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長編小説「紡がれた僕らに終わりの春を」序章

 陽だまりに溺れるレースのカーテン、繊細なふりして機械でざっくり繰り返された同じ模様。たしかあのとき、春だったのを覚えている。数センチの窓の隙間から吹きこむ風に染みついたあの独特な桜と太陽の混ざったにおいを今でも思い出せるから。
 水切りラックで涙を落とすマグカップと泣き止んだ蛇口。猫の尻尾が揺れる壁掛け時計。午後三時を知らせるために猫は律儀に十五回も鳴いていた。
「あ、きれちゃったね」
 母親が穏やかに呟いた。着倒してほつれて薄くなった緑色のセーターをほどいて、あやとりをして遊んでいた。母親の神経質そうな指に絡まり、なにかを紡ごうとしていた糸がちぎれた。
「真央はできたかな」
 やわらかく、沈みこんでいくような母親の声。あんな声を、僕はもう二度と聞けない。
 記憶をひっくり返せばいつも擦り切れた顔を引きつらせて凛としたふりをしていた、あまりに不器用で痛々しい母親の表情ばかり思いだす。
 テーブルには僕の飲みかけの牛乳のグラスと、母親が花瓶にさした白ユリが一輪あったのを覚えている。僕は指先に糸をまきつけたまま、花びらのできものみたいな突起と、まっすぐのびる雄蕊の気味悪さに目を離せないままだった。
「血がとまっちゃうから、やめようね」
 母親の指先が僕に触れて、ユリから目を逸らした。いつの間にかきつく引っ張って人差し指に食いこんでいく緑色の糸を、母親がゆっくり緩めて外していく。
「ほら、指のあたまが白くなっちゃってる」
 だめよ、と母親は囁く。そのふせった睫毛に着地してはじける日の光。レースの繊細さは白く強い太陽の光を受け止めきれずに、狭いアパートの一室にたくさんなほど光をこぼしていた。
 僕が母親と暮らしたアパートには、よく陽がさした。でも、父親の輪郭がなかった。
 家族写真なんて撮ったこともなかった。わかりやすいあかしのようなものはなかった。
 アパートで僕と母親は淡々と暮らした。
 僕と母親はあやとりが下手だった。
 あの日、ただ指先で絡まっていく痛んだ糸で、僕たちは笑いあっていた。

               *

 やり捨てだ、と気がついたのは、目覚めてすぐ、ベッドの上で呆然座りこんだ十分後だった。
 昨晩――昨晩、A子がアパートまでついてきて、僕はそれで彼女を玄関前で帰そうとして、でも帰ってくれなくて――たしかそうだった。僕はめちゃくちゃに飲んだせいで死ぬほど頭が痛くて、吐いたせいで口中まずくて、視界がぐらぐら揺れていて、それでなぜかそのまま彼女は僕をベッドに寝かせて、それで、……
 ぐっと胃液が逆流してきて、僕はベッドから転げ落ちるようにしてトイレに駆けこんだ。すえたにおいのする便器を両手でつかみ、頭をつっこんで胃の中身を吐き落としていく。なにを食べたかまだわかる吐しゃ物もどろどろ混ざっていて、良く噛まないで食べるからだとどうでもいいことを一瞬思ったりもした。トイレットペーパーで口元を拭い、吐しゃ物と一緒に流す。  
 トイレのドアを開け放したままふらふらと部屋に戻り、鼻を啜り、直飲みのペットボトルからどくどくとぬるい水を流しこむ。胃に落ちるその水分で余計に気持ち悪くなり、ベッドに転がる。
 こ、こ、こ。
 とッとッとッ、という早い脈と、枕もとに転がっているそんな小さな時計の秒針音が絶妙にずれるから、頭痛が増していく。いらいらする。
 ――カンちゃんって、カノジョ、いたことないの?
 ガチャガチャと雑音の飽和した安っぽい居酒屋の座敷で、唇を寄せ、からだを寄せ、そう言ったA子の顔立ちだけが思いだせない。あまりはっきりとしていない鎖骨やそこではねる黒髪や、その奥のシャンプーのにおい、うんざりするレース生地の白いワンピース、そのすべてのうすい輪郭はなぜか覚えているのに。それらは僕を責め立てるように、いまだベッドのあたりできつく充満していた。
 ベッドの下、窓のそばに転がっていた中身の軽い消臭剤を拾い上げ、ベッドに吹きかける。こまかい霧がつくりものの清潔さをまとって広がり、布団にくっついて消える。カーテンを開ける。日光が真っ白に満ち、僕と部屋に置いてあるものの輪郭を強くぼやけさせてくる。窓を開ければ冷たい風が吹きこみ、まだ真新しいレースのカーテンが揺れてA子を思いだす。吐き気がおさまらない。頭に爪を立てて掻く。昨晩シャワーを浴びていなかった。
その事実にぞっとして、僕はあわただしく服を脱ぎながら風呂場に向かい、お湯になる前からシャワーを浴び始めた。
 湿った髪をタオルで掻きながら部屋に戻ると、日光が満ちていてほっとした。消臭剤と外の空気のにおいが混ざるそこで、ベッドに腰をおろす。髪を拭く手を止めて、ふと枕の皴を伸ばす。窓の外でカラスだかなんの鳥だが、わあわあと鳴いている。
 ――カンちゃんのこと、いいなって思ってた。
 なまぬるい吐息と一緒に僕の耳に囁いたA子の、同じようにぬるい素肌を思いだす。
 A子はなまぬるかった。
 ため息が漏れる。
 人差し指に長い黒髪が絡みついた。A子の置き土産だった。
 舌打ちと一緒にそれを払いのけ、再びぬるい水を流しこむ。胃液がずっとあがってくる気がする。二日酔い、かも、しれない。頭、というよりも脳の芯に熱がたまり、そこがひどく痛んでいる気がする。その痛みが変にリズミカルに響き、吐き気が続く。ろくなもんじゃねえと思う。

          *

 居酒屋を出たときはまだ意識もはっきりしていたし、酔ったと感じることもなかった。帰ろうと入り口でごちゃごちゃ混ざる初年次クラスの同期たちに背を向けた瞬間、ねえ、と声をかけられた。それがA子だった。
 ――もう帰るの?まだクジだよ。
 A子の声はやたらと大きく甘ったるく、その言葉が僕に向けられるとなぜかいやだなと思った。彼女の言葉に、同期たちが僕を見る。まだはえーじゃん、と言ったのはインスタで入学式前から繋がっていた南沢だった。
 カンちゃん。
 僕の苗字が神崎であること、そしてこの大学の初年次クラスでは馴れ合いのためか知らないが、代々あだ名をつけあう流れがあるらしく――南沢は僕をまるで幼馴染のようにそう呼んでいたのだった。
 南沢は派手でもなければ地味でもない。ドーナツを揚げる前にくりぬいた、核の部分みたいな男だった。どこの輪に入っても、すぽんとうまいこと中心に埋まることができる。輪になるやつらと違って、もうその形として生きているから、なんだこいつ、とも、なんでこいつが中心にいるんだろうともならない。丸っこいから角も立たない。
 悪いやつじゃない。でも、好きでも嫌いでもなかった。
 ただ、うまいこと南沢が僕とくっついたおかげで、僕はしょっぱなの新入生チュートリアルを何段階かすっ飛ばすことができたし、彼の動きや言葉やそれらを真似ることができた。
 嫌われない能力を持っている人間は一定数いる。だからそういう人間の真似をすればいい。
 A子の「まだクジだよ」から、南沢の「カンちゃん」までバトンが渡り、数人が僕を引き留める。カンちゃん、まだ飲もうよ。カンちゃん。カンちゃん。知り合ったばかりの学生同士に特有の、あの変な生ぬるい温度――まるでブラインドを指で押し下げてその隙間から様子をうかがうみたいな、ああいう気持ちの悪い距離。
 僕はそこで背を向けて帰るほど空気が読めないわけじゃなかった。
へらっと笑顔を作り、でも次どこ行くの、と南沢の隣に並ぶ。どこいこうかねえー、と南沢がへらへら同じような顔をしながら僕の肩に腕を回した。跳ね返りのない硬い皮膚はぬるい。
 居酒屋の入り口にたまったうちのひとり、B子が、ここ邪魔だからとりあえず出ない、と空間に向かって言った。それを合図に同期たちは分子が散るときみたいにぱっと離れ、今度は自然と列になって先頭について歩き出した。先頭はB子だった。無意識になにかに従いながら歩いている列は奇妙でもある。
 四月、それでも桜のほとんどが散り、アスファルトの隙間や民家の外壁の下で茶色く変色したかすになっていた。
 白く無機質な街灯の下、空き瓶と空き缶の青と黄色の回収ボックスが照らされている。
 ふと、スウェット姿の男がすぐそばの古いアパートから猫背で出てくる。彼は不規則な列になって喋りながら歩く十二人ばかりの学生をじろっと見て、冷めたように目線を外した。
 最後尾の僕は、一歩前を歩く南沢の実家の犬の話を聞きながら、男を盗み見ていた。男は手に伸びきったビニール袋を提げており、回収ボックスの前で足を止めると袋をさかさまにした。
 がらがらがらこん、とそれなりに大きい音がしたけれど、振り返ったのは僕だけだった。
 アサヒの銀色が奇妙な、形容しがたいかたまりになってボックスにきらめきながら落ちる。男はビニールを雑に右ポケットに突っこみ、アパートの暗い入口へ相変わらず背中を丸めたまま消えた。
 目的地もなく歩き続けるうちに駅を通り過ぎ、明日一限あるとかないとかバイトだとか暇だとか、それぞれが自分の明日のスケジュールを口にして、十二人のうち五人が駅に消えていった。それでも七人となればそれなりに多いわけで、結局二軒目は公園に決まった。
 近くのコンビニで酒とお菓子を買い、コンクリートでできたでかい山のてっぺんに座る。
 僕は当たり前のように南沢の右隣に座ったし、南沢は僕の左側に座った。そうしたら僕の右隣にA子が座った。爪がプルタブに引っかかって嫌な感じだ。
 コンビニの冷蔵庫でとっくに温度失われたチューハイの缶は、それでも欲張って僕の温度を吸い取っていく。春とはいえ夜中になればまだうすら寒く、指先が痛い。
「カンちゃんって、カノジョ、いたことないの?」
 そんな言葉に気づいたら、A子の腕と僕の腕がいつの間にか触れ合っている。南沢が茶化すような目で僕を見ているのがわかった。
「いない」
「うそ、ぜったいうそーッ」A子はきゃらきゃら笑い、小動物サイズの一口を飲む。「だってね、カンちゃん絶対裏でモテてたタイプだよー、ね、みなみざわ」
 彼女が発音する言葉はところどころなぜかひらがなで聞こえるほどねばついていた。
 南沢がA子そっくりの笑い方をする。馴れ合いをしているとき、どうしてみんな泣いているみたいな顔で笑うんだろうと思う。チューハイをごくごく飲み下したら腹が冷えた。
 女の子の好意は軽い。
 たとえばA子みたいに――不器用なのか計算か、全部をさらけ出して近づいてくる子。興ざめする。なににはしゃいでいるのかわからない。甲高い声もこっちを見上げてくる目も、急に王手をさしてくるみたいで嫌になる。
自分の領域に入ろうとする存在には牙を剥くのに、自分が目的を持った人間の領域には遠慮もなく踏みこんでくる。気が付くと背後にいるあの感覚が好きになれない。
 そのうち、買い出しに出ていた鈴野と井口が戻ってきた。それぞれ右手にぶら下げたドンキの袋がやけに膨らんでいる。
「カンちゃんこれ一緒に飲むやつな」
「え、なにこれ」
「クライナー」鈴野が笑うとがたついた前歯が見える。「いぐっちゃんのおかげで買えたわ」
 井口は袋に手を突っこみ、酒を欲しがる子に缶を見せては選ばせている。確か浪人生で僕らのひとつ上だったはずだ。なるほどね、と思いながら、鈴野に渡されたクライナーを開ける。
 意識がはっきりしていたのはそこまでだった。
 僕はしばらくしておきあがりこぼしみたいにグラグラ揺れ始め、そのころには終電がどうとかでさらに人数が減り、女の子はA子だけだったと思う。
 最後、ぐったりとしていくうちに、猫背の男が捨てていったアサヒの銀色を思いだしていたことだけは、うっすら覚えていた。

          *

 乾いた髪から、つくりものの石鹸のにおいがする。
 そのにおいが鼻先に触れるたび、こわばっていたからだが少しずつもとに戻っていくようなそんな気がしていた。レースのカーテンが膨らみ、萎み、その奥で昼間の光が散っていく。
 ぶ、と通知が来る。
 初年次クラスのグループラインかもしれない。今日の三限にまた講義がある。そうだ、A子とうまいことやりとりしないといけない。
 少しおさまっていた頭痛がまた強くなりはじめる。ラインのアイコンをタップすると、さっきの通知はA子からのメッセージだった。指先が冷えている。
 なんかうまいことを――おはよう、今日の三限って先週言ってた自己分析シート埋めて持っていけばいいんだよね、とか。飲みすぎてない、とか。なんか、なんかそういう、……
 トークルームを長押しする。アイコンに設定されたパステルカラーの背景と、ちまちま書きこまれた女の子のイラスト。ひらがなの名前。
 ――おはよ! きのーのことは内緒にしよーね ちなみにわたし誰にも言ってないよ笑
 悩んだ末、僕はA子に返事をしなかった。
 そもそも、糸なんかなかった。関係性なんかなかった。なにも繋がらないうちに、僕は一方的に彼女の中へ押し入れるよう手を引かれ、そのまま終わった。繋がったのはそれだけだ。
 再び逆流してきた胃液を無理やり飲み下す。痛む頭ではなにも考えられなかった。


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