫌になった。僕はずっとこうやって考え続けていたのに、今もまだそうやって頭を悩ませる必要があるんだろうか。
 たかが、母親の彼氏ひとりに。
 脳内にその言葉を吐きだしてみて、あーなんかだめだな、と思った。
 母親の彼氏。
 母親の特別だからって、それが僕の特別になる公式はどこにもない。
 あるのはこじつけと、それをなにかの薬になるかもなんて信じて飲みこむための情だけだ。
 ――そうだ、僕が欲しかったものなんてどこにもない。
 だって全部あの人が……母親が奪って、それなのに僕にひとつも返してくれなかった。
 僕は信じていた。信じていたから、全部あの人が触れてもいいようにしていたはずだった。
 畳んでいた潔癖そうなタオルの山を蹴り飛ばした。
 小さな繊維が舞い、タオルはあっけなく崩れて床にへばりついていく。
 血のつながりなんて、どうでもいいことしか証明してくれない。僕があの人から産まれたということ。それだけだ。目や鼻や声や全部の造りがオリジナルじゃない、僕をつむぎだしたふたりのパーツを借りてかたどっただけだ。
 僕が僕らしく生きることなんて、はなから無理だった。
 僕はゼロの存在じゃない。両親からレイテンゴずつもらって、合わせてイチで生きている。
 くだらない。今になってどうしてまだ、機嫌なんてとろうとしてるんだろう。
 時計は十八時五十二分をさしていた。泉さんたちは十九時に迎えに来ると言っていた。
床で潰れていたショルダーバッグを拾い上げて、枕もとの小瓶を全部そこに入れた。
 スニーカーをつっかけてドアに体当たりする。外に飛び出す。
 飛び出したら、引っかかった袖口みたいな迷いが、同じようにどこかへ飛んでいった。

 息が白く濁り、冷たい夜の風に混ざって消えていく。
 僕が息をしていることを次々隠そうとするみたいに。
 セージのアパートに続く道の記憶はあいまいだった。似たような建物を見つけては少しずつセージの領域に足を踏み入れていく安心感に溺れていく。
着けばいい。戻らなければいい。
 一瞬、僕のいないアパートで苛立った顔を浮かべる母親を想像してみたりもした。泉さんの前でも、母親はいつも通りの不安定さを見せるのだろうか。それともなんか全部、偽っていたりするんだろうか。
 偽った母親の姿を見ながら三人で食事なんかできるわけなかった。不動産業のエリートだかなんだか知らないけれど、それでちゃんと恋人の息子に挨拶して誠意でも見せるつもりなのか知らないけど、そういうちゃんとした大人なんか僕の人生にいらない。勝手にやってろ。
 アスファルトの跳ね返りが強い気がした。もう行けるところまで行けよ、そう言われている気がした。今更戻っても、今度は帰れない気がした。もうそれでいい。
 息がきれて肺が冷えきったころ、セージのアパートにたどりついた。ずらりと整頓されたほんの背表紙みたいにならぶ窓、記憶を辿って目線で彼の部屋を辿る。うすぐらいオレンジ色。
 セージがいる。
 はっとして、ほっとした。帰る場所があったことに。

 チャイムを押しこんですぐ、チェーンの伸びたドアが開いた。たいした距離じゃなかったはずなのに、僕の息は切れていた。
 数センチの隙間からセージの目が僕をとらえた。まお。数段やわらかい声が僕の名前をなぞり、その瞬間に力が抜けそうになる。セージがチェーンを外した。玄関の明かりがつき、ぼやけたオレンジ色が滲む。
「どうしたの、」
「なんかバックレる。一緒に行こう」最後の声がちょっと揺れた。
 セージが一瞬目を見開いて、それから、わかった、とすんなり返事した。ちょっと待ってて。そんな言葉と一緒にドアが鼻先で閉まり、数分後、再び開いた。
「付き合う」
 大きめのショルダーバッグを持って、セージは出てきた。玄関の鍵が音をたてて確かに閉まった瞬間、僕のなにかが決定した気がした。
 現実逃避だ明日のことなんかもう全部どうでもいいそもそもこれからのことすらどうでもよかったんだし、駐輪場でセージがチャリに鍵を回す。外れたチューブ状の鍵をカゴに放りこんで、その上に自分のバッグも放りこんで、セージがスタンドを蹴り飛ばす。
「乗っちゃえ」
 僕も飛び乗る。ぐらりと自転車が大きく揺れてヒヤッとする。ふたりでバランスを取る。ちょうどいいところで僕はセージの肩に手を置く。
 からからから、とタイヤが回ると、じかじかじか、とぎこちなく白いライトがつく。冷たい夜の風に髪が揺れる。僕とセージの白い息が混ざりあって、やっぱりすぐに溶けて消える。
「どこまで」
「おまかせで」
 まかせろ、と言ってセージがペダルに全体重をかける。自転車は不確かに揺れる。僕らでバランスをとってアパートを出ていく。がたついたアスファルトに白い外灯、路上の端っこにはかき集められてかたくなってしまった雪の残骸。積もらなくてよかった、とセージが言った。ふたりして滑って転んでた。やばいよそれは、とふたりで笑う。
 顔に始終冷たい空気がぶつかる。セージの肩に置いた手にときどき力が入る。自分の肩にかけたバッグが重たくて、でも気にしないことにする。
 会話はほとんどしなかった。言葉がなくても安心できた。
 町はまだ明るい。自転車で走れる場所をずっと行った。夜に知らないふりするみたいに、町は光を灯して過ごしていた。人工的な光が月の光よりはっきりと眩しく僕たちを見おろす。
 あついよー、とセージが明るく言った。冷たい風が吹く川の上、橋を通っているときだった。肩の温度は踏み出したころより確かにあたたかい気がした。僕のからだもあたたまっていた。
「全然寒くない」子どもじみた強がりみたいな言葉が出る。前に飛んでいく。「でも耳が痛い」
 わかるー、とセージが言う。耳、すげー、つめてー。
 川の音は空間を切る鈍いはさみみたいだった。少しずつ僕とセージが進んでいるこの空間を、うしろから順番に切り落としていくような感覚。
戻れないんだろうな、と思った。なにかからはもう。

 どこかで眠ればいいよ。でも、なにか食べよう。
 しばらく走って、ふいにセージがそう言った。そうだね、と僕は冷たくなっていく頬をさすっていた。セージの足が痛くないか気になってきて、おりよう、と言った。
 自転車をとめた自販機の前、バッグをふたり肩からさげたまま座った。吐く息が白いけど、町をずっと走ってきたから、からだはそれほど冷たくなかった。
 胃が低く鳴いた。
 セージがスマホを取り出す。青白い自販機の光より無遠慮にスマホのブルーライトが僕らの顔を照らす。
 セージが開いたマップで自分たちの現在地を確認する。それからふと、スマホの左上の時刻を確認する。思っていたより僕らは遠くになんか行っていなかったし、思っていたより時間は経っていなかった。向こう側に広がる町はまだ眠気なんか見せない。
「遠くにきたと思った」僕はひとりごとを呟いた。「全然だ」
「俺も思った」
 セージもひとりごとみたいに言った。ふたりの白い息がまたあいまいに溶けていく。
「ここって狭いと思ってた。どこもかしこも」
「広かったね」
 じん、と自販機が僕らのあてのない会話に返事をする。
「野宿したら死ぬよね」
「通報されるかも」
「されたらこまるなあ」
 ふたりして力のない適当な笑い声をもらした。
「……母さん、探してるかな」
「真央を」
「うん、……いや、怒ってるな。たぶん。でもいいんだよね」僕は半ば僕自身に言い聞かせるために言葉を吐き出していた。「僕だってずっと怒ってた」
「お母さんに」
「うん」
 セージのからだに頭をおしつける。厚い上着がぶつかりあって、お互いのからだの輪郭なんかわからない。それでもそのあいまいさでほっとした。白い息が細く伸びて消えて繰り返す。
「僕怒ってたんだ」
 怒ってた。繰り返す。怒ってた。ずっと怒ってた。
 僕は怒ってた。
 ずっと自由でいようとする母親に。金魚と一緒に僕を置いていった母親に。僕を産んだなら疎ましいなんて思ってほしくなかった。だって僕は僕の意思で生まれてきたんじゃない。勝手だ。母さんは勝手だ。知るか。僕がいたからどうこうなんて知るかよ。
 そんなん全部自分のせいだろ。
 鼻水が垂れてきてすする。寒い?セージが遠慮がちに聞く。首を振る。
「セージ。僕、ずっと……僕が怒るのは、ちがうって思ってた」
 セージが僕を見つめる。スマホの光で目が痛い。
「怒っていいって思ったことなかった――でも僕ずっと怒ってた。セージ、僕、……生まれてきたくなかったな。生まれたら死にたいって簡単に思うけど、簡単には死ねなくなるよ、糸かなんかでぐるぐる巻きにされて吊るされてるみたいで。責任とか存在理由とか、この世界なんてずっと空席みたいなものなのになんかだめなんだ、座ってないとだめな気がする、僕以外に僕の責任をとってくれるものなんてなにもないから、生きるしかなくなって、そのためにはあきらめるしかなくなって、怒ったってしかたないなら耐える、って思うしか……」
 ごめん、と呟いて口を閉じた。睫毛に絡まる風がさっきより冷たくなっている。なにを言いたかったかわからなくなる。いつもこうなる。じゃあ僕はやっぱり怒ってなんかないのかもしれない。
「……怒る、って感情が、僕、いちばんわかんないよ」
 声が湿る。でも僕の目は乾いている。瞬きを繰り返す。すっかりセージによりかかっても、セージはじっと僕のために動かないで座っていた。
「……真央、もっと、怒ろうよ」
「……もっと怒りたいよ」
「全部ゆるさなくていいよ。だって昔習った教科書に、自分の痛みは自分だけのものだって書いてあった。俺はそれ、ぶっちゃけ、嘘言うなよって思ったけど、でも、嘘も必要だよ。自分を正直に受け止めるには、だまさなくちゃいけないときが絶対にある。嘘ついたって」
 俺は、だって、噓ばっかついて生きてきたよ。今も嘘ばっかりだよ。
 セージはそう言った。スマホの左上、時間はやっぱり少しずつしか進んではくれなくて、毎日決まりきった速度でしか進めない一日一日を、僕たちはどうしてこんなに急いだり泣いたり苦しんだりしないとやっていけないのだろうと思う。
 一日はたった二十四時間しかない。それなのに一秒一秒がどうしようもなく嫌になって、なにもかも放りだして意味のないものにしてしまいたいときが絶対にある。
 時間は最低だ。
「……どこかに泊まろう」
 うん、と返事する。向かいの道の端、資源ごみが見える。白い紐できつく縛られた段ボールたちが重なりあって暖をとっている。支える電柱だけが寒そうに突っ立っていた。
「なにか食べてなにも考えないで寝よう」セージの声が頭上でやわらかく響く。「明日のことなんか、もともとどうでもいいんだからさ」
 安いビジネスホテルを探したけれど、すぐに入れる部屋はなかった。居場所がないな、と思う。こんなどうでもいいことで、そんなもっとどうでもいいことを思う。
 あ、とセージが声を出す。ここ予約とれる。ほんと、と言いながらふたりでスマホを覗きこむ。グーグルマップに表示されたホテルの写真、その下に青い字でラブホテルと書いてあった。
「セージ、だめだこれラブホ」
「え、なんだよ」セージが呆れたような声を出す。「じゃあだめだ」
「でもここで寝たら死ぬかな」
「俺のアパートに泊まればいいのに」
「ううんいいよ、戻らなくちゃいけないよ」
「俺はかまわないよ」
「……戻りたくない」
 うん、とセージが優しく返事をしてくれて、かたまりだしていた気持ちがまたゆるむ。セージの言葉やその温度はいつも僕の輪郭を溶かしてかたまらないようにしてくれる。それでいいと思う。かためた気持ちはいつも僕を攻撃するだけだから、かたちになってほしくない。
「じゃあ戻らないでいよう」
「ねえセージ、別に普通に寝るだけなんだしここでもいいよ」
「そりゃそうだけど」セージが笑う。「そうに決まってんだろ」
「うわー、ちょっとやめてよセージ、僕は穏やかに寝たいよ」
「勘弁してよ」
 セージが僕の頭をうしろからやわらかく掴んで髪を掻き混ぜる。僕はお返しにセージの腹に軽く頭を押しつけた。真央の頭かたいんだけど、とセージが文句を言うのを無視した。
「行こう、こっから遠い?」
「徒歩十分だって。自転車ならすぐだ」
「凍え死ぬ。あったかいもん食べてエーブイ見て寝よう」
「嫌すぎる、俺は辞退しますそれ」
 ぶははは、とふたりで変な笑い方をする。つーか俺たちどんな顔で見られると思う。そういうやつらだって思われて、そっと、んで、なんも言われずにすんなり入れると思う。
 たしかに、と僕らはまた笑う。
 触れあっている肩口同士が、ほんのちょっとだけあたたかい気がしている。
「そうしようか」
「そうしよう、全滅じゃしかたない」
「わ、なんかマジで面白そう」セージはまだ笑っている。「ホテルの名前、逃避行じゃん」
「え、なんてなんて」
「アバンチュール。フランス語で逃避行だ、たしか」
「アバンチュール」
 ぶふ、と僕が吹きだす。ふたりして視界が滲むくらい声を殺して笑っている。笑いながら、どうでもいいことで笑いたかったんだ、と気がつく。でもそれは言わないまま。
 なんだよこの部屋、とか、いやいやここ通されたらどうすんの、とか写真見ながら馬鹿なこと言い合って、僕らはようやく自転車に乗った。からだはもう冷え切っている。
 寒いなあとセージが言う。当たり前のことを言う。僕も言う。当たり前を当たり前に感じるのは当たり前なようで難しいなんてまたどうでもいいことを思いながら。

 ちょうど行く道にあったから、コンビニに寄った。
 飛びこむと空調の温度があたたかく僕らに膜を作る。あったかあ、とセージが呟く。それから入り口傍の棚にチョコレートの紙袋が並んでいるのに目をとめる。バレンタイン、と書かれたポップがでかでかと棚を主張している。
「気が早い」セージがまた呟く。「でも季節が終わるの早すぎるよな」
「今月の中旬にはもうホワイトデーが並ぶよ」
「だろうな」
 いらしゃませえ、独特のイントネーションに顔を向けると、外国人の店員がやる気のない目で僕らを見つめていた。目が合いそうになって上着に顎下を埋める。
「どこもそう」セージはつまらなそうに青い紙袋に触れた。「コンビニのバレンタインチョコと、一個百円しないチロルチョコって、どっちが本命に見えるんだろうね」
 わかんない、と僕は笑った。モノを渡すだけで愛情図るなんて変なイベントだ。でも目に見えるやりとりがないとずっと不安なんだとも思う。人間ってそうだ。目に見えないものが大事なんていう言葉が美学とされているくらい、目に見えるものばかりにとらわれてるせいで。
 目に見えなくたって大事じゃないものも当然あるのに。
 弁当やおにぎりを見たけど食べたいものはなくて、ふたりでカップラーメンを物色する。
「かやく、ってさあ」僕より先に座りこんだセージが口を開く。
「うん?」隣にかがむ。棚のほこりが気になる。
「なんでかやくっていうんだろう」
「なんでだろう」
 僕らは意味もなく一番下の棚を見つめている。かがむと足が痛いけど、僕が立つとセージが視界から見切れるから、不安になる。
「爆発するって思ってなかった?小さいころ」セージはカップ焼きそばに手を伸ばす。
「思ってたかも」隣のわかめラーメンを手に取る。軽い感触。乾いた麺が容器にぶつかる。
 セージはなぜかどこか物憂げな顔で、手に取ったカップ焼きそばを見つめていた。その横顔には、チルド棚の光を背にしているせいで大きな影がかぶっている。
「お湯入れて、どーん、ってなったら、こまるな」
 セージはあいまいなことを言ってカップ焼きそばをかごに入れた。僕も結局同じものを入れた。オレンジ色のカゴの中で彼らはからからとなにか話し合っていた。
 支払いを済ませて袋を受け取る。セージが店員に会釈して先に出ていく。僕も袋をぶら下げてあとをついていこうとしたら、尻でスマホが震えた。
 母さん、と表示されたアイコンが苛立たし気に僕を睨みつけていた。時刻は二十時に近かった。通知を全部切っているからわからないけれど、どうせラインも来ている気がする。
 店員と再び目が合う。会釈をして自動ドアに足を向ける。明日のことなんかどうでもいいとセージは言った。明日がどうでもいいんだから、今日や今のことだってどうでもいい。
 自動ドアの塞いでいた夜風が鼻先に刺さるから寒い。コンビニの人工的な温風に数秒で慣れてしまっていた頬をさすって、人間ってどこまでも単純にできているなと思う。数歩前を行くセージに大股で近寄る。セージが振り返る。
「あと何分くらいかな」カゴにビニール袋を入れたら、またカップラーメンがなにかを言った。「腹減ったね」
「減った。着いたらすぐ食べよう」
 セージがスタンドを蹴り上げる。
さっきよりセージの肩が冷たい気がするけど、もともと厚い上着を着ているんだから体温なんてわかるわけがなかった。
「真央」
「うん」
 青信号を待ちながら、セージが口を開く。
「さっき調べたんだけどさ」尻がまた震えている気がした。自転車がとまっているうちに、画面は見ないで上着のポケットに入れ替える。「かやく」
「なんだった?」車道の信号が黄色く点滅し始める。
「加える、に、薬、って書いて、かやく」セージがペダルに足をかける。
「ダイナマイトじゃなかったね」青信号になる。
「ダイナマイトは火薬?爆弾?」セージが大きく踏みこむ。
「爆弾?なんだろうな、わかんないな」自転車が揺れてまた風が起きる。
 僕らを通すためにとまっている車がふと目について、信号の光を跳ね返す金属に嫌味な感じがするなと思った。エンブレムでわかる高級車。ボンネットで散る赤信号の光――運転席でハンドルを握る手と、助手席で窓に寄りかかっている女。
「……は、」
 かすかな声が出た。僕らを追い越していった自転車が、僕の声と風を混ぜこんで消える。
セージには聞こえなかったらしい。セージの肩に指が食いこむ。
落ちたくなかった。
「ついたよ」
 セージの声ではっと顔を上げる。
 広々とした駐車場には数台の車がお互いを避けているみたいに散り散りに駐車されている。寒々しい空間。奥で頼りなく光るピンクのネオン。
 自転車から降りる。細い金属パーツに乗せていた足がコンクリートの上でしっかり立つ。
 写真より暗いね、と言いながら歩き出すセージの代わりに後輪へ鍵をかけた。
 青いチューブ状の鍵。その質感が急に気味悪くて手を離す。セージの背中が滲んで遠くなっていく。早く追いつきたいのに振り返る。当然車なんて入ってこない。
 あれは――あれは、絶対、母親だった。
 窓越しに僕を見つめるあの顔。隣でハンドルを握る男の顔は見えなかった。
 目が合った。数秒にも足らない時間で。
 上着のポケットはもう振動しなかった。時限爆弾によく似たスマホを僕は取り出さないまま、写真よりずっとさびれて傾いたアバンチュールに飛びこんだ。

 通されたのは小さい部屋だった。ラブホテル、と言われて、なんとなく知らない記憶からさかのぼったとおりの感じ。
 僕らはすぐに暖房を入れた。かび臭い温風が少しずつ部屋にまわり始める。腹は減っていたけれど、ベッドに転がると疲れがどっとおりてきて、動くのもおっくうになった。
 客室のにおいはどっか質素でつんとくるものがある。枕カバーからあがるにおいは無名のにおい。
 喉が渇いて、放りだしたバッグに手を伸ばす。ペットボトルを探っているうちに、なにか冷たいガラスに触れた。ひとつ引っ張り出す。
 セージは照明のつまみを捻って遊んでいた。
 セージ、と呼ぶと、かすかな声だったのにすぐに僕を見た。
「どうしたの」
「……これ」瓶を差し出す。セージはためらわないですぐに受け取る。「僕の」
「いと、」
「うん、糸」
 セージの手の中で瓶が傾く。セージは部屋の照明にそれをかざして、開けていい、と僕に目線を向ける。頷く。心臓も意識も穏やかで、僕はやけに落ち着いていた。
 セージが僕の隣に深く腰掛ける。ベッドのスプリングが沈み、セージのにおいと温度が僕の右隣に同じように座りこむ。その存在にほっとして、僕は数ミリセージの傍に近づいて座りなおした。衣擦れの音でベッドシーツのかたさがわかる。
 彼の神経質そうな指先が瓶の青い蓋にかかり、回される。
ぱこ、という音がむなしく室内に響き、瓶の中の空気が外へ破裂する。セージは中に指を差し入れ、僕の糸に触れた。
 それは変な意味でもなんでもなくて、ただただ僕そのものに触れられたみたいに恥ずかしかった。セージの指は何本かを瓶から取り上げ、それらはラブホテルの調子に乗った照明で光る。
 ネオン街の中で押しやられたみたいに静かに光る外灯の白。僕の糸の色はそれに似ていた。
「……綺麗だね」
「……そうかな」
「うん、そうか、」セージは残りふたつの瓶に目を向けた。枕の上に転がる瓶。「……俺も同じくらい泣いたのかな。真央はたくさん泣いたんだね」
「これ、……そんなに量があるのかな。どれくらいで一センチになるのか、わからないんだよ」
「……そっか。ねえ真央、真央は捨てなかったんだね。ずっと持ってたんだ」
「……すて、なかった、な」
 セージの言葉ではっとした。捨てなかったな。疎ましく思いながら、嫌味なほど慎重に、切り取っては瓶に貯めていた。ジャムの小さな瓶。空っぽになって洗われて、その水滴も乾ききって、あとは捨てるだけの瓶に、僕は捨てるだけの糸を溜め続けていた。
「……僕、めんどくさい人間だな」
「どうして」
「泣いてたって理解したかったんだ。泣くくらいつらかったって、これくらい泣いたんだって、自分が理解して、それで、」
 ごろ、とからだを横たえる。枕カバーのほつれを探すけれど、飛び出た糸はない。背中にあたるぬるい赤い布の質感が、なんだかちょっとビニールみたいで好きじゃない。
「……できたら、わかってほしかった」
 できたら。できれば。わかってほしかった。
 傷ついたと主張したかった。
 覚えていたかった。どんなことで傷ついたのか、どんなことでこころが揺さぶられてしんどかったのか。それでずっと痛かった。傷を延長させるだけの無駄な行為のせいで。でもやめられなかった。幼いこどもが、治りかけのかさぶたをつい何回も剥がしてしまうみたいに。
 いつかは自然と治癒していくはずの傷は、うすい皮膚が張っただけで痕になった。でも僕はそれで満足したかった。それがよかったんだと思う。
僕はちゃんと傷ついていて、それは誰かのせいだと言いたかった。
「……この中にさ」
「うん?」
 セージの静かでやわらかい声が心地いい。目を閉じたらセージが見えないから怖くなって、すぐに瞼を開ける。
「……この中に、」寝返りをうったら、ベージュ色の厚手のカーテンが目に入る。「嬉しかった涙って、あったかな。僕記憶がない。つらくて泣いたことしかない。都合のいいことばっかり忘れるな。逆でいてほしいのに。ずっと都合のいいままでいられたらいいのに」
「俺もそう思う」
 セージが僕の隣に寝転び、僕らは背中同士を合わせていた。背骨のかたさと、そこにこもった温度を分け合っている。
 覚えてないな、とセージが呟く。
 嬉しくて泣いたことなんて、ないかもしれない。嬉しくて泣くなんて、変だよな。うん、とあいまいな声を落とした。
「これ、捨てるの」
 首だけ持ち上げてセージを見る。
セージは仰向けになり、瓶をまた照明にかざした。
「……なにごみ、かな」
「……燃える、かな」
 ふ、とふたりで笑いをこぼす。起き上がり、セージの手から瓶を受け取る。
 蓋を開ける。セージがゆるく閉めていたのか、あまり力を入れなくても簡単に開く。
「……セージ、僕、あんまり、こどものときのことって覚えてなくてさ」
「うん」
「家族の記憶、ほとんどちゃんとしたものがなくて。穏やかな記憶は特に。だから本当にあったかどうか、僕の妄想かもわかんなくなっちゃうんだけどさ。……母親と、あやとりした記憶はずっと残ってるんだ。母親がもう着なくなったセーターほどいてさ、それで僕は遊んでるんだよ。アパート……前にふたりで暮らしてたアパートで。ユリがあったな。白いユリ」
 瓶から糸を取り出す。長いものを探すけれど、全部中途半端な長さだ。
 拾い上げて指にひっかける。見えづらいから指先がもたつく。
 食いこむ糸はあの日よりきつくて痛い。
 ――きれちゃったね。
 そう言って笑ったんだった。あのころ僕は母親なしじゃ生きられなかったし、なにもかも知らなかった。
 母親のことが好きだった。失うのは怖かった。
 あやとりの仕方なんて覚えていなかった。糸がどんどん絡まり、指をきつくしめあげていく。
「……それ、編もうか」
「編むの」
「うん」セージが身を起こし、僕の指に手を伸ばす。「全部編み込んだらどうだろ」
 なんとなく思ってさ、とセージはつけ足した。
 ぬるい指先が僕に絡まった糸を少しずつ器用にほどいていく。
「母親って、ほつれたセーター巻きなおしてなんか作るよな。俺の母親もそうだった」
「……いつかさあ」
「うん」
「僕の糸でセーター編めるかな」
「……編めるくらいまで真央が泣くってこと」
「そうだね」
「それはちょっと、嫌だな」
 お洒落ぶってベッドに赤い布がかかっているおかげで、僕の糸を見失わずに済んだ。
 セージはそれを一本取り出し、まず僕の指にやわらかく巻き付けた。
 相当細かい作業だ。じっとしているのはなんだか気まずくて、モニターのリモコンを押す。
 フード注文、カラオケ、ビデオの他に、サブスクが入っていた。なにか観ようか、そう言っていつかのときみたいにふたりで作品を漁っていたら、エヴァンゲリオンのシリーズが続けざまに出てくる。あ、と声が出た。
「なに?なんかいいのあった」
「……カナノのタトゥー。あれ、エヴァのだ。エヴァの槍」
「カナノ?真央の彼女?」
「前に一緒に行った映画館の、バイト先の子」
「ああ、なんだっけ、あの、美大の……」そう言いながら、セージの目は意図に固定されている。透明なそれを見失わないようにするためか、セージは枕もとの明かりをいじった。「カナノちゃん、エヴァのタトゥー入れてんだ」
「……まんまだ。思いだした。ロンギヌスの槍」
「ああ……」セージは糸に向けていた慎重な目線をモニターに滑らせる。「……ロンギヌスの槍ってなにか、真央、知ってる?」
「知らない」
 エヴァのあらすじを見つめたけれど難解な話だと思った。洋画を漁る。
「あれ、イエスを貫いた槍だよ。死んだかどうか確かめるためにもう一度刺したときの」
「そうなんだ……」
 そうだ、セージは神学科だった。思いだして一度セージを盗み見る。
暗く絞られた明かりの下で背中と首を丸め、セージは黙々と僕の糸を編みこんでいく。不気味に感じるくらい彼は器用だった。
「……タトゥー、入れようかな」
「真央が?」
「うん。でも年取ったら皴と混ざってダサいかな」
「皮膚の隙間にかくれたらそれはそれでなんかおしゃれかもしれないよ」
「……確かに」僕は笑った。指先を見おろせば透明な編み込みが伸びている。それはセージの指に繋がっていた。映画を決めずにリモコンを置く。「……でも、痛いだろうな」
 入れるなら、なに入れるの?セージの問いに、僕はただ、くじら、と呟いた。
 僕とセージの指に絡み、淡々と編まれていく糸が切れることはなかった。

 僕のひとつめの瓶が空になったころ、リモコンがきかなくなった。
 どうしても反応しない。そのころ、セージは僕の糸をすべて編みこんで、ほどけないように結び目をつくっているところだった。
 セージ、と声をかけると、集中していたのか数秒のラグのあとに顔をあげた。
「リモコンぶっこわれたかも」
「え?」
 セージが僕の糸から手を離してリモコンをとる。糸はそれでもほどけない。顔を近づけたら、ぞっとするくらい精密に、そして神経質に糸は編みこまれていた。
「……ええ、ほんとだ」
「フロントに聞く?」
「うーん、……電池かな」
 セージは一度モニターの電源ボタンを直接押した。画面が暗くなる。僕はベッドの上に置かれたリモコンの蓋を外し、さかさまにして乾電池を抜いた。
「たまに接触の問題ってときがあるじゃん」
「ん、……たしかに」
 セージに返事をしながら、電池を入れなおす。セージが僕の手元を覗きこみ、蓋をかぶせたときに手を伸ばした。
「真央、逆」触れる指先はいつも冷たい。「プラスとマイナスで左右違う方向にしないと――」
「……ああ、そっか」
 ばらり、二本の乾電池がセージの手のひらに落ちる。セージの指がさっさと電池を定位置にしまいこむのを、ただ黙って見ていた。
 マイナスとマイナスでプラスになるわけないな、と思った。マイナスが二倍になるだけだ。だって同じマイナス同士なんてないから。マイナスだって事実だけでくっつく。味が全然違くても、くっつくことのほうが大事で。マイナスとマイナスじゃ電気すらつかないのに。
 僕とセージじゃ、無理だ。
「あ」セージが声をあげる。「ついたよ」
 ほんとだ、と呟いた声があまりにも掠れていた。
 セージの顔を見る。セージも僕を見ていた。
「よかった。でもまた効かなくなったらなんかしょうもないな」
 しょうもないね、と僕も言う。セージがくしゃりと笑って、僕も笑う。
「よし、できた」
 数分後、セージが僕から糸を外す。ばらばらの長さも器用につなげあって、人形のみつあみみたいな細い編みこみができあがった。セージがふたつめの瓶を開ける前に、ごはん食べようよ、と呟く。セージはモニター左上の時間を見て、そうだね、と答えた。

 備えつけのケトルでお湯を沸かした。ふたりしてちょっと躊躇したけれど、他にお湯を調達する方法はない。沸かしている間に包装を破る。適当に選んだ洋画では銃撃戦が始まった。
 蓋を半分めくった焼きそばの乾麺からは、すでに油のにおいがする。それでもそのにおいで腹が鳴った。銃撃戦の真横で僕たちはお湯が沸くのを待っている。
 かやくのマジックカットが嘘をつき、ぱん、と中身が破裂した。いつになったらこいつ、綺麗に開くようになるんだろう。わずかな苛立ちとともにティッシュを探す。
「真央」セージの呼びかけが二度、銃声の隙間で聞こえた。「真央」
「なに?」
「スマホ鳴ってない?なんか聞こえる」
「え、うそ」
 セージはときどきひどく耳が良い。ティッシュ探しを諦めて、ベッドの上に放置していたバッグに手を突っこむ。大きくて深いのはいいけど、そのせいでバッグの中でものをよくなくす。
 主人公の友人が人質にとられている。雑魚がひとり、主人公のライフルに撃ち抜かれて死んだ。ケトルが少しずつ騒ぎ出している。テーブルの上で散ったかやく。
 スマホに触れた。
 さっきまで主人公と一緒に旅をしていた女が裏切った。主人公がなんでなんだと怒りをあらわにしている。おまえのせいで俺の大事な親友が死ぬかもしれない。
 白い字幕で起こされた台詞が本当なのか、僕は英語が喋れないからわからない。
 掴む。引っ張り出す。知らない番号。母親ではなかった。
 なにも余計なことは考えずにすぐかけなおした。普段ならそのまま無視するのに、できなかった。嫌な直感がざわざわと広がっていく。
 コール音は短かった。すぐに男の声が返ってくる。僕はぼそぼそと呟いた。
「あの、先ほどお電話いただいていた者ですが」
 裏切った女が主人公をコケにしている。罵詈雑言に主人公は顔を歪ませていた。
「……ッ、は、あの、あ……か、神崎、真央さんの、お、……携帯、番号ですか」
「……はあ、」ケトルが叫ぶ。お湯、沸きました。セージが腰をあげる。「そうです」
 セージがお湯を注ぐ。カップ焼きそばのあぶらっぽい独特なにおいが強くなる。
「……あ、あ、あ、あの――」
「はい、」
「あの、もしもし」途中で違う男の声に変わった。「もしもし、突然申し訳ありません。わたくし――」
「はい――」
 ――おれをたすけるな。おれのことは考えるな。殺されるぞ!
 友人が主人公に向かって怒鳴っている。
 セージは僕のカップ焼きそばにもお湯を注ぐ。半分だけめくれあがった蓋が熱で歪む。
「申し訳ありません――」
 ――俺はおまえを死なせたりしない。
 セージが僕に不安げな目線を向けた。目が合う。僕はゆっくりとベッドに腰をおろした。おろした、というより、落ちてしまった、というほうがきっと合っていた。
 スマホを耳に押しあてていた腕がゆっくりと落ちる。セージが僕の様子に気づいて、すぐに駆け寄ってくる。それから僕のスマホに目を向け、僕のかわりに耳に押しあてた。
 よくわからなかった。電話の理由も、しょぼいライフル片手に相手につっこんでいく主人公の気持ちも、裏切った女の気持ちも、死にたくないなんて本音を隠して美学を貫こうとする友人の気持ちも。
焼きそばのソースを蓋に乗せ忘れてるな、と思って、僕は茫然とテーブルの上のカップ焼きそばを見つめていた。
 それから、今どこにいる、なんて言われたって、アバンチュールですって答えたらバカみたいだな、とも思った。隣室で汚い愛の再確認が始まった音を聞いた。

 気がついたらホテルの駐車場にいた。セージは茫然とした僕に目を向けて、ゆっくりと自分の上着を脱いだ。冷たい夜風にあてられてかたくなった僕の皮膚に、やわらかい、セージの体温を吸いこんだ布が被る。上着すら忘れていた。
「寒いから」
「……ありがとう」
 身長のあるセージの上着は袖が余った。でも今はそれがよかった。なにかに覆われていたい気持ちだった。
 気づかないうちに雨が降っていたらしく、アスファルトは気だるく濡れて、駐車場の青白い明かりがぶつかって光っていた。
 セージはチューブ状の鍵を外した。
 セージの自転車はまだ雨に濡れていたけれど、かまわずにふたり飛び乗った。セージの背中に腕を回す。セージは思い切りペダルを踏みこむ。その衝動でチェーンたちが悲鳴を漏らす。
「真央」セージの声はこっちに向けられているはずなのに、前に飛んでいく。「ちゃんとつかまっててね」
 頷く代わりに両腕に力を入れた。
 僕らはスピードを出しながら夜道を走った。さっきのコンビニが見えて、ああ、ここで見たのに、なんて呆然と思った。
さっき。さっきだった。それが今は病院って、なんだよ。
 泉さんの車がトラックとぶつかった。
 どこで?だってさっき見たときは普通に走ってた。どこで――ひゅんひゅんと進んでいく視界、弾き飛ばされていく景色の中に、凄惨な事故現場を探そうとした。
 でも、僕らが辿る道にはそんなものなかった。
 ふたりはどこまで走ってた?
「セージ」僕の声も飛んでいく。セージにちゃんと聞こえているのかわからなくて怖い。「セージ」
「うん、」
「僕のせいだ。僕がこんなガキくさいことして――」
 じゃーッ、浅い水たまりの水を弾き飛ばしながら、大型トラックが僕らとは逆方向に飛んでいく。ぞっとする。白いライトが目を潰すから開けられない。
 トラックって、どれくらいの大きさのやつとぶつかった?もし――もしあんなのとぶつかっていたら、母親は――。
 両手はひどく震えて力が入らず、このままではセージにも置いていかれそうな気がして仕方なかった。呼吸が浅くなっていき、開いた口の隙間から絶えず流れこんでくる冷たい風で肺が痛む。鼻が痛む。泡立った唾液を無理やり飲み下した。
 母親が搬送された病院は、僕がよく通る道にある大きな総合病院だった。入ったことはない。駐車場はスカスカで、明かりも消えている。無数の窓にところどころ満ちているオレンジ色の明かりだけが、不気味さをなんとかごまかしているように思えた。
「夜間入り口、」
 セージが囁くように独り言を言いながら自転車を降りる。僕もバランス崩しながら降りる。今はただ、セージについていくことしかできなかった。真央。いつもよりずっとずっとやわらかくて、ぼろぼろ崩れそうなセージの優しい声が今は怖い。
「ここだ」セージは僕を振り返り、白い息を吐き出す。「あそこから入れる」
 返事もできなくて、足をずってるみたいにして歩く。
セージを追い越したら当たり前に僕の視界からセージが消えて、赤いランプのついた夜間入り口、その自動ドアの奥から漏れ出る病院の照明に心臓が暴れ出す。セージの部屋によく似た、でもそれより数段明るいオレンジ色の照明。
 まお、とセージが僕の名前を大きな声で呼ぶ。
 振り返る。
 セージの自転車の白い光が、なにかを示すみたいに一筋アスファルトへ伸びていた。
「待ってる」
 セージ。
 僕、行きたくない。
 そんなこと、言えるわけがなかった。
 セージの上着からは石鹸のにおいがする。その襟元に鼻下を埋めて、病院の夜間入り口まで数メートル、一度も振り向かずに歩いた。

 自動ドアの開く音は、紙に擦れたシャーペンの切っ先と同じだった。
 受付の中年女にか細い声で単語を並べる。彼女は僕の言葉に困ったような顔をしたけれど、神崎、と名乗るとすぐに奥へ通された。
 ドラマでよく見るような長い廊下は薄暗かった。足音がやけに響く。
 誰かの革靴が視界に入った。顔をあげる。緑色のかたそうなソファにふたり腰掛けていた。彼らは僕の足音にこちらを見た。見覚えのない大人の男しかいなかった。
 手前に座っていた男が僕を見つめる。青白い顔の、中年くらいの男だった。スーツの肩がまだ湿っているのが見てわかる。ああこの人か。この人が、
「ま、……真央くん」
 男の声は細かった。湿って千切れそうな紙みたいだった。
「真央くんですか……」
「はい」
 泉さんのスーツにはひどい皴がより、黒髪は乱れていた。青白い顔色。それでも傷ひとつないらしかった。泉さんは僕の名前をなぞった後、言葉を失ったように唇を半開きにしてかたまってしまった。
 僕は泉さんの隣ふたりぶん空けてどさりとかたいソファに座りこみ、母親が入った治療室に続く閉鎖されたドアを見つめていた。
 泉さんが震えているのは視界の端からでもわかった。泉さんを見た。僕の目線に気がつき、泉さんもすぐに僕を見た。じっと見た泉さんの顔立ちは、乾燥したタオルの上で好き勝手に描いた線よりずっと印象のないものだった。
 唇がわななき、そこに髭の剃り残しがないことを知った。この人はいくつなんだろう。乾いた唇の皮が剥けはじめているのが見えた。
 その隙間から、震え切ったか細い声が出る。
 泉さんの途切れずに震える言葉に、僕はなにも言えなかった。変に頭のどっかは冷静で、そのどっかのせいで混乱することもできず、ドラマみたいにつかみかかったり、泉さんに罵詈雑言浴びせることもできなかった。
 時間の感覚がわからなかった。眠くもなければ腹ももう減っていなくて、喉も乾いていなかった。なにもかも停止してしまった中に僕たちは閉じ込められているような気がした。


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