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中編「ユキコとエーミール」

 光る背表紙 マットレスに乗ってふたりだけの宇宙 いつかのエーミールを覚えてる?

 ――寝る前だってぎりぎりまでこわいんだよ、ほんとだよ。何回も見返すの。ガスの元栓、三つある鍵、蛇口閉まってるかどうか、窓の鍵閉まってるかどうか……インスタも見るの。わたしのストーリーに勝手に画像とかあがってないか心配で、でね、起きたら起きたで、たとえばはじめにトイレ行って、手を洗って、コンタクト入れて、あ、コンタクトも洗うの。洗うの。……え?あ、うん、ちゃんと前日に擦って洗うよ、でも……だって、だって目に見えない汚れがあるかもしんないし……うん、次は歯を磨くの。あ、その前にも手を洗うの。え、だって、コンタクト触った手で歯ブラシ触れない……ううん、潔癖じゃないよ、潔癖じゃない、違うの、なんか、気にしなくちゃいけないって、思うの――それで次に顔を洗うんだけど――。
 ユキコはよく喋る。私の三つ下。だから二十一歳のはず。
誕生日がいつか知らないけど、もう十二月も過ぎたし、とっくに二十一歳になったか、まああとほんのちょっとで二十一歳になるかのめちゃくちゃどうでもいい差だと思う。
 ユキコはよく喋る。二十一歳なのに、子どもみたいにてろてろした、あの、ベロを扱いなれていないもつれかたで。
 ぶりっ子とは違うんだろうなーと嫌でもわかるそのヘタクソっぷりに、かわいいと思うより数秒先、かわいそうが着地する。でもその数秒後に、まあかわいいし、うん、まあかわいいし、という思い直しが起こる。
 実際、ユキコはまあ標準より上の顔立ちをしてる。
 いわゆる誰が見てもかわいいと言える合格点を持ちあわせてる。
二重の目は大きいし、鼻はまあちょっとだんごだけど、小さいからむしろつんとした感じがなくていい。唇は大きめだけどほどほどのバランスをとっている。目と唇が大きく、輪郭と鼻が小さい。
 たったこのふたつだけで、人間の顔立ちとその後の生き方には違いが出る。とんでもない。
 ……だからユキコはかわいそうだ。やっぱり、かわいそう、だ。
 人よりできないこと、人より余分に抱えてしまっていること、それらを、こういうくだらなくも重要な顔だちやしぐさや喋り方でぼやかされてしまうから、ユキコは自分のことを悪気のないかわいそう人間ですと言って回ることができない。
 わかりやすいのにわかってもらえない。
「ユキコ、もういいよ、そこ拭かなくても」
 かつてカウンターだった机に腰を下ろした私は、本棚の隅を丁寧に拭き上げるユキコの背中にそう声をかけた。
 ユキコは肩までおろした茶髪を一緒に揺らしながら、ふん、ふん、と空気ばかりの返事をして、熱心に雑巾を使っていた。
 髪とワンピースの布のねじれが小規模な海のさざ波っぽくて、入り口から大量に射しこむ白い光でそれが余計に目立つから、私は口を噤んでぼうっとそれを見つめていた。
 昼間の光に溺れるユキコの背中は、まるくて小さい。
 弱っちい地球みたいだ。
「ユキコ―ぉ」彼女の名前を呼びながら、カウンターを下りる。「ユ、キ、コっ」
 コっ、でちょうどユキコの背後まで足が届いた。ぽんっ、と肩をたたく。
「ここ、ねえ、もう、白アリのメシになってるしー、本棚もぼろいでしょー」
「でも、」ユキコが目をあげて私を見る。屈んだユキコは私の輪郭で消されちゃいそうだ。長い睫毛がなにも纏わずとも上向きになっていて、羨ましい。「ミーコちゃんの家に泊めてもらうわけだし、ここは、ミーコちゃんの、家だしー……」
「家、うん、まあ、あの、家、だけども」
「それに、ここ、いいところだよ。素敵だよー。せっかく、本も、あるし」
 そうねえ、と私はぼんやり返事して、閉めっぱなしのガラス戸に寄りかかる。そこには擦り切れた緑色のペイントで、「ブックストア」と印字されていた日焼けが残る。
 千葉県ド田舎、倒れかけ港町の潮風あびきった本屋の居抜き、もろもろ合わせて三百万。
 大学の費用にとじいちゃんが残した金に二年間手をつけず、ぶらぶらアルバイトで食いつないで、私は去年、発作的にここを買ってしまった。
 じいちゃんに対して悪いとは思った。若干。数ミリ。
 でも今どき、大学出たって出なくたって、変わんないよね、そう思ってしまってしかたなかった。
 いつ死ぬかわからないし、極論、将来への仮定とか実際の過程とか、死んじゃったら関係なくなっちゃうんだ。
 それまでの不明な時間を、私は自分のためだけに使いたかった。
 つまり私はみんなが一生懸命ひた走る道をなぞる資格がなかったし、その資格を選ばなかった。
 だったら好きに生きればいい、というのは、公式なしでも成立する証明で。

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