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映画『ゴールド・ボーイ』感想

羽村仁成くんを讃えよ。
『ゴールド・ボーイ』のネタバレのない感想はこれに尽きる。
というか、ネタバレなしで脚本に関して語れることはあまりに少ないので、この緊迫したサスペンスに対して以下にネタバレ満載の感想を記していきたい。


◆シルバーの東と、ゴールドの朝陽

映画『ゴールド・ボーイ』のゴールドが意味するものとはなにか。
答えのひとつは、簡単に思い浮かぶ。おそらく、金(かね)だ。
子どもたちは経済格差の厳しい社会の中、家庭の事情からそれぞれ金に困っている。大金があれば塾や高校に行ける、家庭内暴力から身を守れる。金を求め、殺人犯を脅迫する。
突飛な行動のようでいて、しかし彼らにとって金は切実な問題なのだ。ゆえに、金に執着する彼らをゴールド(金)少年と呼んで差し支えないだろう。

もう一つの答えは、金賞、だろうか。
安室朝陽は広中杯という全国算数オリンピックで、金賞を受賞し日本一に輝いている。
一方、東昇は銀賞にとどまり、妻に馬鹿にされた。ここに彼らの関係性が凝縮されているといってもいいだろう。

少し、想像の話をする。
東昇は子どもの頃、算数がよくできた。その優秀な頭脳は、小さな彼の生まれ故郷の島ではさぞ目立ったことだろう。しかも広中杯は全国区の数学オリンピックだ。さぞ東も、鼻が高かったに違いない。
彼は己の頭脳にすっかりのぼせ上がった。なにせ顔も良い。希望の星として生まれ故郷を出て、沖縄を牛耳る実業家の娘にとりいった。結婚した。世界をも手に入れた気持ちになったかもしれない。
だが、入り婿の暮らしは肩身が狭かった。自分で手に入れられたものなど、ほとんどない。唯一の勲章を、妻には馬鹿にされた。頭脳で、自分に敵うはずなどないだろうに。
打ち砕かれる、プライド。満たされない承認欲求。
そうして彼は、義父と義母を手にかけた。綿密に計算され尽くしたプランに則って犯行は行われた。それはあたかも彼の頭脳の優秀さを示すかのような完璧さだった。

だが目の前に現れた、あどけなさを残し、純にもみえる少年は、広中杯で金賞を取ったのだという。

自分より、上位の存在。同じ沖縄出身なのに、彼は全国一位として名を轟かせた、金賞の男だ。
その安室朝陽が、自分の完璧な犯行に傷をつける。東のコンプレックスはさぞ刺激されたことだろう。絶対にこの少年を負かし、自分の優位性を突きつけてやらねばならない。でなければ、あまりに惨めな人生ではないか?

東昇と安室朝陽は、まるで合わせ鏡のような人物だ。どちらも頭脳に優れ、他人の命を何とも思わず、ひとの情を弄んで「人間」のふりをする。
だが、完璧な対称ではない。朝陽のほうが少しだけ、東を上回る。その結末が、既に示唆されていると言ってもいいのが、あの広中杯のシーンだった。

本作で東昇を演じる岡田将生は、映画『悪人』『告白』『星の子』『ドライブ・マイ・カー』といった作品で、一見普通のひとだったり、善人に見えたりするひとのなかに潜む残酷さを、観客に鮮烈に印象付けてきた俳優だ。彼が東にキャスティングされたのも、ノーブルで優しげな見た目とうちに潜む残酷さというアンバランスさを際立たせられることを狙ってのものだろう。特に近年、邦画界では「サイコパスな人間をやらせると面白い俳優」みたいな位置付けになってきているのを感じる。
だが個人的には本作の東は、想像していたよりサイコパスではなかった。
自身のコンプレックスから必死に目を背け、ままならない人生に歯噛みし、少年達に邪魔され苛立ち、己の犯行を語ってきかせて承認欲求を満たし、あまつさえ彼らの脅迫に甘んじてさらなる殺人の手助けまでする。
彼は人の気持ちのわからない殺人者などではない。人の気持ちがあったからこそ、あそこまで狂えた悪人なのだ。
(余談だが、朝陽がいじめられていたから部屋に入れた、と咄嗟に嘘をついた東がなんとなく気にかかる。実際、朝陽はいじめられてなんかいなかったが、東はどうだろう?咄嗟に自分の過去を、似たもの同士の彼に投影したのではないだろうか?)

岡田将生の演技自体も、『ドライブ・マイ・カー』で見せた深淵のような闇を感じさせるものではなかった。端正な顔をいびつに歪ませ、時にヒステリックな行動で他者を威圧する行動には、東の底が見えるような嘘寒いかんじがあった。
だが、彼の演技はそれで正解だったのだと思うし、真のサイコパスではなく、自身を天才殺人者だと思おうとした悲しい悪人、という見え方まで計算されていたのなら、やはり素晴らしい役者だと思う。なにせこの作品の裏の主人公、真のサイコパスにしてゴールド・ボーイは、羽村仁成くん演じる、安室朝陽なのだから。大人になりきらない彼の、しかしあの大人を圧倒する視線はなんだ。居住まいはなんだ。末恐ろしいとは、このことか。

はじめ安室朝陽は観客の前に、優しい素朴な中学生のような顔をして登場する。しかし東を脅迫しようと言い出し、肝の座った態度で大の大人を追い詰めていく手腕に、こいつ何者だと私は息を呑んだ。
そして、息子は人を殺したのではないかと一抹の不安を抱える母親に、自分を信じてほしいと、いじめられていた経緯を話す朝陽の姿が義父母の死を悲しんでみせた東の姿に重なったように思えた時、ふと、疑問が生じた。
もしかして彼は本当に、同級生を殺したんじゃないだろうか。
疑問は次第に確信に変わり、朝陽の悍ましい一面がついに決定的になったクライマックスシーン。彼はついに東に打ち勝ち、真の悪は完成した。

◆太陽のような存在だった、安室朝陽

本作のキーパーソン、夏月は繰り返し言う。
私は人殺し。人殺しの娘。朝陽でなく自分のような存在が人を殺すべきなのだと。

人を殺せば当たり前だが、逮捕される。未成年であっても、社会的な制裁も受けるだろう。特に本作では、殺人と、底辺社会に縛り付けられることの繋がりが強調して描かれているように思う。夏月はその最たる例で、人殺しの嫌疑をかけられた父親が自殺し、暮らしは崩壊した。その結果、義父に虐待され、精神的にも追い詰められ、咄嗟に刃物を手に取った。逃れられない苦しみの中で、彼女は生きていた。
格差社会のなかでどうしたって浮き上がれない、底辺に縛り付けられてしまう自身の境遇と、人殺しの娘の自分にも人殺しの資質があるのではないかという苦悩が結びつき、夏月は絶望を深めていく。
しかし義父は生きていたことがわかり、朝陽は夏月を、家から連れ出してくれた。

自分は殺人者じゃない。
夏月の呪縛が解かれた瞬間だった。解いたのは、朝陽だ。ゆえに彼女は自ら汚れ役を引き受けようとする。

朝陽を信じた夏月は、自分を踏み台にしてでも彼に日の当たる道を生きてほしいと願う。
なぜなら朝陽は、彼女の救いであり希望だから。いや、底辺社会で暮らす者すべての、希望なのかもしれない。
貧しさに喘ぐ人達、逃れられない苦しみに囚われる人達、そんなみんなにとっての、太陽。名前がそれを示唆している。(奇しくも、東昇も)勉強ができて成績が良くて高校や大学に行けて、しっかりとお金を稼げる職につく。努力だけではどうにもならないこの世界で、決して自分には望めない未来を、彼女は朝陽に託した。夏月の名前に、月の字が入ってるのは決して偶然ではないはずだ。
その健気な献身を嘲笑うかのように、朝陽は残酷にも夏月を見殺しにしたのだった。(ただ、死んだ夏月の瞼を閉じてあげたり、写真を焼いてあげたりした行為からは、彼女への情はあったのだと推察される。だとすればなおさら、怖い)

インタビュー記事によれば、本作では沖縄の鮮やかな風景を、緑を強調して補正し、重苦しい雰囲気を演出したそうだ。しかしそうした演出が唯一、朝陽と浩と夏月が最後の交渉に東のもとに出向いたシーンのみ、変わる。
この交渉が終われば東との縁も切れ、自分は施設に入り、そして朝陽には輝かしい未来だけが待っている。そう信じた夏月が、振り返って海を見るその一瞬、景色が鮮やかな色彩を持って映し出される。
ああ、あの重苦しい色彩は彼女の目から見ていた沖縄の景色でもあったのかと思った。彼女を縛り付けていた苦悩が消えた時、こんなにも空は、海は、輝かしい青になるのか。椰子の木の葉が、緑に煌めくのか。沖縄の風景の美しさを、こんなふうに演出として使うのは、効果的ではないかと思った。

人を殺してもいないのに殺してしまったかもしれないと自分を責め、あなたを信じるのだという美しい人の情を、真の殺人者は踏み躙る。ただ、金を得て自身が成功するためだけに。
ゴールド・ボーイで繰り広げられる戦いは、大人と子どもの戦いでもあり、信じる者とそれを裏切る者の戦いだった。ラストカット、東や朝陽の演技に翻弄されながらも静を信じ続けた男、東厳と朝陽との対峙が、果たしてどちらに軍配が上がるのか。 
貧困が拡大する日本社会で、激しい格差を抱える中国で書かれた小説が映画化された意味を考えながら、その結末に希望あれと、祈るしかない。

追記:岡田将生のスタイリングに血道をあげすぎてませんか、特に最期に着てた白いブラウス、シルエットが綺麗でよく似合ってたし赤い血に染められると美しすぎて正気を失うかと思いました。やっぱ、これでもかと彼の美貌を活かした映像を観れるのは楽しいものですね。

(2024.3.9鑑賞)

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