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長編小説「紡がれた僕らに終わりの春を」第五章

第五章「絶縁体」

 蝉の声が渦を巻き、雲一つない青空さえ突き抜けて消えていく。
大学が長い夏休みに入り、惰性で繋がっていた同期たちのインスタには海やバーベキューやプールのストーリーがあがっていた。それをインスタ越しに見るのは、どこか退屈な映画を傍観する感覚に似ていた。
 汗ばむ真夏も、セージからは変わりない石鹸のにおいがした。昼時を少し過ぎたころ、待ち合わせ場所の公園のベンチで僕を待っていた。見覚えのある背中にほっとした息が落ちる。
「セージ」
「真央」目が合った瞬間、緩んだ糸がほどけて落ちるみたいにセージが笑った。「なんかすっごい、久しぶりに会った気がする。ちゃんと」
「講義いっこしか被ってなかったしね。……セージ、髪、切ったね」
「あ、わかった。切ったよ。襟足だけ」
 セージの隣に腰をおろす。木の下、少しの日陰。ベンチの右端に三角形の陽ざし。こめかみから汗が滑り落ちる。
「あ、ねえ、夏休みは礼拝あるの」
「あるけど自由参加。だから気が向いたときだけ」
「そっか」
 蝉が鳴き続けている。
 日陰の下は生ぬるい。なにかの虫が黒い点になって、眩しい光の下で踊り狂うように飛び回っていた。緑色のフェンスに絡まった植物は茶色く枯れている。
 塗装のはげたシーソーはより乾いて目に映り、風が吹かないせいで止まっているブランコはあまりの熱を孕んで腫れあがっているようにも見えた。
「意外と僕たちアパート近かったんだね」
 僕がそう言うと、セージは虫を見つめながら顔だけで笑った。それ、思った、と呟くように言って。
 最寄りの駅まで歩いて二十分。でも僕とセージのアパートの距離は十分だった。
 どうせなら一緒に行こうよ。一昨日、電話越しにそう言ったセージの声を思いだす。
 セージがこっちを見る。
「行こうか」
 ざ、となまぬるい風が吹いた。その奥に香るのはくぐもった形容しがたい夏のにおいで、終業式のあと、昼間、アサガオを抱きかかえて坂を下ったときのあの記憶がほんの一瞬横切った。

 中央線の冷房はちょうどよかったけれど、頭上でその風をかき回す埃だらけの扇風機に、バイト先の男子トイレを思いだした。電車内は少し混んでいて、右隣にいる太ったスーツの男の汗かいた腕が触れることだけが気に障った。
 セージは吊革につかまり、ぼうっと過ぎていくドア越しの景色を眺めていた。身をよじり、スーツの男から距離を取るとセージが少しずれてくれた。
「ねえセージ、どこでおりるの」
「新宿。歌舞伎町」
「……歌舞伎町?大丈夫なの、あそこ」
「まあ、なにかに遭うならそれはそういう運命だったってことだから」
 冗談かわからなくてセージを見ると、悪戯っぽくほほえんでいた。縁起でもないよそんなの、と呟いた僕に、さらに目を細めて静かに笑った。
 新宿につくと、セージは腹が減ったかどうか聞いてきた。セージは、と聞くと、どこか申し訳なさそうに、昼飯食ってない、と答えたから、ふたりで牛丼をかきこんだ。
 茶色のコップに足された麦茶なのか水なのかわからないものを飲みながら、窓の向こうでぐちゃぐちゃに入り乱れる人ごみを見つめていた。久しぶりに食べた牛丼はおいしかったけれど、夏に入ってからしっかりした食事をとっていなかったせいで胃がもたれかけていた。
「なにするか決めてなかったね」
 そう言うと、セージは箸で丁寧に米粒を拾い上げながら、僕と同じようにふと窓の向こうを見つめた。
「夕方になったら、一緒に行きたいところがあるんだけど」
「そうなの?」セージを見る。彼が米粒を食べるために口を開けると、形のいい歯が一瞬見えた。「それまでどうしようか」
「なにも考えてなかったな」
 観光客らしき外国人の男女が入店してきて、空いていた僕らの向かい側へ腰掛けた。窓の外がわからなくなって、またコップの中身を足す。僕らとさほど歳の変わらないように見える女の店員は、扇風機の羽みたいに忙しなく、ロの字をした座席を行ったり来たりしている。
「映画、観る?」
 ちょっと自信がなくて、小さな声で聞く。セージが僕を見て、いいね、と言った。ほっとする。僕のバイト先がちょっと歩いたところにあるんだけど、と言うと、ついていくよ、とセージは答えた。空っぽのどんぶりの中で店内の照明が落ちて、丸く光っていた。
 映画館へ行くと、店長ひとりだけだった。あれ、カナノさんは、と聞くと、カナノちゃんは予備校で忙しいんだってさ、と寂しそうだった。店長は四十になったばっかりの人で、歳のわりに皴やひげがないせいか若く見える。
 店長は僕と喋りながらふとセージに目を向け、陽気な口調で言う。
「お、イケメンだ。神崎くんの友だち?」
「そうです」
「城戸です」セージが軽い会釈をする。
「なんだ、新しいバイト連れてきてくれたのかと思っちゃったよ、つって。ウソウソ」
 店長は明るい声でそんな冗談を言い、僕らのためによく冷えたコーラと山盛りのポップコーンを出してくれた。
 セージが観たい映画があると言うので任せたら、それはあのリバイバル上映の映画だった。
「セージ、アニメ映画観るの」
「意外?」
「うん、少し」
「これ作ってる監督が好きなんだ」
「へえ」
「随分昔に一回観たんだけど、あのころはまだ子どもすぎてよくわからなかったから。ちょっと成長した今、もう一回観ておきたいなって思ってた。この告知来たときから」
 シアタールームの椅子に深く腰掛けた瞬間、いい映画館だね、とセージが言った。
「うん。僕も気に入ってる」
 夏休みなのに、シアタールームには僕ら以外誰もいなかった。こんなんでこの映画館大丈夫なのかなんて何度も思うけれど、賑わってしまったらそれもそれで嫌だなとも思っていた。
「バイトは真央だけ?」
 セージが白い指先でポップコーンをつまみ上げ、口に放りこんだ。
静かなシアタールームにその咀嚼音がくぐもって広がる。僕もつまむ。
「もうひとりいるよ。美大の予備校に通ってる女の子」
「絵描くんだ。うまいの?」
「僕は見たことない。……あ、でも」
「うん?」
「その子、タトゥー入ってる」
「かっけえ」セージは笑う。「いいな、そういうの。タトゥー入れてるんだ」
「くじらとなにか」
「クジラとなにか?」
「もう一個はよくわかんなかったんだ。でもくじらの話だけよくしてくれたから」
「へえ」
 クジラねえ、とセージが呟く。
 ごり、と歯に当たったからそっと吐き出したら、爆ぜきれなかったトウモロコシだった。電気が落とされ、目の前のスクリーンが伸びていく。
 スクリーンの白い光を浴びるセージの肌色はより一層青白く、セージはどうして日焼けしないんだろうな、なんて関係のないことを思ったりもした。

 女の子の目のかたちが気に入らない、そんなカナノの呟きを覚えていたからか、やたらと女の子の目ばかり見つめてしまったけれど、当たり前のように目が合うことは一度もなかった。
 セージと店長はなぜかやたらと仲良くなり、映画が終わってからもよく喋っていた。その間に僕はコーラを二杯飲んだ。僕らが映画館を出たのは十六時半を過ぎたころだった。
 セージは満足げに映画の感想を口にして、そんなセージをはじめて見たからか、僕もどこか随分満たされたような心地だった。それで、やっぱり彼といた方がいいな、と何度も思った。
 夏の日は長い。この前まですぐ藍色に潰されていったはずの空はまだ高く、両端にオレンジ色が染みつきはじめていた。気温はまだ下がらず、相変わらず蝉が泣きじゃくる。
「俺もあそこで働いてみたかった」
 セージがふとそんなことを口にしたから、僕は嬉しくなって、そうしたらいいよ、と言った。セージはアスファルトのかけらを蹴り飛ばし、でもできない、と答えた。
「しばらくはあのバイトしないといけないんだ」
「清掃員の?」
「そう」
 大音量を垂れ流しながら、ホストクラブのラッピングバスが走り抜けていく。いつの間にか僕らは東口あたりの大きな道に飛び出していた。
 最近よく耳にする曲のMVが、大きなモニターにでかでかと出ている。赤信号を無視して横断歩道を突っ切る男。においにふと顔を向けたら、アイコスを吸いながらほっつき歩いているヒールの女。ブランドバッグのロゴをきっちり正面に向けて大股で歩く怪しい雰囲気の男。どう見たって正式な交際じゃない歳の差の男女。
 かたよったイメージ通りの新宿。
 そんな道を、セージは迷いなく歩いていく。僕はセージの背中を見失わないよう必死に歩幅を合わせた。オレンジ色が徐々に広がり、赤が混ざり紫が混ざり、世界の終わりみたいな空。
 沈黙が続いて、なにか話をしなくちゃと思ったけれど、うるさい町を突っ切るための会話はそれほど重要じゃなかった。
 新宿歌舞伎町、ネオンのぎらつく看板は毒気を孕んで目に映る。そこへまっすぐつながった横断歩道で信号を待った。信号を待つ間、ようやく距離が戻ってほっとした。
「セージ」
「うん」
「どこに行くの」
「ストリップ」セージは信号をじっと見つめていた。横顔はいつもより尖っている。
「……え、」僕の右隣、女のブランドバッグが横っ腹にぶつかって痛かった。
「ストリップって、知らない?」セージはこっちを見ない。
「……なんとなく、しか」青信号になる。
 まっすぐ続く道が急に恐ろしくなった。横断歩道を大股で歩くセージが、いつものセージじゃない、わかっていたから、なおさらその先へ進むことが嫌だった。それでもセージひとりがそこへ消えていくのも嫌だった。
 こんな道に出る前、僕とセージのペースは同じはずだったのに、少しずつまた距離が広がっていく。セージと僕は相変わらず言葉を交わさなかった。
 ガールズバー、キャバクラ、ぼったくり飲み屋、いろんな店のキャッチが僕らに目を向ける。退屈そうに飲み放題いくらなんて書かれた看板を振る女も、にやけたキャッチの男も、ひきつった不自然な顔だちで愛想笑いを向ける女も、みんな目が同じに見えた。あのA子の目。
 セージは一層小汚いビルの前で立ち止まった。地下へ続く階段が伸びて、その頭上に騒がしい看板がさがっている。ストリップ。学割。こういう店に学割なんてあるんだ、とずれていることを思った。
「忘れてた。学生証、ある?」
「……あ、ある。財布にいつも入れてる」
 よかったと呟いて、セージは階段を降りていく。僕もついていく。がたつくドアを開けると、ホテルの受付とよく似た落ち着いたカウンターに目が行く。想像よりずっと落ち着いていた。
 受付にはまだ若い、三十くらいの男が座っていた。二枚で、とセージが言い、学生証を取り出す。僕も慌てて取り出す。男は切れ長の目で僕らの学生証を見つめ、それからやわらかくほほえんだ。おひとりさま二千五百円で、合わせて五千円でございます。
 財布を開くと、セージは首を振り、五千円札を男に手渡した。ちょうどお預かりいたします。注意事項をよくご覧になってから右の入口へどうぞ。戸惑う僕をよそに、セージは静かな動きで注意事項の紙を二枚受け取り、僕に一枚差し出した。
「あの、お金」
「いい」セージは首を振る。「俺が無理やり連れてきたんだし」

 部屋に入ると、小劇場みたいなつくりになっていた。赤いカーペットが敷かれ、年季が入っているのかはげている部分がある。数センチ上がったステージには一本のポール。
 僕ら以外には、中年の男性が三人と、僕らと同い年くらいに見える変わったファッションをした女の子が座っていた。
 セージは中央、ちょうどカーペットの真ん中に腰をおろした。僕も隣に座る。
 部屋はひどく静かだった。セージも黙っているから、僕はひたすら注意事項の文字を往復していた。写真撮影は禁止。ステージに上がることは禁止、――。
「はじまる」
 セージが囁いた。顔を上げた瞬間、部屋の照明が落ちた。
 注意事項を申し上げます。聞いたことのあるアナウンスだと思ったら、受付の男の声と一緒だった。アナウンスが終わると、ステージ上の照明がついた。
 聴いたことのない音楽が楽しげに響きだす。
 三十代半ばくらいの女が出てくる。化粧は濃く、目力が強かった。彼女のスパンコールのついた布が照明に当たってはじけるように光り、彼女が動くたび舞台上で細かな塵が舞う。赤いドレスは素材のわりに軽そうで、彼女の動きに合わせて膨らんでは萎む。
 独特でそれでいてからだの線が綺麗に浮かぶ動きを、音楽に合わせてひたすら繰り返す。ダンス、というより、舞、といったほうが合っている気がした。
 舞の中、彼女は徐々にドレスをはだけさせていった。いやらしさのない動き。白すぎない、健康的な肌に突き刺さる照明は毒々しい色にさえ見える。
 蛹の孵化に似てる、と思った。決まりきったなにかのおきてに従うように、彼女はゆっくりとドレスをはいでいく。ドレスはよく見ると一枚ではなく、少しずつ脱げるような器用なつくりによってできていた。蛹の孵化にも、花が開く様子にもよく似ていた。
 唾を飲みこむのを忘れていた。
 音楽が一瞬だけ止まる。
 その瞬間、ついにすらりと現れたからだは、反対にしっかりした重みを感じさせた。
 皮の下でなにかがはちきれそうな、でも特別太っているわけでもない、ただただ純粋な女の脂肪。当然のように胸元もさらされ、ふたつのまるい脂肪が想像より少しくたびれて目に映る。
 性ではなく、生。
 彼女の肉体は美術館に置かれた裸体と同じようなそれを感じさせた。
 でも、生きている、と思った。この人は生きてるんだ。当たり前のことが今は不思議だった。
 あたりに視線を泳がせても、客席は真っ暗だった。かろうじてセージの横顔だけが見える。
 セージはじっと、美術館の絵を見るときのようなまなざしをまっすぐに向けていた。

 ストリップは思っていたよりもあっという間に終わった。裸の彼女が深々と頭を下げたとき、五人分以上の拍手が響いた。
 赤いドレスがふわりと動き、彼女は優雅に纏って消えていく。
 ステージの照明が落ちる。反対に客席の照明がつき、白い蛍光灯の下、僕の目はそれに慣れるための瞬きを何度かくりかえした。
 ドアが開き、客が次々荷物をまとめて腰をあげる。
 セージと目が合う。彼はにこっと笑って、悪戯っぽい声で囁いた。
「興奮した?」
「……全然。なんか、そういうのじゃなかった」
「そう、よかった」
 階段を上がった瞬間、現実世界に引き戻された気持ちで興ざめしそうだった。さっき見た人間が、まだ客を引くためにうろついている。警察署かなんかのアナウンスで客引きがどうのと流れていたけれど、ここではそんなのおかまいなしみたいだ。
 騒がしい歌舞伎町は、夜が深まるのと同時に色を濃くしていく。
「セージはさ」ふたりして早足で歌舞伎町の看板を抜けたらほっとした。「いつも見に行くの」
「いつも、ってわけじゃないけど、でも結構見に行くよ」
「そうなんだ」
「引いた?」
 また横断歩道で足を止める。道路を二本挟んでいるだけなのに、その奥は知らない場所に見える。さっきは向こう側にいたのが信じられないくらいに。
「引かないよ。綺麗だった、あの人」
「うん、よかった」
「いつから見に行くようになったの?」
 点滅していた青が赤になる。立ち止まった僕らとは別に駆け出した若いふたりの女は、なにかをきゃあきゃあ言い合いながら、ごったがえす人ごみに飛びこんで消えていった。
「なんでだろう……安心材料、かな」
「安心材料?」
「俺、母さんの……母さんのことがあって」赤になるのは早いくせに、青まで遠い。セージは首をかゆそうにかいて、でも、とつけ足す。「わかんないな。でも見たくなる。そういう衝動とは別の感情で」
「別の?」
「うん、でも、……母さんのからだはあんなにきれいじゃなかった。使い忘れて茶色く染みがでてきた爪楊枝みたいな。本当にそんな感じだった。だから不安になると、ああしてはだかを見に行くんだよ。俺、おかしいのかも。健康な女のからだを見ると、欲情するんじゃなくて、感動する」
 おかしくないよ、と僕は言った。
 セージは安心したように笑った。

 なにも決めていない僕らは、歌舞伎町を出た後も新宿をうろうろと歩き続けていた。厄介で物騒なはずの町も、セージといる限りなにか一大事のようなことは起きない気がしていた。
 東口付近まで出ると、歌舞伎町よりずっとおとなしくなる。知らない道をそのままふたりで歩き続けていたら、時が止まったように静かな細い道へ飛び出た。
「あそこ」セージがふと青白いかたまりを指さした。「自販機ある」
「なんか買おうか」
「そうしよう。熱中症になるかもしんない」
 僕ら以外に人はいなかった。歌舞伎町に比べて明らかに照明もなくて、ただただ無機質な外灯の白い光が等間隔でスポットライトのように落ちている。
 セージは財布から小銭を取り出して、よく冷えたサイダーを買った。ラインナップはなぜか季節感をいまいち外していて、僕もおとなしくセージとおなじサイダーを買った。
 プルタブを引っ張って開ける。涼しい音と甘いにおい。
 口をつけて一気に飲む。炭酸にそれほど強くない僕ののどはその衝撃に驚き、目尻にじわりと涙がにじむ。
 生理的な涙は勝手に浮かぶ。うんざりしながらぬぐう。こんなことになったせいで、僕は他の人が一生知ることのない、生理的な涙と感情的な涙の違いがはっきりわかる。
 セージの衣擦れの音で彼を見る。セージはサイダーの缶を両手で抱いて、向かいの民家らしき影を見つめていた。衣類の奥、セージの奥からあがる石鹸のにおいが薄い気がした。
「セージ」
「うん」
「セージはいつも石鹸のにおいがする」
 あは、とセージが珍しい笑い方をした。臭くはない?全然。首を振る。僕がどうして、と聞き返すと、セージは、どんどん体臭になっていくんだ、と答えた。
「なにが?」
「死体のにおいが」
「……だから自転車でバイトに行くって言ってたんだ」
「そう。仕事のある日は電車で帰れない」
「今日、乗っちゃったけど」
「風呂に入った後だったから。それに、真央にまでチャリ強要するわけにいかないだろ」
「……セージはさ」
「うん」
「死んだ人を何回も見るのはつらくないの」
 セージはサイダーの缶を首筋に当てた。
「つらいよ。胃がいつもひっくり返る。最近は耐えられるようになってきたけど。……俺がシロート、って呼ばれてるって話、したよね。俺がいつまでたっても慣れないから、先輩たちにそうやって呼ばれるようになった。耐えられることと慣れることがイコールなわけ、ないよな」
「……どうしてセージは清掃員になったの」
「罪滅ぼし、みたいな」
 え、と声が出る。セージは一瞬口を噤み、それからぽろりと落とすように言った。
「母親の首絞めて殺しかけたんだ、俺」
 一瞬、音が全部止んだ気がした。
 ぱきゃん。
 セージの指先でプルタブがそんな悲鳴をあげた。サーッというかすかな砂嵐に似た音が聞こえ、爆ぜるような炭酸の甘ったるいにおいが僕の鼻先にも届く。
 セージの喉仏が頷くように上下する。汗が落ちる。セージは何口かを静かに飲み下し、軽くなった缶を指の隙間でぶらぶら揺らし始めた。
「だから父親は俺を神学科に入れたんだ。千葉のじいちゃんがひとりきりだったから介護者のかわりとしてそこに置いていかれて、……口実だろうね。妻殺しかけた息子に自分の父親押し付けるなんてどうかしてるって思ったけど、どうかしてるのは俺のほうだし。おとなしくじいちゃんの介護しながら、毎月送金される金とバイト代で暮らしてた。それで去年、大学に行けって。金は出してやる、それが最期だって」
「……そっか」僕の頭では、そっか、しか言えなかった。「そうだったんだ」
「なんでだろうな、って考えたときに」
 セージは唇を舐める。濡れた赤い舌がうすい唇をなぞり、蛇に似ている、と思った。
「……それが俺にたいする清算だったのかな、って」
 セイサン。
 一瞬、脳内の変換が遅れて、相槌があいまいになる。
「俺ね、もともと、弟ふたりと俺は血繋がってないんだ。弟ふたりは父親の息子。実の親、……親父は、俺が五歳くらいでいなくなった。よくある話。……それで、母親と俺は実際親子だったんだけど、どうにも折り合い悪くて。ずっと。連れ子が嫌いなのか、母親は俺と弟ふたりとじゃ態度が違かった。そのうち手あげだして。でも俺だけはなんともなかった。俺だけがなにもされなかった。おかしいと思うだろ。殴られないほうの子どもは、遠回りな傷がつく」
 虐待されないほうは、選ばれなかった感じがする。
 セージはそう言った。
 え、と僕は目をあげる。ほんの少しだけ目が合った気がしたけれど、セージは缶の飲み口をじっと見下ろしていた。
「虐待されてる側からしたらさ、そんなん殴られてもないやつが言うの、たまったもんじゃないだろ。由良と蒼良はいつも泣いてた。なにしてても殴られる、なにしてても気に入られないんじゃ、どうしたらいいかわかんない、ってさ。俺、変なんだよな。変なんだよ。だってそういうかわいそうな弟たちのこと見たり、母親が俺だけをかわいがってるとき、選ばれてないって思った。親の、未熟な部分って言うか、人間としての弱み、っていうか、そういうところ、俺じゃないんだって。そういうところを埋めたり、そういう傷を庇うのは、俺じゃないんだなって。父親が手をあげてたら、違かったと思う。でも母親だったから、だめだったんだって」
「……本気だったの」
「本気だったら、殺せてたんじゃないかな。結局殺せなかったんだよ。思ったより力も出ないし、首絞めてるはずが自分も呼吸できない。母親の爪が皮膚に食いこんで、めちゃくちゃ血が出るし、母親のひんむいた目がずっとこっち見てるのを、今でも思い出す」
 セージはプルタブを何度も頷かせ、ついにはへし折った。ぱき、という軽い音は、自動販売機のぶーんという音に混ざってあっけなく、なんの名残もなく失せていく。
 知らない家のソファの上、セージの背中が見える。今よりも弱々しくて折れそうな背中。腕には血管が浮かび、それは母親の首に繋がっている。酸素の通らない腕に締め上げられて、セージの母親が激しくもがく。その抵抗は死の縁を見た人間の馬鹿力によるもので、セージは首のしまった母親とおなじくらい顔を赤くして、目をむき、ひたすら力をこめていく。
 その白い腕に、赤いマニキュアを塗った爪がささった。
 かこん、という音に顔を上げる。セージが飲み切った缶をゴミ箱に放りこんだところだった。セージはそれから、あたりにちらばっているポイ捨ての缶も拾い上げて捨てていく。
 悪魔の形相で爪を立て、セージに目をむいた母親の顔は、なぜか僕の母親のものだった。
「……お母さんは、今、どうしてるの」
「ピンピンしてるよ。……人間は無意識にならないと簡単には死なない」
 それでよかったのかわからない、とセージはつけ足した。俺のやったことって、もう変わらないと思うんだ。母親が死んでも死ななくても。あの首に手をかけた時点で全部ひっくり返っちゃったんだから、今更それを思い返したってどうしようもないけどさ。
 ねえ、俺、生きてる資格あると思う?
 僕を振り返り、そう口にしたセージの右手には、ひしゃげた缶コーヒーがあった。中に吸い殻が沈めてあるのか、僕が数歩近寄ると、うっすら煙草のにおいがした。
「……どうして、……なんでセージ、そんなこと……僕に聞くの」
「俺、自分のやったこと、隠したことない」セージはそう言って缶をひっくり返した。どぶ色の雫がぼたぼた落ちる。そのすぐ近くに、誰かのゲロの跡。「隠したことなかったけど、だからって、誰かに自分から言ったこともなかった。真央にしか」
 ぶん、とセージは缶を振る。ひしゃげたそいつは上手く吐き出せなくて、相変わらずびたびたと雫ばかりを垂れ流す。上手く中身を吐きだせないまま、振った衝撃で雫が飛散った。
「……真央、俺と真央は似てるって思った。それ、許してくれる?」
「許す、」
「俺と真央が似てるって思ったこと。そう信じたいこと。許してくれる?」
 誰かが向こうで喧嘩をしている。男女。甲高い女の叫び声、それを気だるそうに受け流す男の声。どちらも酒気を帯びていた。もういいっていってんじゃんしつこいしつこいしつこい、しねって、しねしねしねしね。はいはいわかったじゃあおれがしんだらおまえがぜんぶのせきにんとれよぜったいだからなあやまれよどげざしろよくそおんなしねおまえがしね。何の話かもわからない、ただ意味もなく不穏な声が響いている。
 新宿はどこにいっても汚かった。どんなにとりつくろっても、綺麗なビルやカフェの隙間に蔓延る汚れ。それで、ここには隠し通された汚れすらない。全部がさらけ出されている。
 ここは今、僕らが生きている場所の中で一番汚い場所かもしれない。
 セージは缶をさかさまに持ったまま、呆けたように僕の更に向こうを見つめていた。もう一歩、二歩、セージに近寄る。石鹸のにおいがうすれた今日のセージは、やっと生身の人間みたいなにおいがした。
「……それ、そのまま捨てよう」
 セージは返事をしなかった。セージの右手から缶コーヒーを取り上げる。一瞬触れた指先が限りないつくりものみたいで息を止めてしまう。缶から漂うコーヒーと煙草の混じったにおいは、不潔な中年男性の口と同じにおいがする。
 覗きこむ。真っ暗な中身。人の口みたいだと思いながら、ゴミ箱に捨てる。掃除は行き届いていないのに、自販機には売り切れのランプがひとつもない。バランスの悪い町。
「……セージ、僕、許すなんてよくわからない」
 セージはなにも言わない。ゴミ箱の縁には鳥の糞がべっとりついていた。
 許すって、どういうことを言うんだろう。
 わからない。
 実際僕は、許すことや許さないことが、いったいどういうことなのかをいまだに知らない。
 ただ――セージのことを、許さないなんて思ったことはない。
 だって僕がきっと最初だった。僕らが似ていると思ったのは。
 セージを見る。セージはいつの間にか自動販売機の前に座りこんでいた。青白い光は映画館のそれより貧乏くさく、セージの珍しく丸まった背中を照らしている。切ったばかりの襟足、その清潔な首筋に、糸くずがついている。
 許してくれる?
 そう言ったから、セージがそう言ったから、僕は権利を手に入れてしまった。
 セージは僕に許しを求めている。汗が背中のシャツを貼りつけてくるのが気になって仕方ない。夏は夜でも蒸し暑い。虫の声の代わりに、男女の甲高いやりとりがまだ聞こえる。
 乾いた唇を舐めたら、皮がめくれそうだった。
 喉が渇きすぎて頭が痛かった。スマホをかざし、冷えた水を買った。
 ごとん、という音に肩が跳ね、セージが僕を見上げる。はっとしたような顔は青白いまま。
 セージはなにも言わない。迷った末にセージの隣に座る。
 冷えた水は火照った僕の手のひらを吸い上げ、かわりにその冷たさを貼りつけてくる。こめかみの汗が垂れるのを、雑に腕で拭う。ペットボトルの水滴で手のひらが濡れる。
 汗をまた拭ったら、その水滴が目尻についてしまった。
 キャップを回し、一気に半分ほど飲み干す。セージに差し出したけれど、彼は力なく首を振っただけだった。セージのかわりに両手でペットボトルを持つ。
 セージ。
 一度目の声にセージは俯いたままだった。顔をわずかによせると、目線だけが僕に滑りこむ。
「……セージ、僕、泣けないんだ。指から糸が出る。本当のことだよ。切った糸をもう五年くらい溜めこんでる。僕、涙が出ない」
「……それって、痛い?」
 一瞬、セージの言っていることがわからなくて口を閉じる。
 痛いの、ともう一度セージが聞いてくる。痛い?おうむ返しをする。
 その糸は、痛いの。僕をじっと見つめるその目はいつも通りの落ち着いたものだった。
 至近距離で見つめるセージの睫毛の長さに息を飲む。セージの瞬きは静かだった。
「……痛くない。のびると僕はそれをはさみで切り落とすんだ。でも痛くない」
「泣いてるのに痛くない」
「痛くない」
 痛くない、と何度もひとりごとのように僕らは繰り返す。いつから、とふいにセージが聞く。
「十五歳」
「それまでは涙が出たの」
「うん」
「真央」
「うん」
「俺が母親の首をしめたのも、十五歳だった」
 息が止まる。
 僕だけじゃなくて、セージの息も。
 沈黙の奥でまだ男女の声がする。セージの首や額にもう汗は滲んでいない。僕だけがべたついた気味の悪い汗をかき続けている。
「ねえ、真央、……十五歳のときの俺を、俺は何回も殺したいって思う」
 セージは静かに呟いた。
「でも同じくらい、いまだに家族を殺してしまえばよかったとも思う。由良や蒼良は、結局救われなかったし、俺はあの中で犯罪者になった。だからこの感情を死ぬまでどうやって片づけたらいいか、わからない。ずっとわからない。この感情をしまう引き出しだけ、ない」
 帰ろう。
 僕はそう言った。それ以外になにも言葉が浮かばなかった。帰ろう、と呟き、セージが腰を上げる。僕らはそのまま不確かな場所を歩くみたいな足取りで駅に向かった。

 改札を通り、そのまま同じホームに降りる。電車がそのタイミングで滑りこんできた。特急。次の電車を待つ必要があった。それに、家に着くまでセージとなにを話せばいいのかわからない。心臓が悶えはじめる。電車のドアが開く。セージが一歩踏み出す。え、と僕は声をあげる。
「セージ、それ、とまらないよ」
 セージは僕の声になにも言わなかった。
 僕は動けなかった。
 ドアが閉まる。セージは僕をじっと見つめ、それから猫目をやわらかく歪ませて笑った。またね、とその口が動くのを、僕はどうにも言えない気持ちで見つめ返すだけだった。
 取るに足らないひみつならよかった。
 セージを乗せた電車が消えて一秒後、そう思った。
 言わなければよかった。聞かなければよかった。
 僕たちのひみつは、あまりにかたちがいやらしくて、痛くて、もうどうしようもない。
 それでもセージがいなくなってたった一秒で、僕の隣、そこにできた空間が、漠然とした不安を加速させる。漠然とした不安で芥川は死んだ。それが今はなぜかひどくわかる気がする。

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