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短編「モウカの星」

 サメハツだよ、とモモカは言った。
「ハツ?」
「牛ハツとか、焼き鳥屋さんで食べないの?心臓。シンゾウだよ」
「食べないよ。そんなもの」
「そっか。おいしいんだけど。すみません、モウカの星ください」
 きらきらしいファンタジックネームが、ヤニと炭火と肉のにおいのはりついた居酒屋に響いて、素敵な呪文のようだった。わたしはその瞬間、モモカの透明な横顔を見つめていた。
 星ください。
 こっそり唇の裏で繰り返す。
 星ください。

 こうちゃんは家族みんなで牛や豚を解体している。彼女ならハツなんてしぬほど見てるじゃんと思った。艶やかに真っ黒なロングヘアを雑に束ねて、ファミリーマートの焼き鳥を犬歯で食いちぎっているこうちゃんに、モウカの星って知ってる、と聞いてみる。
「ん、なんて?」
「モウカの星」
「惑星?」
「……そう」わたしは頷いた。頷いて、惑星、と空白を重ねた。
「知らないなあー。あたし、肉のことしか考えてないからさあ、なんつってえ」
 こうちゃんは軽くなった缶ビールの残りを流しこんで、ふざけて笑って見せる。
――むかしさあ、……あ、うちって鶏いっぱい飼ってるじゃん。でもたまに勝手に飛び出してって、車にひかれたりしちゃうわけ。そうするとじいちゃんとあたしでさばいてね、その日は鶏ぜんぶ食べんの。鶏鍋にしちゃうんだよ。まあまずい。なんかまずいんだよね。あたし、自分でさばいた肉を自分で食べるの苦手なのかもしれない。だって彼らからしたら悪魔だよ?
 こうちゃんは、牛や豚や鶏のことを、彼ら、という。
 わたしはそのたび、こうちゃんをただしいひとだと思う。
 こうちゃんとわたしは幼稚園から一緒で、高校からべつべつになってしまって、でも二十五歳になった今、また出逢った。こうちゃんは地元に残り、わたしは千葉と東京の境目に逃げ、どこにも属していないような場所で五万円の狭苦しいアパートで暮らしている。
 わたしは境目にある石材屋の事務として働き、こうちゃんは家族まるごとおなじ仕事をしている。こうちゃんは生きていたものを食べるために解体し、わたしは生きていたものを弔うために石材屋にいる。
 そういえば実家の庭の砂利をあたらしくしたいから、りんちゃんとこの石才屋さんにお願いしようかななんて言われたけど、わたしと彼女の家は半端に遠すぎてきっとむずかしい。
「あーあーかえりたくないなー。でもあたしもりんちゃんも明日仕事だもんねえ」
「そうだね。はやくやめちゃいたいね。……コーヒーおかわりいる?」
 いりまーす、とこうちゃんは最後の焼き鳥を押しこみながら手をあげた。
 冷えきったちいさなキッチンスペース。暖房のまわりが悪いからうっすら鳥肌さえたつ。
 両手ひろげたくらいしかないシンクには、プリンとカップラーメンを食べるのに使った箸とスプーンが転がっている。目の前、あぶらがうっすらはりついてべたつく蓋、ヒャッキンの商品を駆使して壁にかけた調理器具、一口コンロの溝にたまったサビと汚れの中間色、……電気をつけたくないからうすぐらく、ぜんぶがさみしく見える。
 目を向ける。こうちゃんは壁にもたれて小さなテレビをじっと見つめている。長い髪がくたりと肩口にたれて、部屋の照明のせいで青っぽい横顔が整って見える。
 ケトルに水を入れ、微温とコーヒーのにおいが残るマグカップふたつにあたらしく粉を落とす。こうちゃんがポテトチップスの袋をあけた軽い破裂音が耳たぶをうった。
 よく食べるなあ、と思う。
 こうちゃんはよく食べる。いつもごはん三杯は軽く食べてしまうし、昔は給食のおいしくない和え物や歯に触る冷凍ミカンをわたしのかわりに食べてくれた。逆を言えばわたしはとても偏食気味だ。食べられないわけではないけど、この世界には食べなくてもいいものがありすぎると思ってしまう。
 おなかはすく。食べる。好きなものもある。でもときどき息がつまる。
「……こうちゃん?」
 ケトルが騒ぎだす。ぼごぼごぼご、その音は大きすぎて、わたしはもう一度声を張り上げる。
「こうちゃん」
 うん、とこうちゃんが驚いたように目を見開いてわたしを見る。
「どうしたの」
「……こうちゃん、こうちゃんは、食べるの、好き?」
「好きだよ」その指にはさまったポテトチップスはだれかのうろこに見えた。「どして?」
「……うーん、ううん」カチッ、とケトルのボタンがはねあがる。熱湯をマグカップに注いでいく。「わたしのまわりは、食べるのが好きな子が、多いなって思ったから」
「……そうだね」
 こうちゃんは目を伏せて笑った。モモカちゃんのことだよね、と俯いたまなざしが言っている。そういうわけじゃなかったんだよと言ってあげたかったのにできなくて、わたしは気まずさを粉に混ぜて熱湯に溶かす。
 だれのせいでもなくモモカのことを思いだしてしまった、その痛みはかかとのひびわれに似ていて、また一歩進むごとに眉をひそめなければいけなくなってしまった。
 こうちゃんはゆっくりポテトチップスを口に押しこんで、おなじようにゆっくりした動作でわたしに背を向けテレビに向き直った。
 モモカはわたしの大学のともだちで、去年消えた。
 こうちゃんと面識はない。わたしがこうちゃんと再会したのはそのすぐあとで、かつてモモカのうめていたわたしの空白は今、こうちゃんによって隙間なくうまっている。
 モモカのことは恋しく、わたしだって少し泣いたけど、思いだすと苦しいけど、でもモモカの重さはくだらない日常に負けていった。こうちゃんはわたしの傷を撫でないように気にしていて、だから本当はだいじょうぶだと言えない。
「でもさあ」
 こうちゃんの背中から声がする。淹れ終わったマグカップをマドラーで掻き混ぜながら、うん、と返事する。ずいぶんまえにスタバでもらったプラスチックのマドラーだ。なぜか捨てられないまま、ていねいに洗って使い回している。
「ときどき思うよ。食べるってぐろいなあってさ。……このまえ一緒に行った飲み屋、カウンターに生ハムのゲンボクっていうの?足?そのまま置いてあったじゃん。あれを目の前にしてもさ、見ないで、食べて、飲んで、ねむいとか仕事嫌とか彼氏ほしいとか喋ってるの、みんな、あたしもだけどね、あれ、あたし、途中からあたしの足に見えた。両隣のカップルが食べてるローストとかフライとか、あたしのからだを焼いたり揚げたりしたやつだって思ってた。まあそれにしては食べすぎてたけどね、繊細なのか残酷なのかわかんねーよってな、あははッ」
 あははッ、とわたしも笑って見せる。マグカップを持って行って、つまらないテレビを見ながら話をして、息を吹きかけながらさましたコーヒーを啜り、わたしとこうちゃんは明日の朝駅前で別れて、肉を解体し、墓石の注文を受け取り、来月また一緒に食事をするのだろう。
 モウカの星のことを、ホンモノの星だと思っているこうちゃんを、うつくしく妬ましいと思った。解体しながら、欲のまま食事をほおばりながら、健康的に我にかえるこうちゃんを。
 あす、とわたしは思う。あついコーヒーのにおいがする息をはきだしながら、思う。
 あすようやくひとりになれるから、そうしたらあそこでモウカの星を食べよう。

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