短編「風船」
【織田作之助青春賞予選通過作品です】
真夜中、セイヨウミザクラの樹の下には羊が眠っている。
星子は羊にもたれ、手の上の綿飴をちいさくちぎっては口に押しこんでいる。
彼女の舌に触れ、その温度に溶ける砂糖の吐息。
真っ白な花弁が唐突に強い風で攫われ、視界一杯のそれに星子は目を丸くする。
――かぜ。
星子は目をいっぱいに開いたまま、呟く。
――あすは、かぜが、もっと、つよくなる。
いよいよ私の番が来たのだ。
今月の最後には、星子は二十回目の誕生日を迎える。星子が大人になる前に、私は星子ではなくなる。
自分自身もいつか切り取られることを私は知っていた。私は星子の一部であり、今まで彼女の手によって切り取られ、削がれ、もがれた仲間を傍観してきた。二十回目は私だろうということは、ずっと前からわかっていたことだった。
星子は歳を重ねる月に私たちを殺し、羊水の満ちた風船に詰めて月に飛ばす。そうすることで星子は生きてきた。私たちは生まれてからずっと星子にとりついていた。それはたまごの殻の内側にはりついた薄膜と同じように。星子はそれを脱いでいくことで生きてきた。
私たちは星子が育つために、そしていつか星子の手によって殺されるためにとりついた記憶。
私たちの中でも失われない、そして星子に愛されている記憶はある。だがそれもほんの少しで、私たちの多くは星子をさいなみ、星子を傷つけ、星子を患わせてきた。
私は星子の最もやわらかい部分を食いつぶし、二度と塞がらない穴を開けてきた記憶だった。
星子の両胸は穴が開いているので、星子には乳房がない。私が食ったのだ。
星子には耳たぶがない。私が食ったのだ。
星子は穴のあいた少女で、その穴の多くは私があけてきた。穴の奥には真っ暗な宇宙が広がるばかりで、星子は時折それに気づいては茫然と穴に手を入れている。
それでも星子は二十回目の誕生月になった今日まで、誰かを恨むことはせず、誰かを傷つけることもせず、ひっそりとここで暮らしてきたのだった。
星子はその日、羊に座ってナイフをゆっくりと拭いていた。白い布はいつかのワンピースを裂いたものだった。私はそれを星子の瞳を通して見つめながら、あれが私を裂くのだと知った。
星子に失われることは怖くなかった。切り裂かれることも怖くなかった。
私には恐怖も痛みもない。すべて星子にだけ存在する感覚だ。
鈍い色のそれが月を反射し、星子の目を焼く。星子はじっと刃を見つめ、それをゆっくりと自分に刺してみる。ぷつ、さく、さく、さく、と星子はまだちゃんと残っている自分の腕に突き立てたナイフをじぐざぐに動かした。ぼろりと剥がれ落ちたのは星子のミルク色の血が染みたかたまりで、星子はそれをぼんやり見下ろし、ナイフで刺し、さくりと噛んだ。
またか、と私は星子の中で呟いた。
星子の記憶の反芻は、こうして行われる。
嚙み切れないものが口内に残ると、星子はそれをぬるりと吐き出し、水に浸した銀の盆に落とす。あれらも月に飛ばすのだ。
星子が私たちを詰めて飛ばす先は月だ。月になにがあるのか、私は知らない。生きてかえってきたものはないから。月はただ、私たちが葬り去られる先なのだと言うことしか、知らない。
私たちはみな風船に詰めこまれる前に死んでいるので、最後におぼえているのは星子のきっさきなのではないだろうかと私は考えている。時折、飛ばされたはずの風船が音もなくゆうらりとこちらにかえってくることがある。満ちていたはずの羊水が腐り、透明な風船の中は薄茶色と藍色の混ざった複雑なものに変色している。
星子はいつもそれをただ迎えて、へその緒によく似た紐を手繰り寄せる。風船は数秒止まったのちに目の前で割れ、中から飛び出した羊水がぱたりと星子の頬を汚したこともある。
星子はそのときもまばたきをゆっくりと繰り返すだけで、やがて両の手のひらにびっしょりと中身がこぼれても、驚いた顔もしない。かたまりは星子の手のひらの上で震え、やがて消滅する。星子はその手を銀の皿の中で洗い、羊の腹で拭う。そのあとはじっとただ、いつものように木の下で星を見上げている。ぼんやりしている。
星子は確かに歳を重ねているのだが、なにしろ穴ばかりでからだも小さいので、私たちは星子があの日からいったいどのくらい変化したのかがわからない。
それでも星子は確かにどこかへ向かっている。
うっすらと、このごろ、においが、違う。
私の切り裂かれる晩が来た。
しじゅうこの世界は真っ暗なので、晩が来た、というのはもしかしたら間違っているのかもしれない。それでも星子が羊の上ではっと目を覚ましたとき、その睫毛と鼻筋にかかる黒髪がさらりと音をたてて滑ったとき、私は、切り裂かれる、と思った。
くらいくらい部屋の中、月の青白い光だけがまっすぐに射して星子を照らしている。
星子は銀の皿の中に水を汲んできて手を洗い、顔を洗った。白い布で覆われたナイフの傍には、星子が咀嚼しきれなかった私たちの破片が銀の盆に浮いている。羊が鳴く。
星子の欠けた指先から透明な水が垂れる。
ぼつ、ぼつぼつ、と水は声をあげた。
星子はそれをいつものように羊で拭った。
星子がナイフに手を伸ばす。白い布をはぎ、現れた鈍色をじっと見下ろし、なにかを確認するように何度か柄を握りなおした。
――私は切り裂かれる。
星子はざっくりと、自分のへそのあたりにナイフを突き立てた。とろり、隙間からそんな音を立ててミルク色の血が一筋流れる。空洞の両胸の奥には宇宙が広がっている。星子はぶぶぶと震え、悲鳴を噛み潰し、ごぶごぶと唇の端で血を泡立てていた。肌がうっすらと粟立ち、星子はひどく震える両手で、それでもナイフを離さなかった。
星子は逆流する血を飲みこみ、震えながら私の居場所を探る。私のことを必死に取り出そうとしている。星子は私がどこにあるのかを知らない。
私は動けないので、ただそこでじっと、星子のきっさきがやがて自分を突き刺し、引きずりだすのを待っていた。
星子は晩の中で薄い呼吸を狭い感覚で繰り返しながら、ナイフで自分の中を掻きまわし続けていた。私は早くそのきっさきに見つかりたいと願っていたが、星子の刃が私をぴったりと嗅ぎ当てて突き刺すまでは、物も言わず息もたてずに待っていなくてはいけないのだった。
星子の血はミルク色をしていて、星子のナイフの刃、柄、そしてからだじゅうにまとわりついているのだった。いつでもうっすらと魚のようなにおいがしていた。
月の眩しさで目が焼けた。
気づけば私は星子のナイフで引きずりだされ、冷えたタイルの上に転がっていたのだった。月の光がきつくこの部屋に射しこみ、その眩しさに目が開かなくなっていく。
星子が私を見つめた。唇の端にはミルク色の血がかたまり、泡立って、ナイフを胸元で握りしめているその手はひどく震えている。両胸の空洞の奥に変わらず宇宙がこもっている。
星子は私を見おろし、ぎゃあ、と絶叫すると、そのまま激しく泣き出した。
――あなたのせいで私は生まれてきてしまった。
星子は激しく嗚咽しながらそう言ったが、私には唇がない。私はただタイルのかたいつめたさに背中を預け、月の光で焼けてしまった目をなんとか動かして彼女を見つめ返すことしかできなかった。ぼつ、ぼつぼつ、星子の手からミルク色の血が滴る。雨のように。雨。
――生まれてこなければ死にたいと思うこともなかった。
――あたしはお母さんを恨むことすらできないのよ。
――わかってるの。ねえ。わかっているの。こんなのひどいでしょう。
――生まれてこなきゃあよかったのよ。それをお母さんに訴えてやるの。今晩よ。だからずっとあなたのことだけはとっておいたんだわ。あなたはもっとも細かくして詰めてやるから。
星子は震えながらそう叫んでいた。ミルク色へ青く光る水が混ざり、見つめてみればそれは星子の涙なのだった。私は彼女の涙をはじめて見た。
星子がナイフを振り下ろす。
血か、涙か、それともどちらもなのか、激しく粒になって跳ね返る。
私の塞がった口元に、星子はナイフを突き立てた。
星子の青い涙。
ミルク色の血。
私の切り口からとくとくと流れ出すそれの天の川によく似た美しさで、私は絶句している。
星子はこらえた唇の隙間から、うすい呼吸をもらしていた。
私には口ができた。
ナイフで裂かれた一文字の傷をぐぱりと開き、私は星子のように動かして喋ってみようとしたが、できなかった。私には星子に聞こえる声がなく、私は、星子と共通するような言葉も持っていなかった。ただじっと、流れ出るミルク色の血を眺めているしかなかった。
こんなときでも、星子と同じ血が通っていたことに、私は幸福を感じていたのだった。
星子の青い涙はぽとぽとと私の口に落ちた。
星子はナイフを一度置くと手を伸ばし、まずは私の右半身を捥いだ。
星子は二十回目にもなると慣れてきて、私たちの捥ぎ方を知っている。関節のような部分は、ナイフで切るよりも捥いだ方が綺麗にとれるので、星子はもうそれを心得ているのだ。
私はすっかり、星子の手によって球体関節をばらしたような姿になった。
私たちにははじめ、かたちがない。星子を食い、星子の中で育っていくと、徐々に小人のようなかたちになっていくのだ。二十年、星子を巣食った私は、まるで小人のような姿にまで育っていた。だが口はなく、言葉はなく、声もない。
ばらされた私は、相変わらず流れていく血液がやがてタイルの隙間を滑り、どこかでとまるのを見つめていた。月の光はさっきよりもずっと強く、星子の左半分は真っ白に潰れている。
――あなたこんなに不細工なのね。口もなくて。
星子は涙を流しながらそう言った。彼女の顎先に溜まった涙が月の光に照らされ、海の雫のように目にうつった。私は裂かれた口のような穴を動かしたが、血が逆流しただけだった。
ぶッ、と血液が噴き出す。星子はそれをじっと見下ろしている。雫がまた、そこへ落ちる。
――あたしの血、魚みたいなにおいがするわ。あなたも、くさい。
星子は再びナイフを取り上げ、私の片腕にぶつりと刺しこむと思い切り裂いた。
星子は呻きだした。歯を食いしばっているので、呻き声の狭間でぎちぎちと音が鳴った。星子は、ぶつ、ぶつ、ぶつ、と生魚の皮を切るように私を裂いていたが、やがてその手つきに規則はなくなり、感情をも飛ばしてただ私を傷つけることに熱中し始めた。
彼女の目は見開かれていた。私はその睫毛の根本や眼球に走る血管の筋を見つめていた。
渇いた涙は頬にうっすらと青い筋をつけて、星子の白い肌に毒々しい印象を刻んだ。
羊が泣いている。
私は切り刻まれ、それが銀の皿に積み上がっている。星子はついに私の頭を抱えた。星子の魚のようなにおいがぐんと近くなり、私の眼前には彼女の両胸にある宇宙が広がった。
宇宙はつめたいにおいがした。
星子は私の首裏にナイフを刺しこんだ。ざくんという音が響いた。私は宇宙に顔を埋めたままだった。とろとろと後ろに血が流れているのを感じていた。星子に抱かれ、星子に裂かれた口から、頭から血を流し、私の意識はそれでも遠のくことはない。星子の荒くさみしい呼吸を聴き、空っぽの両胸に顔を埋め、宇宙を見つめながら、もっとひどく裂かれることを望む。
切り裂け、切り裂け、切り裂け――。
私はもう星子ではないのだから。
星子は最期に私の両目を一文字に切り裂いた。
私は宇宙が見えなくなった。
星子は大きな風船の中に私を詰めていく。
青いタイルに流れたミルク色の血は、きっとかたまりはじめていた。
羊は退屈そうに泣いた。
星子の手によって私は透明な風船に押しこめられ、中にはみるみる羊水が満ちる。自分のからだが、切り刻まれたそれらが満ちていくのが、わかる。
乳臭いそれを飲みこみ、私の肺は止まる。心臓も、止まる。
何も見えない目を閉じる。薄膜が張っていく。
セイヨウミザクラの花弁が病的に舞い散る外の空気は、冷たい宇宙によく似ていた。
星子は記憶を詰めた風船を腹のあたりで抱え、ざくざくと露に濡れた青草を踏んで、どこかへ向かっている。そのうしろをゆっくりと羊がついて歩く。
彼女のまなざしは冷たかった。もうすっかりなにかを忘れてしまったように掠れた表情や、風に揺れる髪や睫毛の無機質な具合も。
風船にはへその緒によく似た茶色い麻の紐がぶらさがっていて、星子は風船そのものを今は腹のあたりに抱えているので、星子のへそのあたりでちょうど揺れていた。風船の中には乳臭い水が満ち、ばらばらに裂かれた記憶はばらした球体関節人形によく似ていた。目を切り裂かれたので、記憶はもう彼女やこの晩のことを見つめられなくなった。耳が未発なのかひどく小さいので、きっと彼は羊水の揺れる音もうまく聴けないのだろう。切り裂かれた眼球を隠すように、じっと瞼を下ろし、羊水の中で静かに眠りはじめている。
星子の呼吸は薄かった。
風船は重く、羊水や記憶がじゃぷじゃぷと揺れる。麻紐は長く、星子のへそから伸びたようになって、羊のところまで続いていた。あまりに引きずるので、やがて羊がその端を咥えた。
月が大きい。
星子はじっと月を見つめ、やがて足をとめた。その素足にあたる草たちが風に揺れている。星子はわずかに息を切らしていた。切り裂いた腹部の傷はうっすらと塞がり始めているが、相変わらずその両胸と耳には空洞があり、手を入れてもなにもつかめないほどの宇宙が広がっているのだった。
「もう、いいわ」
羊がその声で紐を離す。星子は両の手にしっかりと紐を持ち、月を見上げた。
長い睫毛は弓なりに反って、その奥の目には月の光が焼き付いている。セイヨウミザクラの花弁がそこらじゅうを泳ぎ回り、星子の髪に触れた。
星子は青白い唇の隙間からなにかを呟き、やがてへその緒を離した。
星子はあと少しで大人になる。
了