Vol.16「臨済宗と黄檗宗」
達磨大師と禅
約2500年前、お釈迦様は苦行の末に、菩提樹の下で坐禅を組み、悟りを開きました。それに倣い、悟りの境地に達するために手足が腐って無くなるまで
坐禅を続けたのが、インドの僧で中国禅宗の祖師、達磨(だるま)大師です。
5世紀末、達磨大師はインドから中国に渡り、修行を通して坐禅による禅法を中国に伝えました。その教えは文字や知識ではなく、坐禅という実体験をもとにした実践的なものです。お釈迦様の教えを、経典などの文字や言葉に頼らず師の心を以(もっ)て弟子の心に伝える。「以心伝心(いしんでんしん)」はここからきています。
中国では禅の教えが広まり、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗など五家七宗といわれる多くの宗派が成立しました。
日本における禅宗はいずれも中国禅宗の流れをくみ、坐禅を修行の根本に悟りの境地を目指します。作務(さむ)と呼ばれる掃除などの日常作業を尊ぶことは共通していますが、修行方法や坐禅の作法は宗派によって違いがあります。
宗派による座禅の違い
臨済宗の特徴は、公案の答えを求める公案禅。
公案とは、禅宗の祖師たちの言葉や言動をもとに、悟りについて考えるクイズのようなものです。一つの公案を与えられた修行僧は、坐禅の時以外でも四六時中考え、導き出した答えを否定されては考える。
そうした問答を繰り返すことにより悟りに近づく。
話(公案)を看るという意味で看話禅(かんなぜん)とも言われます。
曹洞宗(そうとうしゅう)は、ただひたすらに坐禅する只管打坐(しかんたざ)。坐禅修行は悟りを得る手段ではなく、人が坐禅する姿がすでに「仏」そのものであるとします。
黙照禅(もくしょうぜん)とも言います。
黄檗宗(おうばくしゅう)は江戸時代初期に来日した中国僧の隠元(いんげん)が伝えた宗派で、阿弥陀信仰と融合した明(みん)時代の中国臨済宗の流れをくんでいます。
坐禅とともに「南無阿弥陀仏」の念仏を称える念仏禅が特徴です。
ZEN
武士道、茶道、精進料理、水墨画に石庭。
これらの日本の文化は、すべて禅の影響を受けています。
欧米でも「禅=ZEN」としてブームになっています。
Apple社の創始者、スティーブ・ジョブズも傾倒し、iPhoneの開発には禅の思想が反映されています。
栄西禅師
栄西は14歳の時、天台密教を学ぶため比叡山延暦寺にのぼり、受戒得度。
27歳で天台密教を究めるために宋(中国)へ渡ります。
この時すでに天台山は禅宗寺院に変わっていて、栄西は失望し5ヶ月で帰国の途につきます。
帰国後は天台密教僧として活動しますが、仏教の源である天竺(インド)に行きたいと願い、47歳で再び宋に渡ります。しかし、この時も政情不安から
天竺には行けず、天台山で臨済宗黄龍(おうりゅう)派の禅を学びます。
4年間の修行の後、帰国して禅道場を設立します。
ところが、比叡山の僧らの訴えにより、朝廷から禅布教の停止令が出されてしまいます。栄西は天台宗など旧仏教を否定せず、対立を避けて京都から鎌倉へ拠点を移します。
そこで源頼朝の一周忌法要に招かれた栄西は、2代将軍頼家の庇護を受け、京都に建仁寺を創建。建仁寺は禅、天台、真言の三宗兼宗でしたが、ここに初めて禅宗が公認されました。
1215年、栄西は建仁寺で入滅。75歳でした。
その後の臨済宗
このように、中国から臨済宗を日本に初めて伝えたのは栄西ですが、臨済宗の宗祖とは言えません。
中国臨済宗の祖・臨済義玄(りんざいぎげん)をおおもとの宗祖とします。
中国臨済宗は「黄龍派」と「楊岐(ようぎ)派」に分かれており、栄西が伝えたのは黄龍派です。現在、日本に伝わる臨済宗は14派に分かれ、栄西以外の派祖はすべて楊岐派を伝えます。
栄西を宗祖とするのは、建仁寺派のみです。
よって、臨済宗を統括する総本山はなく、14派それぞれに本山と派祖が存在します。
江戸時代に臨済宗は一度途絶えそうになりましたが、中興の祖・白隠(はくいん)が公案を重視し、再興しました。14派でバラバラだった修行法も、白隠の法系が採用され統一されました。現在の臨済禅は白隠禅とも言われるほど、臨済宗では白隠の方が重んじられます。
臨済宗の14派
臨済宗には名僧が多く、宋に留学したり来日した中国僧から学んだ禅僧がそれぞれ派祖となり、多くの門派が生まれました。
本山の名がそのまま〇〇寺派となります。
建仁(けんにん)寺派
栄西を派祖とします。建仁寺には国宝『風神雷神図屏風』があります。
妙心(みょうしん)寺派(派祖は関山慧玄)
臨済宗の中で最大の宗派です。
南禅(なんぜん)寺派(派祖は無関普門)
南禅寺は天皇の発願で創建された日本最初の勅願禅寺。
すべての禅寺の中でも一番格式が高いと言われます。
東福(とうふく)寺派(派祖は円爾弁円)
派祖の円爾は静岡茶の始祖として知られます。
天龍(てんりゅう)寺派(派祖は夢窓疎石)
天龍寺は、後醍醐天皇を弔うために足利尊氏が開基。
かつては天皇家の菩提寺でした。
相国(しょうこく)寺派(派祖は夢窓疎石)
世界遺産の金閣寺、銀閣寺は相国寺の塔頭(たっちゅう)寺院です。
大徳(だいとく)寺派(派祖は宗峰妙超)
大徳寺は応仁の乱で焼失するも、一休宗純が復興。
織田信長の葬儀、豊臣秀吉の大茶会、千利休の切腹事件など、歴史の舞台に何度も登場します。
ここまでの七ヶ寺は京都市に所在します。
建長(けんちょう)寺派
鎌倉市。派祖は蘭渓道隆。北条時頼が開基。
円覚(えんがく)寺派
鎌倉市。派祖は無学祖元。
蒙古襲来によるすべての殉死者を弔うため、北条時宗が建立。
向嶽(こうがく)寺派
山梨県。派祖は抜隊得勝。
方広(ほうこう)寺派
浜松市。派祖は無文元選。
永源(えいげん)寺派
滋賀県。派祖は寂室元光。
国泰(こくたい)寺派
富山県。派祖は慈雲妙意。
仏通(ぶっつう)寺派
広島県。派祖は愚中周及。
黄檗宗(おうばくしゅう)
黄檗宗の宗祖は、隠元(いんげん)です。
江戸時代、徳川4代将軍家綱の招請によって明(中国)から来日しました。
隠元は中国臨済宗(楊岐派)の僧であり、あくまで臨済宗の一派に属する僧でした。隠元は「臨済宗」を名乗りたかったのですが、お経や儀式などが本場中国式だったために認められず、宗祖・臨済義玄の師、黄檗希運の名に由来する独立した宗派「臨済正宗黄檗派」と名乗りました。
黄檗宗という宗派として認められたのは明治時代になってからで、主な13宗派の中では最も歴史が浅いと言えます。
隠元が伝えたもの
隠元が中国から日本に持ち込んだもの。
例えば、名前の由来にもあるインゲン豆。ほかにも西瓜や蓮根、孟宗竹(たけのこ)、煎茶などのほか、普茶(ふちゃ)料理と呼ばれる中国式の精進料理。そして木魚を伝えたのも隠元とされています。
臨済宗の葬儀
禅宗の葬儀の中心となるのは、故人を仏として仏の世界に送り出す引導(いんどう)の儀式です。
導師が棺の前で「引導法語」をとなえ、最後に強い声で「喝(かつ)‼️」と一声します。それと同時に松明で円を描きます。これは火葬時の点火を意味し、「引導を渡す」という慣用句の語源になっています。
臨済宗のご本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、脇侍は14派それぞれに異なります。最大宗派の妙心寺派は、
(右)無相大師(妙心寺派の派祖・関山慧玄)
(左)花園天皇(妙心寺を開基)
妙心寺派以外では、
(右)達磨大師、文殊菩薩など
(左)観世音菩薩、普賢菩薩など
焼香の回数は、基本的には1回です。
額にはおしいただきません。線香は、一本を立てます。
黄檗宗の葬儀
お経は日本語ではなく唐音(とうおん)で読みます。
漢字には音読みと訓読みがあります。音読みは中国を起源とする読み方で、
日本に伝わった時代により呉音、漢音、唐音などに分けられます。
唐音は鎌倉時代、禅宗の僧により中国から伝わりました。
和尚(おしょう)、行脚(あんぎゃ)などが唐音で、「南無阿弥陀仏」は
「なむおみとふ」になります。「般若波羅蜜多心経」は「ポゼポロミトシンキン」となります。
また、太鼓や銅鑼など様々な鳴り物を使って読まれる黄檗宗独特の節のあるお経を梵唄(ぼんばい)と言い、音楽的で賑やかな読経が特徴です。
念仏禅では南無阿弥陀仏を唱えますが、ご本尊は南無釈迦牟尼仏(釈迦如来)です。脇侍は右が達磨大師、左が隠元禅師です。
黄檗宗の焼香回数は、額に押しいただきながら3回行います。
線香は一本です。
「禅宗」について
ここまで何度も「禅宗」という言葉を使っていますが、2019年2月にこんなニュースが取り上げられました。
”臨済宗黄檗宗連合各派合議所と曹洞宗宗務庁は、中学校の歴史教科書を発行する出版社5社に対し、申し入れ書を提出しました。
その内容は、「鎌倉時代に広まった新しい仏教を紹介する際、浄土宗などはあ個別に宗派名が記載されているが、臨済・曹洞宗は「禅宗」とひとくくりにされている。」と指摘。
「禅宗」という宗派は存在せず、不適切と主張している。”
この指摘のように、「禅宗」は宗派ではなく、ジャンルです。
天台宗、真言宗を「密教」と呼ぶのと同じです。
宗派の確認をする時は、注意しましょうね。