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長編小説「紡がれた僕らに終わりの春を」第四章

第四章「スイセイムシ」

 夏休み前のクラス会で、ピニーが死んじゃいましたと先生が言った。
 ピニーは毛の禿げた死にかけのうさぎだった。
 誰かが黒い絵の具で粗い木の板に書いた「ぴにい」のアンバランスな字とそっくりで、なんだか飛ぶときのぎこちなさがいつまでも治らない茶色のうさぎ。
 死んじゃいました。
 死んじゃった、よりバカっぽいと思った。なんか気づいたら死んじゃってました、みたいな。
 学級委員が泣いた。それを合図にみんなが鼻水を啜りだした。僕は席にじっと座ったまま、黒板消しで消えなかった白チョークのなごりを見つめていた。
 早く死んじゃったけどそれでよかったと思う。
 そう思っていた。でも言えなかったし、言っちゃいけないこともわかっていた。だからよけいに涙が出なかった。
 いつも、あの日当たりの悪い湿った飼育小屋で、乾いたニンジンの皮を震えながらかじっていたピニーは、かわいそうだった。かわいそうなものがいることが嫌だった。
 かわいそうなものが目の前にあるとき、僕は自分の不幸や自分が嫌だと思うことができなくなってしまった。いつも。だから苦しかった。
 あなたがつらいとおもうきもちはあなただけのものです。
 道徳の教科書にそんな詩があった。嘘だと思う。みんな触れてくる。無遠慮に。ひみつもなにもない。僕だけの気持ちもない。常に一番かわいそうな人が同情されるべきで、それ以外は一番じゃないんだから我慢しなくちゃいけない。死ぬほどの傷じゃないと、かわいそう、にはならない。
 それでも生きているんだからいいでしょう、に、なる。
 死んだピニーは先生の腕の中にいた。いたけれど、真っ白な布に巻かれてわからなかった。先生はその重みもわからないような顔でいて、教室で泣かなかったのは先生と僕だけだった。
 先生はそのころまだ若い男の先生で、黒縁の眼鏡とさらさらした黒髪だけを覚えている。顔立ちは忘れた。でもいつも、連絡ノートや日記に丁寧に返事をしてくれる人だった。どんなに長くても、はんたいに短くても、いつも僕の書くことに目を通してくれる人だった。
 みんなが涙を拭きながら、懸命に先生のうしろをついていった。昼下がり、もう帰りの時間も近いころ、廊下に差しこんだ光が眩しくて、ぼろいタイルは少しあたたまっていた。
 みんながぞろぞろ、泣きながらピニーについていく。ピニーの葬式だった。
 あたたかいところに。
 先生はそう言って、枝の隙間から光のこぼれる木の下に穴を掘った。みんな小さいシャベルをひとつひとつ持って、かけた。ピニーのおはか。先生の書いた字は綺麗で揃っていた。死んでからピニーは大事にされていると思った。
 あたたかいところに。
 おそいよ、と僕は口の中で呟いていた。死んでからじゃそんなのわかんないよ。
 いまだ泣き続けている同級生たちの円から離れた先、日陰にもうひとつ白い札が刺さっていた。ぷくぞうのおはか。ぷくぞう、はでっかく育った金魚だ。梅雨に死んだ。
 風の掻き混ぜられる音がした。顔を上げ、フェンスに指をひっかけて鼻先をくっつける。指先になにかの汚れがつく。
 電車が来る。
 僕の通っていた小学校は、むかし山だったらしい。だからグラウンドが四つもあって、クラスで飼っていた生き物が死んだとき、埋めるのは一番遠い第四グラウンドの端っこだった。高く張りめぐらされたフェンスの向こうには線路があって、ときどき電車が走り抜けていく。
 電車は大きな音を立てて僕の目の前を飛んでいった。風が起き、フェンスが揺れ、髪が煽られた。ぶぶぶぶん、とフェンスはまだ痺れたように揺れていた。
「かんざきくん」先生の声ははっきりしているのにやわらかかった。「いきますよ」
 同級生たちが僕を見つめていた。二メートルほどの距離が随分遠いように感じていた。そのたった二メートルを走った。走って、最後尾にくっついた。
 ピニーのおはかとぷくぞうのおはかに、それ以降、手を合わせることはなかった。
 ただ、教室に水槽を置いたり、飼育小屋に動物を入れたりするのはうんざりだと思った。
 かわいそう、を学校で見るのはもう嫌だった。

 ピニーが死んで三日後、終業式が終わった。
 昇降口で蝉がひっくり返っていたけれど、おかまいなしに靴に足をつっこんで、校門を飛び出した。すでに汗をかいていた。
 校門を出た先、昼間の町は知らない場所みたいで少し怖い。
 息を切らして坂を駆け下りる。ランドセルは僕の背中でいやいやするように左右に揺れる。
 両腕にアサガオの鉢を抱えていた。
 咲く前からしおれていて、わかる。どうせ綺麗に咲かないことなんか。
 それでも持って帰って世話をしろと言われるし、絵日記をかかなくちゃいけないし、しかたがない。しかたがないけど、置き場所がないと言って伯父さんはどうせ不機嫌になる。
 夏は気持ちが悪い。
 見上げると頭に血が上ってぐらっとするほど高い青空も、肌が焼けるほどの日差しも、汗も、その熱も、照り返しや蜃気楼や虫やいろいろが気持ち悪い。プリントを何枚も重ねて分厚くなったそれをホチキスの針でひとかたまりにして、そんな退屈な夏休みのしおりも嫌いだった。
 アサガオの鉢を抱えたまま家に帰ると、庭先で伯父さんがなにかを洗っていた。緑色のよれたホースからちょろちょろと道路へ水が流れ、黒いコンクリートにさらに濃い染みを広げている。ぷくぞうの水槽と同じにおいがする。日に焼けた皮膚は赤っぽく、汗が滲んでいた。
 門扉の前で立ち止まっている僕に伯父さんがふと気づき、またすぐに目線を戻した。
 伯父さんはサンダル姿で水槽をひっくり返し、念入りに洗っていた。
「金魚死んだぞ」
「え?」
「そろそろ死ぬと思ってたけどやっぱり今日死んだな」伯父との会話はいつも、ひとりごとどうしを交わしているみたいな感じがする。「よく生きた方じゃないか」
「死んじゃったの」
「死んだって言ったろ」
「……このまえ、うさぎも死んだ」
「うさぎ?」
 そう言いながら、伯父さんはこちらを見ない。節くれだった指で神経質に水槽の四隅を擦っている。水、出せ。相変わらずひとりごとみたいに言う。僕はアサガオの鉢を玄関ドアの前に一度置き、蛇口を捻った。水のふきだす音がする。
「ピニーってうさぎがいたの」
「ふうん」
「死ぬことがわかってるのに、なんで飼うの。かわいそうって、思わないのかな」
 うちにいた金魚は、前に母親が夏祭りの屋台ですくったやつだった。僕はそのとき四歳だったから、金魚はぴったり四年生きていたことになる。結局飼えないと母親が言いだして、伯父さんの家――もともとは実家――に置き去りにした。適当な飼育でも彼らは大きく育っていた。
「一番かわいそうなのはおまえ、人間だよ」
「……なんで?」
「おい、あれあんなところ置くなよ」
 伯父さんは苛立ったようにアサガオの鉢を指さしていた。その指先から透明な水がぽつぽつと垂れて、小規模な雨に似ていた。うん、とこたえる。アサガオの鉢の置き場所がどこにもないのに、僕は種を植えてしまった。みんな一緒だ。僕もおんなじだ。
 伯父さんの手によって洗われた水槽はその日一日中ひっくりかえり、小規模な雨を降らせていた。金魚の死体をどこにやったかと聞くと、伯父さんは燃えるゴミにまとめたとなんでもないように言った。焼き魚の皮や骨だってそうやって捨てるんだから、埋めたってしょうもないだろ。伯父さんの言うことは別に間違っていないと思った。
 こころから弔わないくせに墓を作るほうがグロテスクだ。
 次の日の朝、あてがわれた小さな部屋の窓からゴミ収集車を見ていた。
 僕の住んでいた家からちょうど正面数メートルのところにゴミ捨て場がある。二人の人間がゴミ袋を次々収集車に投げこんでいく。あの中に金魚がいる。
 指定のゴミ袋はどれも余計なことを言わないように口をきつく縛られているから、僕たちの家にいた金魚がどこにいるのか、探してもわかるわけがなかった。

 伯父さんとは四年暮らした。
 母親が僕を伯父さんに預けたのは僕が四歳のときだった。あの金魚と一緒だ。僕はたぶん母親にとって、ほしかったのは本当だけれど手に負えなくなった金魚と一緒だった。
 真央と離れないと、死んじゃうんだってさ。
 伯父さんは僕を抱いて、遠のいていく父親と母親の乗った車を見送りながらそう言った。
 伯父さんは母親の三つ上の兄で、未婚だった。実家をそのまま引き継いで暮らしていたから、当時まだ三十歳手前にして大きな一軒家に住んでいた。仕事はなにをしているのか、なにが好きで嫌いなのか、よくわからない人だった。
 苦しくなかったけれど、でもずっと、居場所はなかった。用意されたところにいるんじゃなくて、はじめっからスペースがないのに僕が無理やり押し分けて座りこんでいる気持ちだった。
 食べるものに困ったことはなかった。えんぴつも消しゴムもノートもなくなれば新しいものを買ってくれたし、音読の宿題は面倒くさそうに聞いてくれた。スイミーが一週間連続でも。でも伯父さんはずっと伯父さんで、お父さんじゃなかった。
 八歳の真冬、母親が迎えにくるから荷物をまとめて車に乗れと言われた。
 いつも通りの顔と口調だった。僕はランドセルと手提げに少ない荷物を詰めこんで、伯父の車、後部座席に座っていた。
「三番線のホームにいろ。加奈子がくるから」
 加奈子、と呼ばれると、同じ人間をさしているはずなのに、誰だかわからない不安が押し寄せた。
わかった、と小さな声で返す。
 駅に着くと、僕は相変わらず小さな声でありがとうと言った。
 最後になりそうだと思った。思ったけれど、伯父さんは僕が車を降りると手をひらりと泳がせ、そのまま去ってしまった。
 排気ガスの白と僕の吐息の白が混ざって、しばらくあいまいに溶けていた。
 ホームで寒さに足をかたかたと揺らしながら母親を待った。ずっと同じ椅子に座りこんで、来る電車一本一本じっと見送るだけの僕は少しだけ目立った。一度、おばあさんに声をかけられたけれど、首を振って、ポケットに手を入れていた。
 ポケットの中身は、クリスマスに伯父さんがくれたミニカーだった。小さなミニカー。それで遊ぶことはなかった。いつもポケットに入れて、手を入れたとき、触れるようにしていた。
 クリスマスプレゼントをもらったのは初めてだった。
 ミニカーを取り出し、指先でいじる。寒さにかじかんで、指には赤みがさしていた。白い吐息がのぼって消えていく。唇が震えた。
 自販機を見に行った。どれも僕の持っているお金じゃ足りなかった。長く白い息がいつまでも伸びるから、僕の中身がそのうちどんどん外へ消えてしまうのではないかと怖くなった。
 寒かった。
 当時スマホなんて持ってなかった。誰にも、あとどれくらいで母親がくるのか聞けなかった。
 関東でも都会から離れた僕の町の駅にはほとんど人がいなくて、そのホームのからっぽさに涙が滲んだ気がした。その瞬間、なにもかもが恨めしくなってしまった。鼻水が出て何度も啜った。耳が冷えすぎて痛かった。
 急に心の底が抜け落ちたみたいに、電池が落ちたみたいに、歩けなくなった。
 三番線と四番線のまんなかで立ち尽くしていた。やっと涙が出てきた。
 あのころ僕はまだ泣くことができた。
 悔しいのか、悲しいのか、つらいのか、わからなかった。感情をその場で理解することは難しかった。ただあのとき、僕はずっと泣いていた。
 ミニカーをゴミ箱に捨てた。
 すえた臭いで覗きこんだら、捨てたミニカーは誰かの吐しゃ物にまみれていた。加虐心がそこでちょっとだけ納得した気がした。本当は伯父さんたちを捨ててしまいたかった。ミニカーが僕じゃないと信じたかった。
 それから三十分後、母親がホームを駆け下りてきた。四年ぶりに見る母親は、伯父さんに僕を渡したときより綺麗になっていた。若返ったように見えた。
 ママ。
 音が言葉になる前に、僕は右手を強く引かれた。母親は僕を見ていなかった。滑り込んできた電車に乗りこみ、そこで僕は母親の手に指輪がないことに気がついた。
 駅を三つほど過ぎたところで、ミニカーを捨てた罪悪感に涙が落ちた。
「なに」母親が路線図を見上げながら僕に言った。「泣いたってどうしようもないわよ」
 泣いたってどうしようもない。
 その母親の口癖をはじめて聞いたのは、あの時だった。
 どうしようもないのに涙が出るのはなんで、そう聞きたかった。
 ねえママ、人間ってよくできてるんでしょ。じゃあ意味のない涙はどうして出るの?
 なにも言えないまま、四年暮らした町はあっけなくうしろへ飛んでいくだけだった。

 目が覚めてすぐ、長いため息がこぼれた。
 たしかに夢を見た。
 八歳の真冬、母親と電車に乗っていたあの記憶。まぶたを擦りながら、でもあれは夢なんて言えるのかと思った。カナノの押し入れやくじらのほうが夢だって言える気がする。
 くじらの夢が見られたら、少しは眠れたと思えるのに。きっと。
 カーテンを開け放す。水曜日。初年次クラスのある日だった。げんなりする。ため息つきながら窓を開ける。すでに気温が上昇し、今日の空も変わらず高い。
 スマホで天気予報を見る。最高気温三十五度。梅雨があっという間に乾燥して、いつの間にか夏が始まった。日本の夏はいつでも生き急いでいるみたいに、急激に変わっていく。
 乾かなくて、コインランドリーに行くには高くて悩んでいた洗濯物も、このごろ帰ってくることにはかたく乾いている。
 夏が近づくと憂鬱になっていく。夏が嫌いなのは、おぼろげな記憶のほとんどが夏のものだったからかもしれない。伯父さんの洗っていた水槽が、翌週粗大ごみのシールを貼られて外に放りだされていたことも、生ごみにまみれた金魚がおそらく収集車の中でぐちゃぐちゃに潰されたことも、アサガオは結局綺麗に咲かなかったことも。だから絵日記に嘘ついたことも。
 夏にはろくな記憶がない。
 夏バテしやすいせいで食欲もなかった。身支度を済ませてアパートを出る。べたつく日焼け止めをめんどうくさがりながら塗っても、夏の終わりにはいつも肌が荒れる。
 キャンパスに足を踏み入れて、嫌だ、の気持ちがより膨れ上がる。でもどうせ、あと一回行けばしばらく夏休みに入る。そうすればA子や南沢やそのほかのやつらに、へらへらしなくていい。
 居場所を押しあけるのではなく作ろうとして空回った結果を、春には知った。このごろ、笑うことさえ嫌になってきてしまった。A子のラインは梅雨前に消してしまったし、通知のくるグループラインは非表示にしていた。だんだん誰と誰の仲がいいかわかってきてしまって、その間に傍観していたせいで僕にはあのクラスでの友人がいなかった。
 教育棟に向かうとき、教会の前を通る。まだ五月のころ、セージとはじめて行った礼拝を思い出していた。教会には誰もおらず、ドアが解放されて中の様子が少し見えるだけだった。
 もうほとんどセージに会っていない。
 唯一重なっている講義で顔を見られるけれど、忙しいのか挨拶を交す程度で終わる。会っていない、そういうほうが等しい。
 ――夏、バイトが結構忙しくなるんだ。暑くなるとさ。
 特殊清掃員のバイトを今もずっと続けているらしい。セージはどうしても自転車でバイト先に行かなくちゃいけないと言い、講義が終わるとさっさと教室を出て行ってしまう。
 またね。
 そうやってひらりと揺らす手は、夏になっても白かった。
 エレベーターで十一階まで上がる。奥に初年次クラスの講義を行う教室がある。
 講義が始まるまであと五分だった。早足になる。廊下はしんとしていて、キャンパスの騒がしさが嘘みたいになる。廊下は空調が絶妙に効いていなくて、空気が生ぬるい。
 ドアのガラスから教室を覗く。半分以上来ていて帰りたくなる。それでもドアを押し開ける。
 何人かが僕を見た。
 見て数秒後、嘘みたいにわかりやすく目を逸らし、また喋りだす。
 ――穴があいてるんだ、とわかった。この空間に。
 空気が抜けていって、教室のぬめったような感覚が肌に張りついてくる。息があんまりうまく吸えていないと思う。リュックサックの紐が片方ずれる。冷房は少しきつかった。
「オハヨー」
 その声に顔を上げる。南沢が半笑いで僕を見ている。小馬鹿にしているというより、笑い方がわからなくて引き攣ってしまった不細工さだった。
 僕のことが好きじゃないんだろうなとか、今こいつ機嫌が悪いなとか、僕は他人の感情が見える。だいたい当たっている。それで今、まさにそういう空気が足元に沈んで澱んでいるのに、南沢は僕に向かって笑いかけている。
 奥の席に座ったA子のまなざしが歪んでいる。女子の目の色は気持ちが悪い。焼きすぎた魚の、白濁した目と同じ濁りに見えるときがある。
 ――もういいでしょ。
 そういう合図を自分の中に出したんだろう。
 穴をあけたのはA子だ。
 でも、ナイショにしようといったのは彼女だった。彼女の中でなにかがずれたのかもしれない。バカみたいだ。
 僕はドア近くの一番手前に座った。誰も僕の隣に座ろうとはしなかった。A子の隣でB子がネイルを褒めている。A子は自分の爪に明るい関心を向けているB子に返事をしながらも、時折その濁った目で僕を見る。睨んでいるようにも見える。
 おんなってなにがしたいのかわかんねえよなー。
 小学生のころ、もう顔も忘れた同級生が、色気づきだした女子たちに向かって言ったのを思いだした。わかるわけねえだろ、とこころの中で吐き捨てながらリュックサックを開ける。よれたビニールから真っ白なルーズリーフを取り出す。シャーペンで日付を書く。七月十八日。セージの字を思いだす。ああ最近、本当に、ほとんど会ってない。
 セージだけでいいのに。
 ふとそう思った。セージだけでいい。セージくらいだ、まともに話ができるのは。だってたとえば、この教室で僕の好きなものの話をしても、本当の意味の会話なんてできない。
 教授が入ってきて講義が始まる。初年次クラスなんて正直いらないと思う。大学に行ったら、もっと好きに自由になれると思っていた。
 A子と何度か目が合った。目が合う度、A子に対して怒りのような感情が湧いてくるのに、気づけばすぐに目を逸らしていた。本当のところなにをみんなに言ったのか問いただしたいような気持ちと、もうどうでもいいやなんて気持ちが混ざってどうしようもなくなった。
「じゃあ来週のグループワーク、お願いしますね」
 はあーい、という間延びした返事がいくつか聞こえた。焦ってラインを見る。たしかにそんなような連絡がきていた。
 A子がさっさと教室を出ていく。気まずいから最後まで残ろうと考えていたら、B子が全然動かなくて困った。
 彼女を見ていたせいか目が合う。いつの間にか教室は僕とB子だけだった。
 B子が不機嫌そうに僕を見る。赤いリップを引いた唇が歪むように動いた。
「なに」
「……グループワーク、あれ、僕知らなくて。もう組んでるのかなみんな」
「グループラインで聞けばいいのに。ばかじゃん」
 B子はずけずけとそう言った。それから僕の顔を見て、ああ、と呟く。
「きみ、干されてるもんね。いいよ、あたしと組めば」
「干されてるって」
「浅田ちゃんがなんか言いふらしてるからね」
「……信じてるの」
「信じるわけないでしょ」
 B子は鼻を鳴らし、スマホを取り出す。少しして通知が届き、B子が僕をラインに追加したのがわかった。
 せりざわほまれ。どういう字かわからない。すべてひらがなの丸っこさにごまかされている。京都かどこかの町並みをバックに、着物姿のB子がアイコンになっている。
「だってあたし見てないもん。だからきみのことも信じてない」
 顔を上げる。B子はスマホ越しにこちらに一瞬目線を向けた。それから椅子に深く腰掛けなおした。その動きで薄い素材のスカートがふわりと膨れて、思わず顔を伏せる。
「あたし、このクラスの人間嫌いなの。ウザイから」
「……なんで」
「ウザイから、って言ったじゃん。そういう感じだよ、あたしが言ってるのは」
 素材のいまいちわからない、べっこう色したヘアクリップでまとめあげた黒髪。細い輪郭と首筋。安そうにも髙そうにも見えるまずまずな衣類、どこにでもありそうなその組み合わせ。短い爪はなにか塗ってあるのか、透明なのにときどき光る。
 B子の目はセージと同じ猫目なのに、より吊り上がっていて、より視線がまっすぐで、セージよりはっきりした光を含んでいる。彼女はその目で僕をじっと見つめている。
「浅田ちゃんは気持ち悪い。南沢もそう。なんかあのふたり、すっごい似てると思わない?八方美人どころじゃないよ、四方八方美人面だよ」
 シホウハッポウビジンヅラ、と八方美人の違いがよくわからなかったけれど、僕は頷くしかなかった。ネイルを褒めていたとき、A子のことを気持ち悪いなんて言いそうにないほど笑っていたくせに。
 それでさ、とB子はまた僕を見る。
「きみってなんでいっつもヘラヘラしてんの?ぶっちゃけ嫌いでしょ?南沢も、あたしのことも、てか、全員。この世の全部恨んでる顔してるもんね。なのに春先がんばっててさ、あー、なんかもがいてるやついんなあって、思ったんだけど」
 失礼なことを次々ぶつけられているのに、僕はなにも言えないままだった。そうだね、と言いそうになって、口を噤む。ほらそれ。そう言われるに決まっていた。
 B子は僕が苦手だった小学校高学年のころの担任に似ている。わからない問題を答えさせるときに、瞬間瞬間で指摘してくる女だった。ほら、それ。ほら、そこ。突っ立ったまま、僕はB子の話が途切れるのを待つしかなかった。
「おんなじ人間と一緒にいなよ。そうしたほうがいいと思うよ。わかりあえない関係性、そのままあと三年間引っ張れるの?このクラス、しょうもないくせに卒業までメンバー変わらないしさ。同じような人、見つけなよ。あたしそうしてるよ。うわべだけ耐えておけばいいんだし。……あのさ、どうせ人間、同じような人としか一緒にいられないんだよ。わかりあいましょーねって、無理無理。つかなんの話してるんだろって感じだね。かえろ」
 かえろ、の三文字は、空き教室の真ん中に放られた。
 じゃあ資料送ったから。それ見といて。あとで大学メールにスライド送る。
 B子はそれらを早口でまくしたてて、さっさとバッグを持つと教室を出て行ってしまった。
 まるっこい、せりざわほまれは噓つきだなと思った。セリザワホマレにすればいいのに。


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