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長編小説「紡がれた僕らに終わりの春を」第六章

第六章「セージの花言葉」

 セージから離れなくてはいけない、と思った。
 あの夏休みのはじまりのころ、新宿の自動販売機の前、猫背になったセージの首筋についた糸くずと青白い顔。
 ――許してくれる?
 あの問いを溶かす返事を、僕はしなかった。
 夏休みは終わり、秋学期が始まり、セージとはいよいよ講義も被らなくなってしまった。
 セージがいない感覚はなぜだかひどく強くさみしいもので、それでも隣にそんな空白があることに安堵もしていて、僕はセージを怖がっているのかもしれない。
 セージと離れたら、僕のまわりにはもう誰もいなかった。初年次クラスの酸素はより一層薄くなった。僕は夏休みが明けてからはじめて二回ほど講義を休んだ。
 罪悪感に浸されたからだは重くて、歩くにも息が切れそうだった。冷房をかけた狭いアパートの一室でいつまでも眠った。夏が終わっても夏バテは続いた。
 母親の顔があまりにちらつくので、三日目、諦めて大学に行くことにした。
 退屈な人類学の講義が終わり、ペンケースをリュックにしまって席を立つ。学生の波でうんざりしながら廊下に出た。
「カンちゃん」
 なまぬるい声で足を止めた。振り返った廊下の真ん中で、僕は息を飲む。
 春先と変わらない笑顔でA子が僕を呼びとめていた。
 このごろ髪を切ったのか、少しばかり毛先が短い。タイのついた白いブラウスに水色の膝丈スカート。大きめのトートバッグ。つまさきの丸い、黒いパンプス。
 あれ、と僕はまた思う。見つめるたびにA子の顔が変わっている気がするから。
「……なに」
「なにって」A子は右耳に髪をかけるのが癖だ。「全然話せてなかった」
 カナノの髪とは違う、どろり、に似た動きで耳にかからなかった髪が落ちる。
「全然話せてなかったって」
「カンちゃん、わたしのこと、ブロックしたよね?」
「……なにが」
「ライン。あのあと、わたしたくさん連絡したのに」
 どん、と僕の肩と男の肩がぶつかった。すんませんッ、と男が僕に頭を下げる。すみません、と僕が吐き出した声は、彼に届くことなくかすれて消える。
「なにか話でもあるの」僕は廊下の端に寄り、よく磨かれたフロアを見おろしていた。「僕に」
「ねえ、ここ邪魔になるからさあ、出ようよ」
 腕を引かれる。A子の胸元に僕の腕があたって、布の重なりか彼女の胸の感触かわからない、やけにやわっこくそれでいて空虚な感触にぞっとする。
 やめて、と呻くような低い声が出た。
 A子が僕を見る。僕の右腕をきつく抱きかかえたまま。女特有のきつい表情、それでいて懸命に泣くのを堪えている子どもみたいに唇を引いていて、奇妙なアンバランスを感じる。
 夕方、オレンジ色が射しこむ窓のきらめきを受けても、A子のまなざしは真っ暗だった。
「今日くらい、いいでしょ」A子がなにを考えているのか僕にはわからない。
「あの日のことクラスに言いふらしたのは、」
「言いふらしてないよ。相談しただけ」
「相談って、」
「カンちゃんがわたしのこと好きなはずなのに無視するって」
「は、……好き?」
「好きだからしたんでしょ」
 奥から歩いてきた男がふたり、僕らに好奇な目線を向けていることにうんざりした。
「離して」きつい口調で吐き捨て、思いきりA子の手を振り払う。「こんな話ここでしないで」
「それなら一緒に外に出ればいいじゃん」
 A子の目はやっぱり焼き魚にそっくりだった。

 駅前の安い居酒屋に引っ張られた。こんな女と酒なんか飲みたくない、そう思ったけれど、このままではまたアパートまでおしかけられそうで黙りこんだ。
 通されたのが奥の席だったから少しだけほっとした。何食べる、なんてさっきまでの気味悪さが嘘のように機嫌をなおしたA子に愛想笑いもできず、僕はただ泡のまずいビールを頼んでは飲み続けた。口になにか入っている間は喋らなくても許される。
 A子ははじめいろいろな話題を僕にふったけれど、僕があまりに答えないせいで次第にいらいらしはじめた。隣の席に仲のよさそうなカップルがいるせいもあったかもしれない。
 A子が勝手に頼んだ卵焼きが運ばれてきたところで、A子が僕を呼んだ。僕はすでにビールを二杯飲み干していて、彼女の呼びかけに顔を向ける直前、三杯目を受け取ったところだった。
「カンちゃんってわたしのこと嫌いなの?」
「……話がよめないよ」
 キッチンで皿が割れたらしく、A子はその鋭い物音に大げさなほど肩をびくつかせ、顔をひきつらせた。それから僕をじっと見つめる。丸っこい目は大きいけれど瞼のせいか目つきが悪く見える。唇はリップが薄くなって、赤くもなければさくら色でもない、皮膚のもともとの色が見えていた。
 A子の顔が近くにあるせいで、僕は知りたくもない彼女の皮膚の質感や、涙袋のあたりに点々と残ったマスカラらしき黒いものを見ることになった。目が合いそうになるたびビールを煽る。
 A子は箸をとり、卵焼きの真ん中に容赦なく箸を分け入れていった。綺麗に巻かれていたそれにぼさぼさとした亀裂が入り、湯気が立ち、甘いにおいが鼻先をくすぐった。
 ぱち、と箸が二本ぶつかり合い、卵焼きが完全に真っ二つにされた。
 僕は手を出さなかった。A子だけが迷うことなくそのかたまりにまた箸を入れ、大きく頬張った。好きでもない人間の正面に座って、その咀嚼を見るのは耐えきれないことだった。
 さっき持ってきてもらった、ジョッキに入った冷水を何度口にしても、氷のせいか中身が減っていかない気がする。
「食べないの」
 すねたような口調でA子が言う。半分になった卵焼き、A子が口にしなかったそのひとかたまりは僕に渦を向けていた。何層も重なった黄色にめまいがしそうになる。
「あんまり腹減ってない」
 A子は不機嫌そうに箸を置き、氷が随分溶けたカシオレを飲んだ。甘ったるいものでよく甘いものが食えるな、そう思っていたら、A子がまた口を開いた。
「カンちゃん、わたしのこと好きじゃないの」
「好きって言った記憶がない」
「……なんで言ってくれないの?」
「なんでって、……僕は好きじゃないから」
「カンちゃん思わせぶりばっかりした」
「そんなわけない」
 嘘ついてる、とA子は呟く。さっきから言っている意味のひとつも掬えなくて、頭が痛くなってくる。三杯目のビールを飲み干したせいかもしれない。足に脱力感が広がり、酔いがまわりはじめたのがわかる。足だけ水中に浮かんでいる感覚がする。
「……クラスのみんなに、本当はなんて言ったの」
 A子ではなく、テーブルの木目を見つめていた。
「みんなじゃない」答えになっていない。
「じゃあ誰に」僕の声がささむけになっていく。
「……誰って、」A子は僕の声色に怯えたような目をする。
「誰に言ったんだよ」嘘をついてるのはどっちだよ。
「……みなみざわと、……ほまれ」
 ああ、そう、と僕は呟いた。自分でも意識しないでこぼした言葉だった。ああ、そう。胸につかえるにおいで視線を上げたら、隣のテーブルに串カツの盛り合わせが乗っかっていた。
 理解ができない。頭がおかしいんじゃないかとさえ思った。誰かと誰かの関係性を、どうして共有したがるのだろう。どうしてこいつは僕を所有したがっているのだろう。
 ……ごめんね?
 急にそんなことを口にされて、僕は思わず、は、と声をもらした。
「ごめんって、なに?」
「……相談した、こと?」
 ため息が出る。僕の視界斜め右上に座っている男が大口で串カツをかじるから、その先端がのどに刺さるんじゃないかなんてどうでもいいことを一瞬心配してしまった。
 A子を極力見たくなかった。だから僕はつまらないテーブルの木目や、冷めはじめた卵焼きと見つめあうしかなかった。乾いた口を潤そうとしたら、ビールはもう空だった。
「……君はそれで、どうしたら納得するの?終わったことにたいして」
「わたしと付き合ってよ。それが当たり前だと思う」
 絶句した僕を、A子はなぜか信じるような目で見つめている。氷が滑り、彼女のカシオレはさらに薄くなっていく。とっくに分離しはじめたグラスの中の層が気味悪い。
「おまえ、……頭おかしいんじゃないの」
 ばっとA子が顔を上げた。僕を睨み、僕はその目に息を詰め、
 ――次の瞬間、顔面になにかがばしゃんとぶつかった。隣のテーブルの男女が目を見開く。
 音が一瞬、止む。
 ぼたたたた、とA子の指先からカシオレの残りが垂れた。僕の前髪が濡れ、その毛先から雫が垂れる。そのにおいと、店内のカビくさい空調のにおいが混ざって、吐き気がする。
「最低」A子の声は気持ちの悪い周波数だ。「最低、やり捨て野郎、しね、しね」
 おまえいかれてるよ、そう思って口を開いたら、腹の中身がせりあがってきて口を噤んだ。
 酒が染みる目を細めながら財布の中身を探り、テーブルの上に五千円札を叩きつける。嘲笑と好奇の目線に刺されながら店を飛び出した。

 数メートル走って、耐えきれずアスファルトに吐いた。また涙が滲み、拭わずに座りこむ。心拍数が不穏に高まっているのがわかる。
 は、あッ、と呼吸が浅くなる。げ、とまた吐く。そのにおいに症状は悪化して、僕は続けて三回吐いた。いよいよ涙が滑り落ち、その通り道になまぬるい風があたる。
 こんなことより、カナノが好きなうすっぺらい恋愛映画で本物の涙を流すほうが何倍もましに違いなかった。でも僕は泣けないんだし、どうしようもなかった。
 足がふらつき、立ちあがれなかった。バランスを崩し、そのままゲロの上で寝た。手がぶるぶる震えていたから、足の間に挟んでごまかした。服が悪臭に浸り、湿っていく。
 胎児のかたちで瞼を閉じる。腹をさすっても、その奥がひどく熱を持っていて、胃酸がせり上がってくる感覚しかわからなかった。
 うえ、と文字通りの声と一緒に、うっすら開いていた唇から逆流してきた内容物がもれた。
「カンちゃんなにしてんのッ、」
 突然、からだを勢いよく引き上げられて頭がぐらりとした。視界がちらちら、星屑散ったみたいに白く光って、ああ外灯の色か、とぼんやり思う。
 どれくらい経ったのかわからなかった。
「南沢ァ」僕は真っ黒に近い深夜の空を見上げたままだった。「なんでいんの」
「タクシー呼ぶ?ねえ」
 僕はそこで改めてじっと南沢の顔を見た。走ってきたのか、息が切れている。
 言葉をなくした瞬間、僕たちはろくなコミュニケーションをとれなくなった。居心地の悪い沈黙が訪れる。
 かね、ない、と僕は呟いた。
 南沢の顔にはなんの特徴もなかった。女好きする顔でも、男から見て整ってるとかいう顔でもない。一発で位置を決めて埋めこんだように、目と鼻と口と、必要なパーツがこだわりもくせもなく置かれている。
 厚くも薄くもない唇が歪んでいる。沈黙に乗っかっていく呼吸の音で、南沢が口呼吸していることに気がつく。僕からは公衆トイレのようなにおいがした。
「帰れる」背を向ける。いつもみたいな声も口調も出なかった。「ひとりでじゅうぶんだよ」
「カンちゃん、酒ぶっかけられたんっしょ」
「そうだねー」衣類は自分のゲロとアスファルトの汚れでぐっしゃり臭かった。「酒、かけられちゃったよ」
「なんかあったの」
「なんかあったからかけられたんじゃないのかな」
「どした」見なくても、南沢の顔が曇っているのがわかる。「もめたの」
「知りたいの」
 え、と南沢が小さく声をあげる。小さすぎて、ほとんど吐息だった。
「知りたいの?知って、次誰かと話すときのネタにするんじゃないの」
「……いや、ちょ、ねえマジでどうしたの。カンちゃんそんなんだっけ」
 会話が成り立たない。
「そんなんって、なに」
「は?」振り返ったら、南沢は戸惑ってまばたきの感覚が短くなっていた。「ねえ、マジでどうしたんだって。全然違うじゃんいつもと。なににブチギレてんの?こえーしふつーに」
 誰かが吹きこんだ酸素で徐々に膨らみだす風船のように、南沢の声が大きくなる。苛立っているのがわかる。
「南沢だっていつもと違うよ」
「は?」
「話してなんかなるの?僕がこんなやつでムカついたわーとか引いたわーとか、どうせ裏で言うだけだろ?カンちゃん実はめちゃくちゃ性格悪いぜーって」
 南沢はドン引きしてるんだか驚いているんだか怒っているんだかよくわからない、スマホの絵文字より乏しい、そして半端な表情で僕を見ている。
「……いや、」南沢が半笑いになる。いや、にだるい含み笑いが混ざっていた。「いや、……つか俺はさ、心配で迎えに来たんだけど。頼まれてさ」
「誰に」
 南沢は怪訝そうな顔でA子の名前をこぼす。
「……ぐろいね」僕は呟くように言った。「ぐろいでしょ、酒ぶっかけといて」
「つーかそもそもは、おまえが浅田さんやり捨てすっからだろ」
 南沢の声が完全に尖り、カンちゃん、から、あっけなく、おまえに落第した。
「……僕がって話になってるの?」
「いや全員知ってるわ」
 だからさっきから会話になってないんだよ。
 そんな苛立ちで舌打ちしてしまいそうになる。
「……ライン見せてあげようか」
「は?」
「キノーノコトハナイショニシテネ、ってきたんだよね。ライン。ちなみにあの日、僕、酔いすぎてほとんどふらついてたんだよ。それなのに家までくっついてきて全然帰らなくて、勝手に上がりこんで僕のこと押し倒して、むしろ僕がレイプされたようなものなんだけど」
「いや、浅田さん泣いてたけど」
「そう」
 冷えた声が出た。南沢の目が揺れている。ほら、と僕は思う。おまえらっていっつもそうやって表面だけ掬い上げて飲むから、相手によって簡単に意思とか考えとか揺らぐんだろ。
 とりあえず飲みこんで、あとからどんな味だったって聞かれたら、おそるおそる今まで見聞きした言葉で答えて、んで自分でもあれ本当に俺の感想だっけってなりながらヘラヘラして。
「グループラインに送っとくよ、あの子からのライン。スクショしたから」
「え、は、え?」南沢は理解が追い付かないという顔で僕を見ていた。「なんで送るの」
「なんでって、エンザイだから。僕それ証明できるよ」本当はとっくに履歴なんてない。
「や、だって」それでもわかりやすく南沢は顔を曇らせる。
「……やるわけないじゃん。やったってみんな都合のいいことしか理解できないんだから」
 僕はパリパリに乾いてきた髪と、余計に染みついたゲロと下水のにおいに更なる吐き気を覚え始めていた。のどもひどく乾いていたし、横になりたかった。
「好きにすればいいんじゃない。もう。それか、未成年が半分以上のクラスで飲みに行って、そのうち女子学生ひとりがレイプされましたって誰かに言ってみたら?オトナにさ」
「……カンちゃんだってまだ十九じゃん」
「僕、四月五日生まれ。……最初の自己紹介で言ったよ。まあでも僕も同罪か」
 南沢が処理落ちしそうな顔で突っ立っている。
 酔いはとっくに覚め、今は自分のからだから立ち上がるにおいに嫌気がさしはじめていた。
 じゃあね、と僕は空中に言葉を投げた。
 唇を噛み続けていたせいでうっすら血が出ていた。ため息を出すために唇を開き、僕は半開きの口のまま歩き出した。
立ち止まったままの南沢なんかどうでもよかった。迎えなんて頼んでない。

 駅に向かっていたつもりが、道を何本か間違えたらしい。
 無人のコインランドリーがドアも開けっ放しでそこにいた。同じように半開きにしていたことを思いだして、口を閉じる。洗剤のにおいが、急に僕の感情を叩き落とした気がした。
 どうしようもない不安に足を止めた。誰も使っていないコインランドリー、そのしらじらしい光に、カナノと観たどうしようもない映画のキスシーンや、あの夏休み、セージの顔を照らしていた自動販売機の光を思いだす。
 ――セージ以外に誰がいるんだろう。
 いるわけなかった。
 コインランドリーに入り、軋むパイプ椅子に座った。洗剤の販売機。髪の毛が絡みついたランドリーカート。誰かが置いていったイケアの青い袋。置き捨てされたジュースの缶。
 スマホを取り出す。セージのトークルームを開く。
 悩んだ。それでも指先が動いた。
 呼び出し音が響く。スピーカーにしたまま、僕は彼を待った。
「……真央?」
「……うん」
「……どうしたの」
「ねえセージ」指先が痒い。「僕、頭おかしいのかなあ」
 かなあ、の三文字が異常に震えた。
「……おかしい、ってこと、ないよ」
 セージの声は渇きを戻す水みたいだった。指先の痒みが強くなっていく。
 は、と息を吐き出す。スマホを持つ手をかえて、セージ、と呼ぶ。
「僕の糸、見てほしい」僕は長く伸びた糸をかざした。「それで、セージに切ってほしい」
 思いきり右手の人差し指を引っ掻いたら、糸が絡まりあってしまった。
「切ってほしいんだ」声は湿っていくのに目は乾いていた。

          *

 薄暗いアパートの玄関ドアが静かに開き、セージが顔を覗かせる。
 セージの顔色はこの前ほど悪くなかった。セージは僕を見た瞬間、汚れっぷりに驚いたのか、わずかに目を見開いた。それでも、どうしたの、とは聞かずに静かに部屋に入れてくれた。
 玄関ドアが閉まる。真っ暗な中で僕は靴も脱がずに突っ立っていた。
「……真央」
 心配そうに僕を振り返ったセージに右手を出した。セージが驚いて僕を見る。
「切って」呻くような声が出た。「セージに切ってほしかった」
 ぱち、という音のあと、くぐもるようなオレンジ色の光が玄関にさした。見上げれば、古ぼけた丸っこい照明の中にオレンジ色の電球がはまっていた。
 待ってて、とセージは言い、やがて小さなはさみを片手に戻ってきた。
「見せて」
 右手を少しあげると、セージはそこへ垂れさがる糸に目をやった。僕は呟く。
「うそじゃない」
「うん、大丈夫。……ちゃんと信じてるよ」
 セージはひどく穏やかな声音でそう言った。その声に泣きそうになる。ぐらつくほどからだに力が入らなかったけれど、セージが糸を手にとったから必死に踏ん張った。
 はさみが糸に入る。僕は整頓された玄関の灰色のタイルに目線を落とした。
 セージの指先で僕の糸が力なくぐったりしていた。

 セージの部屋は僕のアパートと同じくらいの広さだった。照明はすべてオレンジ色で、生温かいようで不思議な明るさの家だった。
 レトロな模様のカーテンに目をむけると、閉めきった窓辺には白いユリが一輪、空き瓶にさした状態で置かれていた。電源の落ちたブラウン管テレビの上にガチャガチャでよく見るようなねこの小さいフィギュアが肩を並べて一列、僕をじっと見つめていた。大きなパイプベッドが部屋を陣取っていて、枕の上に小説が何冊か放りだされている。ページのところどころを折りこんでいるらしく、膨らんで見えた。
 この部屋を、夢かどこかで一度見た気がした。
「着替え、これ」
 振り返ると、セージがバスタオルと部屋着を持って僕のうしろに立っていた。ありがとう、と呟いて受け取る。風呂場はその奥ね、とセージはやわらかくほほえむ。
「脱いだ服、気にしないで洗濯機に入れていいよ」
「あ、でも」ほんとに結構、汚れてて。ぼそぼそつけ足しながら、やっぱり来ない方がよかったかもしれない、と思う。「自分で」
「いいよ。明日着る服がないでしょ」
「……うん、ありがとう」
 気にしなくていいよ、とセージは呟く。適当にあるもの使ってね、とつけ足して、部屋に戻っていってしまった。
 洗面所で一枚ずつ、汚れた衣類を脱いでいく。はだかにあたる空気が生ぬるい。洗濯機を覗きこむと中は空っぽで、銀色が僕に向かって大口開けているだけだった。そこに服を落としていく。部屋の照明がどこもオレンジ色でぼやけているせいか、すべての行動が意識の一枚向こうにあるみたいで不確かなままだった。
 そろそろとユニットバスに足を踏み入れる。くぐもったオレンジ色の空間は少しだけ湿っていて、仕切りのカーテンにくっついた残り水がやけにきらきらと光っていた。
 小さなよくあるユニットバスには空色の仕切りカーテン、当たり障りのないシャンプーとリンスと石鹸と洗顔。男が住んでいるにしてはきっちり掃除された空間だった。
 蛇口を捻りだし、水とお湯をうまい具合に混ぜていく。髪からはつんとした悪臭がする。
 角がとれて、溶けかけのバターみたいになっている石鹸を手に取ると、それは僕が幼少期に使っていたものと同じ牛乳石鹸だった。
 鼻先に近づけてみて、そうしたらたしかにいつものセージと同じにおいだった。セージの汚れを洗い流した石鹸で必死に泡をたてた。においが全部ごまかしてくれる気がした。

 風呂からあがると、セージが台所で水を飲んでいた。僕にもなみなみと水をついだグラスを渡す。すぐに口をつける。ビールのせいでのどがひどく乾いていたことにそこで気がつく。
「たまごかけごはん、食う?」
 嘔吐までしたのになぜか腹が減っていた。食べる、と答えると、セージは頷き、じゃあちょっと待ってて、と言って腰を上げる。
 レンジであたためた白米を茶碗に入れて、僕らは小さいテーブルで向き合って座った。あたたまった白米の独特のにおいで、やっぱり腹が減っていると思った。
 殻を割り、セージはその上にめちゃくちゃに味の素を振りかける。いつかの母親のざらめと同じように、それは奇妙に、そしてやたらとマジカルな感じで黄身に覆いかぶさっていく。
「先に醤油混ぜ込むやつと、あとからかけるやつと、白身だけ最初に混ぜるやつ、いるよね」
「一時期流行ったやつ?専門店とかあるんだっけ、今」
「たまごかけごはんの?」
「うん」
 ふーん、と呟く。時計のないセージの部屋には、冷蔵庫のぶーんというファンの音と、僕らの呼吸や衣擦れ、箸の音が無機質に響いていた。時間の感覚がわからない。
「専門店行って食うほど好きじゃないけど、なんか気づくといつも食ってる」
「一人暮らしやるとそうなるよね。僕結構昔からこういう単純なものばっかり食べてきたから、変わんないけど」
「俺もそんな感じで育ったよ。基本米になんかかける感じのメシ。なめ茸とか鮭フレークとか、ノリの佃煮とかふりかけとか。そんなんばっか」
 だからまずいうまいがゼロヒャクでしかわかんないんだよな、とセージは呟くようにつけ足す。腹にたまればいいし。ね、と僕は頷く。味の素のパンダが黄ばんだ顔で僕を見ている。
 白米に箸を入れる。少し冷めた。もう一度混ぜ返し、くぼみを作るとそこにたまごを割り入れる。熱いうちに落とすとおじやみたいになるのがいやだった。
 醤油を垂らす。味の素は入れなかった。セージの右にあるのをとってと言うだけなのに、なんか言い出せなかった。掻き混ぜて頬張る。口に入った瞬間なにかが刺激され、腹減った、と胃袋が更に騒ぎ立てる。
 傾けた茶碗のふち越しにセージの目を見る。セージは目を伏せて掻き混ぜたたまごごはんに醤油を足した。黄色が消え去り、カンロ飴のような色をした飯を、セージはじっと見ている。
 それから黙ってふたりでたまごかけごはんを食べた。胃になにか入ると少しばかり落ち着いた。洗い桶に沈む黄色くなった茶碗、それらに張りつくような水で妙なさみしさが訪れた。

 なにか観ようとセージが言った。ブラウン管テレビはまだ動くらしかった。
「これ、観られるの」
「うん、サブスクもちゃんと映るよ」
「どうやったの?」
「内緒」
 セージはそう言ってどこか恥ずかしそうに笑った。結構難しかったけど、どうしても観たくて。彼がそう言いながらブラウン管テレビの電源を入れると、見覚えのあるサブスクのホーム画面が表示された。似合わない現代のロゴデザインで奇妙な時代の歪みを感じる。
「なに観る?」
「あ、あれ」あなたへのおすすめ、に表示された見覚えのある写真に声をあげる。
 「太陽を盗んだ男」だった。観ようか、とセージが言い、再生ボタンを押す。
 不確かな部屋にブラウン管テレビの青白い光がさすと、ようやくこの部屋に現実が戻ってきた気がした。映画の光でそんなことを感じるなんて、奇妙だと思いながら。
 主人公は盗んできたプルトニウムを使って、アパートで原爆を作っている。セージは息をするのも忘れたみたいにじっと画面を見つめていた。
 僕らは全く言葉を交わさなかった。映画館で見たあのアニメ映画のときとは違って、セージは静かに、瞬きの感覚もわからないくらい画面に見入っていた。僕はときどきセージを盗み見て、その表情にやっぱりなにも言えないまま画面に目線を戻すことを繰り返していた。
 セージが動いたのは、原爆が完成間近になったころだった。
 ちょっと、とセージが呟く。ちょっと飛ばしていい?僕は黙ったまま頷く。
 セージは早送りのボタンを押した。長い睫毛は白い光を受けて、瞬きのたびに揺れる。
 画面の中の時間が、セージの指先ひとつで進んでいく。セージは数秒画面を早送りし、ようやくリモコンを置いた。
「猫が死ぬのは耐えられないんだ」
 僕もそのシーンは苦手だった。セージが先に気がついて早送りしてくれてよかったとさえ思った。数万人の命がゆうに吹き飛ぶ原爆を作っている男の映画は自分から進んでみるくせに、猫一匹死ぬシーンにこころを痛めるのはおかしい気もした。

 映画を観終えると、セージから使い捨ての歯ブラシを貰って歯を磨いた。ふたりとも一杯ずつぬるい水を飲み干して、明かりを消すと布団にくるまった。
 布団からは厚みのあるあたたかいにおいがした。枕に右頬をあてると、その奥にセージの髪のにおいが隠れている気がした。
 大きなパイプベッドは男ふたり並んで寝転んでも狭さを感じなかった。布団はやわらかく沈み、起き上がるのが困難な気さえした。疲れきったからだを横たえるには十分すぎるほどの寝床だった。
「真央」
 うしろからそっと名前を呼ばれる。振り返らず、うん、と返事をする。
「あの糸、どうしたらいい」
「……さっきの」
「うん」布団ががさりと鳴り、セージが動いたのがわかる。「さっきの」
「……セージが捨ててくれれば、それで」
 わかった、とセージは呟いた。時計もないセージのアパートに寝転ぶ音は、僕らのうすい呼吸だけだった。
「……ねえ、真央」
「うん?」
「どうして十五歳だったの」
「……糸の、話」
「うん」
「……父親が出て行ったのがそのころだったんだ。もともと家にいなくて、だから僕の家はほとんど母子家庭みたいだった、」
 薄暗さに目が慣れて、僕はカーテンの模様を見つめていた。そこに一輪ユリの花がささっているのを思い出して、泳ぐように目線を動かして探す。
「……でもたまに帰ってきて僕をかわいがってくれた」ユリの輪郭がいつまでもつかめない。
「でも思う。僕と父さんの距離が当たり前のものじゃなかったからかわいがってくれたのかもしれないって」セージの呼吸が右でかすかに繰り返されている。
「いくら血がつながっていても、距離がないといけないんだって、思った」うまく話ができない。セージの問いに返せていない気がして、一瞬息を止める。肺が縮む。
「……父さんがついに母さんと別れるってなった日、僕は熱が出て、学校早退してたんだ。父さんに久しぶりに会えたのはそんな日だった。運がいいのか悪いのかよくわからない日。母さんの電話がつながらなくて僕はひとりで帰ってきた。そうしたら玄関に靴があった。そのころ母さんが付き合っていた銀行員のおじさんじゃない靴だった。部屋に上がっていったら父さんがいた。母さんもいた。電話がつながらなかったのは、仕事のせいじゃなくてふたりのせいだった、」……あのユリをどこかで見たことがある気がする。
「のども頭も痛くてからだも熱くて、においとかいろいろちゃんとわからないまま、部屋に入った。ふたりは僕に気がつかなかった。ずっとなにか言い合いをしてた。安っぽい、どこでも観られるようなドラマみたいに。半分夢みたいだったから、そうだったらいいのにって思ってた。たしか、そう思ってた……父さんが僕に気が付いて、久しぶりだなって言った。笑ってた。笑ってそう言って、もう会えないかもな、でもそれでいいかもなって、勝手に自分の答えだけ僕に放り投げて、部屋を出て行った。すれ違ったとき、僕と父さんの身長がたいして変わらなくなってて、あれ、こんなに小さかったっけ、って思った。覚えてる。僕、意外と、ちゃんと……ちゃんと覚えてるな。あれ、……話が、ちょっと、下手、かも」
 セージはなにも言わなかった。
 ふいに鼻の奥が痛み、指先がひどく痒くなった。仰向けになって右頬に指先をつける。ぬるい頬の温度と熱を持った指先の温度がわかりあえずに隙間でぶつかりあっている。
 ユリのにおいが急に強い輪郭を持って僕に触れた。
 ――あ、きれちゃったね。
 揺れるレースのカーテンと、母親の白い指に絡まってもがいた緑色の糸。ほどかれた弱々しい緑色のセーター。猫の尻尾が刻む時計。一輪の白いユリ。
 記憶のせいで進めない瞬間がたくさんある。
 僕はまた右頬を枕に押しあてて目を閉じた。痒い指先をごまかすために布団の中で自分の手を繋ぎあった。糸がまた伸びている。気持ちが悪い。
「セージ」
「……うん、」
「また糸が伸びてる」僕は目を開けないまま言う。「僕たぶん死ぬまでこうなんだ」
 数秒ぬるい外気が入りこみ、セージが布団を持ち上げたのがわかった。衣擦れの音のあと、僕の指先にセージの冷たい指がおそるおそる触れた。
 布団の中で僕らはうかがうようにおそるおそる手を触れあった。セージが手探りで僕の右手の指を拾った。セージが僕に触れるとき、ぶつかるその手やいろいろは、やっぱりどこか限りないつくりものみたいだと思う。
「眠れない」僕はだだをこねる子どもみたいに言った。「こんなんじゃ――」
 ねむれないね、とセージが囁く。なぜか彼のほうが泣きそうな声を出していた。
「セージ」乾いたのどをそのままに僕はいらないくらい口を開く。「あのユリ、どうして」
「……窓のところの?」
「ユリなんか、……結構、気持ち悪いじゃん。花びらの奥、尖ってるし、においも、……」
「もらったんだ、あれ」
 背中にセージの静かな呼吸があたる。セージが僕の背中に額をつけている。重みが、ある。
「真央は、花言葉、好き?」
「……なんで」
「俺は、嫌い。なんでもかんでも理由をつけたがる人間の嫌な感じがする。……あのユリは、マドンナ・リリーって呼ばれたりしてる、……マリアの象徴。純粋、って花言葉」
 僕の背中に縋るようなセージの不確かさが怖い。消えそうに揺らいでいるのがわかる。いつの間にか僕らの手はほどけて、僕はまた、落ちないためにそうするみたいに、自分の手を掴んでいる。
「真央。俺の名前、聖司でしょ。でも呼ぶとき、みんな、セージ、って発音する」
「うん」
「……セージって植物があるの、知ってる?」
「知らない、」
「あの花言葉はさ、家族愛、って言う、」
 セージが震えるみたいに笑った。息が僕の背中にぶつかり、シャボン玉みたいに次々消える。
「ばかみたいだね」
 僕は窓辺で水に浸かるユリにそう言った。セージが僕のシャツを掴んだ。背中でぐしゃりと皴が寄る。震えているのがわかった。でも振り返らなかった。
「ばかみたいだよなあ、ほんとに、生きてるのがときどきばからしくてしかたなくなる」
 セージが声をたてて笑った。湿った笑い声だった。
 僕らの体温を吸った布団はあたたかく膨らみ、僕らを冷やさないようにすっぽり抱きしめていた。繊維の奥、そんなにおいを嗅ぎながら、僕はまた目を閉じた。母体だと思った。セージの部屋は、僕らが今眠っている大きなパイプベッドと沈むこの布団は、母体みたいだった。

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