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長編小説「紡がれた僕らに終わりの春を」第二章

第二章「ざらめのひかり」

 母親からの電話で目を覚ました。朝の六時半。アラームより三十分早い。
「もしもし」声が枯れているから咳ばらいをする。「どうしたの」
「寝てたの」
「ああ、えっと、うん」
「一年生なら一限あるでしょう。この時間で間に合うの」
 別に間に合うよ、とか、むしろその電話がなければあと三十分は眠れたんだけど、とか、いろいろ寝起きのわりに頭に浮かんでくるくせに、僕はなにも言えない。ぐしゃぐしゃになったまくらを片手間に引き上げて、定位置に戻す。
「今日なんだけど」母親の声は朝でも夜でもはっきりしている。「いつ大学終わるの」
「えっと、三限」
「バイトは入れてるの」
「あ、いや、入れてない」
「あんたの最寄り、どっか適当なカフェでも入って待っててくれる」
「わかった、」
 あの、と反射で言葉を続けようとしたけれど、電話はそこであっさり切れてしまった。
 母親はいつもこうだ。
 今朝はひどく曇っていた。カーテンを開け放しても、レースの向こうにグレーがかったやる気のない空が広がっている。
 五月も折り返しに入り、梅雨が少しずつ近づいてきているのを感じる。
顔を洗い、蛇口をしめる。アパートの建てつけの問題か、しめてもなぜか数秒間ぼたぼた水が落ちる。柔軟剤を入れないせいでかたくなってきたタオルに顔を押しつけ、歯を磨くとミントくさい泡をゆすいで吐き出した。
 スニーカーがまだかたい。おろしたてのせいか、安売りだったせいか。それにやたらと右足の靴紐がほどける。今日も玄関を出て百メートルほどでほどけた。
 うんざりしながらかがむ。よろけてアスファルトに一瞬手をつくと、ぬるいとも冷たいとも言いきれない、半端な温度が伝った。かけたコンクリートがはりついたのを払う。
 手がなぜか冷たい。不格好な蝶々結びをおえると、ポケットに手を入れて歩き出した。

 早朝の風はぬるくなりはじめていた。四月まで風に乗っていたあの春特有のにおいはいつの間にかうすれ、五月の風は無臭に近い。桜はとうに落ちきり、花びらの変死体がいたるところにくずっぽくなって溜まっている。
 時間も早いせいか、キャンパスを歩き回る学生はまだまばらだった。教育棟に向かう学生とは真逆に踏み出し、キャンパスの右端にある小さな教会目指してまっすぐ歩く。
 大きな観音開きの木製のドアは開け放されている。一歩一歩近づくたび、湿ったように力のない雑草を踏んだ。
「真央、こっち」
 入り口から二メートルほど離れた場所にセージが立っていた。ほっとする。
「おはよう」
 陽の光、その真下で改めて見たセージの髪は真っ黒だった。対照的に肌の色は白く、唇でさえもさほど血色を感じない。
 入っていいの?僕の質問に頷き、迷いなく正面から教会に入っていく。
入学してからはじめて足を踏み入れる場所だった。明らかに日常から切りはなされた空間がそこにあった。
 早朝の礼拝。
 行ったことがないと言った僕に、じゃあ一緒にくる、とセージが聞いたのだった。
 普段解放されているものの、神学科と他学科がなんとなく別の場所にいるように、教会も他学科の僕らにとっては馴染みのないところだった。ひとりでそうそう足を踏み入れられるものでもない。
 僕らはうしろの席に並んで座った。木の椅子は想像よりもかたいのに、なぜか落ち着いた。顔をあげると、大きなステンドグラスに目線が吸いこまれていく。
 射しこむ早朝の白い光は、色とりどりのガラスを通して虹彩に生まれ変わり、それなりの雰囲気を染みつけていた。神学科の教授か神父か、中年の男性が物静かな口調でなにかを喋っている。
 隣に座ったセージを盗み見る。セージはまっすぐに、ステンドグラスでも、男性でもないどこかを見つめていた。数秒後、僕の目線に気づいて顔を寄せる。
「座っていればいいよ」セージのかすかな声はそれでもちゃんと耳に触れる。「それだけ」
 返事のかわりに頷く。男性の声はマイクを通していても威圧的ではなかった。セージがなにかを取り出す。小ぶりな書物で、聖書だとわかった。セージは静かにページをめくり、僕との間にそっと置く。指先がページに触れ、ここ、と言うように一か所でとまる。
 ヨハネによる福音書。
 聖書のページは清潔だった。ただ真新しいわけじゃなく、もはや潔癖とも感じられるような、それはぴんと張ったページに一切の書き込みも折癖もないせいかはわからなかったけど。
 聖書を覗きこもうとするとセージの左半身が近くなる。セージからは今日も石鹸のにおいがする。香水でもない、ただただ風呂場のあの石鹸と同じにおい。無意識に深く息を吸っていた。
 ちらりとセージを見上げる。高い鼻筋。薄い唇。下向きの睫毛。耳にかかる黒髪。襟足は涼しげに刈り上げているけれど、それをあいまいにするように、まっすぐな黒髪がつむじから伸びている。左耳に塞がったピアスホールが見えた。
 セージの横顔はもはや病的なほどに綺麗だったけれど、どこにも光がなかった。それは教会が暗いせいか、ステンドグラスの虹彩に消されているせいか、僕にはわからなかった。
 男性の声だけが穏やかに飽和する。
 背筋を伸ばしてまっすぐに正面へ顔を向ける学生たちと、僕の隣で同じようにしているセージ。場違いなのは僕だけだ、とぼんやり思う。思いながら目線をあげたら、虹彩で逆光ができ、男性の輪郭はやけにあいまいに目に映った。

 礼拝が終わっても、セージは腰をあげない。僕もそれに合わせて座ったまま、教会を出ていく学生たちを意味もなく見送っていた。
 さっき最前で聖書を読み上げていた男性が出ていくと、ようやくセージが腰をあげた。
「退屈だった?」出口で僕を振り返る。
「え?」
「聖書」
「ううん、結構面白かったよ」
「そう」セージはやわらかく静かに微笑んだ。「真央は正直だよね」
「正直、」
 セージはドアを押し開ける。外気がふわりと膨らみ、僕とセージの前髪を下から吹き上げた。空は相変わらず薄曇りで、なんだかずっとあいまいな天気だった。
「さっきの人って、神学科の先生?」
「ああ、うん。佐藤先生。いい人だよ」
「神父さんじゃないんだ」
「神父もやってる。むしろそっちが本業なのかな。先生っていっても非常勤なんだ」
「そうなんだ」
「今日は一限よかったの?」
「あ、今日休講」僕はセージの見せてくれた聖書を自分が持ったままなのに気づいた。「二限から」
「そっか、じゃあまた暇なとき来たらいいよ。いつもあんな感じだけど」
 じゃあここで、とふいにセージは話を切り上げた。気がつくと、いつの間にか教育棟の前まで歩いていた。またね、と言いかけてはっとする。
「あ、まって、セージ」
 セージが振り返る。僕は右手に持ったままの聖書を差し出した。
「ごめん、僕が持ってた」
「ああ、……ありがと」
「じゃあね」
「うん、また」
 セージは背中を向けると、一度も振り返らずに歩いていった。その神経質そうな指に絡めとられた聖書が、息絶えたように目に映った。

          *

 雨が降り始めていた。
 六月が近づいてきているのを感じる。雨のにおいはなぜか呼吸を浅くする。
 北口のショッピングモールで雨をしのいでいた。天気予報を見る、その習慣が二十年経っても染みつかない。
 リュックサックの中にはペンケースとルーズリーフ、財布と鍵、それしかない。キャンパスからバス停まで傘なしで歩いたせいで、リュックサックの頭は濡れていた。
 雨がやむ気配もない。
 諦めて一歩踏み出したら、湿った風が顔面に触れて、なんだかどうでもよくなってきた。
 グレーの布をかけたように空は暗く、駅前の電光掲示板が知らせる時間はうそをついているみたいだった。
 雨が降っていても空気はうっすらとぬるくて、季節さえもよくわからない。鬱っぽいだけの午後だった。
 いちばんはじめに目についた喫茶店に入ろうと決めた。サラリーマン、女子高生、主婦らしき中年の女を追い抜き、ときおりごたついている人と人の間をすり抜け、銀行の向かい、小さな看板が見えた。キッサ。その字が確かに黒々と書かれていた気がした。
 信号がちょうどいいタイミングで青になる。なぜか走り出す。すぐに息がきれる。
 木製のドアを引っ張ったら想像よりずいぶん軽くて腕が持っていかれる。ベルが騒々しく鳴り、落ち着かない気持ちで割れモノを扱うようにドアを閉めた。
 あたたまったにおいとコーヒーのにおい。あめ色の床板、オレンジ色の照明、深緑のカーテンがかかっている窓は大きく、ぼやけた雨降りの景色が向こう側へ追いやられている。壁紙はおそらく細かな花柄で、中央のカウンター越しに見える大きな時計が目についた。
「空いている席にどうぞ」
 やわらかい声に振り向くと、エプロンをつけた無害そうなおばさんがほほえんでいた。会釈をして、いちばん奥、窓際の席に座る。窓の傍は少しだけ冷えている。
 低いテーブルの端には、よく見る黒い円形の灰皿が置いてあった。壁紙がうっすらと黄色いのは煙草のせいかもしれない。吸い殻は一本もなくて、かすかな灰がひとかけら、隅っこで身を寄せ合っていた。
 クラッシュアイスと水が半々混ざった小さなグラスと、あつい、に近いおしぼりが出される。おしぼりを広げると湯気が上がり、その奥で洗濯機によく似たにおいがした。
 メニューに手を伸ばす。広げるとめりっと音が鳴る。ずいぶん前に撮られたであろう写真の料理はどれも色あせていた。それほどお腹は空いていない。ドリンクメニューに目を通し、目に入ったものを注文した。
 母親がやってきたのは、飲み物が半分以下になったころだった。ベルの音に顔をあげると、スーツ姿の母親がこちらに向かって歩いてくる。見慣れているはずなのに見慣れない。この前会ったときには胸元まで伸びていた髪がボブくらいになり、また年齢がわからなくなった。
「何飲んでるの」母親は薄手のコートを脱ぎ、腹のあたりでふたつおりにしながら、僕の飲み物を確認した。「なによ、トマトジュースなんて、ここでなくたっていいじゃない」
 母親からはうっすらと雨のにおいがした。
 足元に目を向けると、黒い合皮のブーツを履いていた。雨に濡れたそれは薄暗いテーブルの下でぬっとりして見える。
「……喫茶店で飲むのがいいから」
 ほら、と僕は白いストロー持ち上げて言う。ねろ、と根元から赤い液体が落ちる。
 足つきのメロンソーダと同じグラスに大量に入ったロックアイスと、飲み慣れたメーカーより酸っぱいトマトジュース。ロックアイスが溶けると薄い橙色の膜と、赤いトマトジュースとで層ができる。これに卓上の塩をかけて飲むのが好きだった。
「あらくだんない」
 そう言って向かいに座る母親に、害のない笑みを浮かべる。
朽ちたもの、つまり今に取り残されても平然としているものが僕は好きだった。
 チェーン店より古ぼけた喫茶店。新品じゃなくて古着。セーターほどいた毛糸で作った編み物。街角に転がるゴミ。錆びた自転車。乾ききらない水たまり。剥げたポスト。忘れ去られそうな隙間に存在する店。うっすら埃を被ったもの。そういうものが好きだ。
ちょうど奥からおばさんが水とあたたかいおしぼりを持ってきたので口を噤んでしまった。
 かわりに唇の隙間へストローをさしこむ。混ざりきらない溶けきらない塩の粒は、きまぐれにトマトジュースの味を変える。それがおいしかった。
「大学はどうなの」口早にホットコーヒーと注文を言いつけた母親が僕を見る。「楽しいの」
「まだ少ししか経ってないから――」そこまで言いかけて、母親の長いつくりものの睫毛の奥を見て言い直す。「経ってないけど、楽しいよ。母さんの言うとおりいい大学だと思う」
「そうでしょ」
「……教会が綺麗だよ。キャンパスのはずれの、あの、パンフレットの表紙になってた」
「あんた文学部でしょう。文学部ってなにしてるの」
「ああ、……」潤いすぎた喉にそれでもトマトジュースを流しこんだ。「今は、宮沢賢治」
「銀河鉄道のなんちゃらでしょう。金髪の女の」
 ちがうよ、と言いそうになったけれど、僕はあいまいに笑ってごまかした。
「せめて法学部とかに行ってほしかったんだけど、まあいいわよもう。文学部なら教職課程がとれるでしょ。最低でも公務員か教職とってよ。高い学費払ってるのはあんたじゃないから」
「あ、もうガイダンスには……」コーヒーが運ばれてきたから口を噤む。おばさんの人懐っこい、ごゆっくりどうぞ、に僕だけが憂鬱な鳩そっくりの会釈を返す。「……ガイダンスは行った」
「そう」
「……母さんは、元気そうで、よかった」
 僕はトマトジュースを飲み干してしまったことに気づかないふりでストローをくわえる。
 母親は一瞬僕を見つめ、それから頬杖をつく。……ほっとする。
癇の悪い子ね、癪に障るわよ、とは今日は言われずに済んだ。湯気をまとったコーヒーのにおいが母親と僕の間に膜を作っていく。
「あんたに話があるのよ」
 目をあげて話を促す。母親はちらりとテーブルの上に目線を落とし、僕に手を伸ばす。
 砂糖、とって。あんたの左。
 はっとストロー外して、シュガーポットを手渡す。金色の小さい匙の柄が、年季が入っても美しい白の陶器から顔を出している。僕の手の中で照明の光を反射したけれど、母親の手に受け取られた瞬間、くすんで見えた。
 母親は金色の匙でコーヒーに二回砂糖を落とす。それはどこかティンカーベルの魔法の粉みたいにも見えた。薄暗い店内を照らすオレンジ色の照明。それに照らされて、砂糖と母親の睫毛は雪みたいに光っている。
 窓の向こうに目を向ける。雨足は強まり、そのざらざらした音が靴やタイヤによって大きく鳴ったり崩れたりする。傘を忘れたらしいまだあどけない制服姿の男の子が、額の前で気休め程度の傘を手で作って走り抜けていく。
「泉さんと暮らそうと思うの」
「……え?」
「え、ってなによ」
「……泉さんって、銀行の人」
「それは前のヤツでしょ」母親は無関係になった人間を、ヤツ、とさも不快そうに言う。「不動産の仕事してる人よ。ちゃんとしてるわよそんな目しなくたっていいでしょ」
「ごめん、そんなつもりじゃなかった。びっくりしただけで」
「なんでびっくりなんかするの。別に自然なことでしょ」
「そうだね」机の端によけたおしぼりはもう冷たい。「……どれくらい、付き合ってるんだっけ」
「それ言ってあんたどうするの」
「……いや、つまり、同棲ってことだし」
「二年。結構長いこと一緒にいるし、じゃあもういいんじゃないのって話になったの」
「そうなんだ。長いね。確かに」
 俯いていた顔をあげた。僕がいつでも黒いかたまりぶつけて非難できるのも、殻に閉じこもって避難できるのも、僕の中だけだ。
「好きなの頼めばいいじゃない」母親は沈黙を破るように僕のグラスに目をやって言った。「からっぽのやつ飲むんじゃないの。氷が溶けた味つきの水なんておいしくないじゃない」
「そうだね」僕は笑う。「まずいね」
 通常メニューとは別に、期間限定のメニューがあった。母親はそれを手に取り、これ飲めば、とひとりごとみたいに言う。
「桜のメロンソーダだって」
 おいしそう、と僕は囁くように小さい声で呟く。母親が手をあげ、出てきたおばさんへ、これひとつください、と一切の愛想もない声で言いつける。
「にしたってもう季節外れだわ」メニューを立てかけながら母親が言う。「桜、全部散っちゃったじゃない。もう五月よ」
 ――そうだね。
 僕は笑う。
 シュガーポットの蓋を意味もなく開ける。粗いざらめのある店はあたりだ。
 蓋を開ければ人間なんてどこにいても本質はかわりゃしない、と思う。そんなことちゃんと知っている。それでもいつかの僕は、時間や環境が、少しでもこの人を変えてくれると信じていたことも思いだす。
 なぜこの人は知らないのだろう。
 くだらない、どこでも飲めるトマトジュースが実はおいしいこと。それを喫茶店で飲むのがどこか特別なこと。宮沢賢治の銀河鉄道の夜にメーテルはいないこと。小説が美しいこと。僕にとってそういうひとつひとつが重量を持った確かな価値であること。僕は確かに母親のからだから生まれ落ちたけれど、命として別物であること。泉さんという名前を聞くと心が痛いこと。あの日、迎えに来てほしかったこと。僕がいると死んでしまうと言って伯父さんに頭を下げた日、僕が寝たふりをしていたこと。
 なんで知ろうともしないんだろう。
 でも僕はそもそも、この人に知っていてほしかったんだろうか。
 本当のところはどうだった?
 僕の前に桜のメロンソーダが置かれる。さくら色のソーダ。跳ねる炭酸。アイスクリームの上に乗った桜の塩漬け。銀色の柄の長いスプーンはどっか曇っていて、僕の顔すら映らない。
 アイスクリームにバニラビーンズが入ってる、とか、これじゃメロン要素ないんだから、桜のソーダフロートでいいよねとか、そういえば講義がハズレだったとか、バイト先で割りよく映画が観られるんだよとか、そういうどうでもいいことを喋れないのはどうしてだろう。
 僕はいつも、いつでも、この人にとってちょうどいい自分を探し続けている。
 好感度を予想して逆算した選択肢、そこに間違いがないか怖くなる。僕たちは正真正銘、親子であるはずなのに、どうしてこうなるんだろう。
 口の中でもたついたバニラアイスの甘み、そのしつこさに今更気がつく。こういうの別に好きじゃないよ、なんて言えない感じ。舌が痛い。冷たいせいかもしれない。
 もうこういうの好きじゃない。
 言えなかった。伯父さんから憐れむようにクリスマスプレゼントをもらって、でもそれが僕をいつまでも知恵のない子どもだと思いこんでいるようなミニカーで、ねえおじさん、僕もうミニカー好きじゃないよ、このミニカー買うくらいなら本を買ってほしかった、そんなこと言えずに嬉しそうに笑ったときと同じだ。
 あのミニカーは伯父さんが僕を駅に送り届けた最後の日、ホームのゴミ箱に捨てた。
 誰かが便器と間違えたのか、ゴミ箱からはすえた吐しゃ物のにおいがした。背伸びして覗きこんだら、吐きそうなにおいがして口をおさえた。ミニカーは誰かの吐しゃ物にまみれて、落下死した人間のようだった。恨めしそうに僕を見上げるちゃちなサイドミラーが醜かった。
 かたい椅子に座りこんで、母親を待った。三十分後に母親は階段を降りてきて、無言で僕の手を引くと、ドアが閉まる寸前だった電車に飛び乗った。会話はなかった。
 そういうなにもかもを、この人は覚えているんだろうか。
 答え合わせの必要なんかない、知っていながら、あの日の僕がまだ僕の中で泣きながら彷徨っているのを感じる。こんなこと言っても、くだんない、でおしまいなのに。
 雨は土砂降りに変わる。叩きつけるような雨を見て、母親がなんでもなさそうな顔で、いやね、と呟く。
「いやだね」
 吐き捨てるように言ってみた。言っただけで、なんともなかった。
 スプーンをアイスクリームに突き立てる。銀色が桜の塩漬けにめりこみ、炭酸の泡がばちばちと戸惑ったようにはじける。あふれ出しそうになるソーダを慌ててストローで吸い上げる。
 胃が冷たい。口が冷たい。手が冷たい。
「とにかく越すことになったの」
 母親は頬杖をつき、コーヒーをスプーンで掻き混ぜている。底にざらめが残っているのを見た。母親は砂糖とミルクをたっぷり入れて飲む。だから、ざらめはいつもこうして残る。
「そう言っても、しばらく先の話だけど。あのアパートにはもう住まなくなるから」
「わかった」
 ――一緒にいると、ママ、死んじゃうんだって。そんなのいやだろ。
 「こんなことになって」いやだ。そういう顔をしていたのは伯父さんのほうだった。きつく僕を抱き上げた腕が怖かった。頭を深々と下げた実の妹を見おろす目は、それでもなにか優越感が含まれているように見えた。
 ひとつに結んだだけの痛んだ茶髪。よれた衣類。あのころの若い母親は、まだ母親だった。見ればわかるほどにくたびれていた。僕が泣くから眠れずにいた。僕がいるから満足に生活できていなかった。
 僕は生きているだけでもこの人をすり減らす。
 僕がある程度大きくなっても、それだけは変わらなかった。僕がいるだけでこの人はなにかをすり減らす。だから父親が別の人と出て行って、母親もそのころとっくに銀行勤めの嫌味臭い男と一緒にいても、僕はなにも言わなかった。すり減らない。父親と離れていれば、そして僕が息をひそめていれば、この人はすり減らない。
 父親が振り返りもせず玄関を出ていった朝。あのとき僕は十五歳だった。
 どこへ住むの。どんな家に住むの。泉さんと結婚はするつもりなの。
 ……僕はどうなるの?
 アイスクリームのまわりに氷ができているのを見おろして、スプーンでほじる。桜の塩漬けはなにかが不気味で好きじゃない。
 グラスの縁から母親を盗み見る。コーヒーカップで隠れた顔。ふと目を止めて静止すると、母親がときおり、赤の他人のように見える瞬間がある。グラスの中でロックアイスが傾く。
 ああ、そっか。
 柄の長いスプーンは、それでもグラスの底までは届かない。
 掻き混ぜていたら、桜の塩漬けはグラスのどこかに失くしてしまった。


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