映画『イミテーション・ゲーム』感想
この映画が単なる、「変人の天才がナチスの暗号を読み解き英雄になった成功物語」だったら。この映画が完全なるフィクションだったら。こんなに泣くこともなかったし、こんなに記憶に残る映画にもならなかっただろう。
鑑賞後の気持ちとしては、シンドイ。とにかくめちゃくちゃシンドイ。本作に描かれた主人公、アラン・チューリングは実在のイギリス人で、その苦難に満ちた人生は、自殺によって終止符が打たれたという。
アランの身に実際に起きたことを忠実に、しかし確かなテーマ性を持たせながら紡いだ秀逸なる脚本について、感想を記したい。
◆コミュニケーションの手段としての、暗号解読
難解なナチスの暗号を解読する。それは私にとっては非常に高度で難解な、とっつきづらい作業に思える。
しかしアランにとっては、逆だった。人間との会話ほど難解なものはないのである。
人と会話するとき、我々の脳は何を考えているのか。文字通り発せられる言葉の意味を受け取るだけではない。さまざまな文脈、ボディランゲージなどの要素から意味を推測し、皮肉や冗談を返し、言葉の裏の裏の意味まで探っていく。それを可能にしている複雑なルールや規則性を詳らかにすることと、兆を遥かに超える桁数の組み合わせを試しながら暗号を解読するのと、どちらが難しいだろうか。どちらも困難な作業であることに違いないが、しかし我々は規則性を説明できずとも、ごく自然に他者とのコミュニケーションをとりながら社会の中で生きている。
だが、アランはどうか。言葉を額面通りにしか受け取れないし、冗談も言えない。そんな彼にとって、パズルを解く鍵さえ見つければあとは論理性が全てを支配する暗号ほど、わかりやすい《言語》もない。
暗号を解読することと、人とコミュケーションをとること。この対比と類似が、本作の脚本の最も面白いところである。
人とうまく会話のできないアランにとって、暗号解読とはコミュニケーションと同義であり、世界と対話できる唯一の方法のように思えた。いや、対話できていたのかはわからない。少なくとも、対話したいとは願っていたはずだ。コミュニケーションの取り方が極めて不器用であるのと、天才の彼を理解してくれない人間が多すぎてストレスなだけで、彼は人間嫌いなわけでも孤高を気取っているわけでもあるまい。
終盤、アランが孤独になりたくない、と叫ぶシーンが非常に印象的だ。おそらく彼の心の奥底には常に、亡くなったクリストファーへの想いがあったのだろう。
学生時代の唯一の友達に抱いた、恋心。伝わらなかった暗号の「I LOVE YOU」。
アランはずっと、クリストファーと共にいたのに、何一つ彼のことを知らなかった。病気である、と言葉にして説明されなかったから、気づけなかったのだ。
好きな人のことでさえも理解できなかった、コミュニケーションのとれなかった罪悪感が、彼を生涯苦しめたのだとしたら。日夜開発に勤しんだ原始的なコンピュータに「クリストファー」と名づけ、毎日それと対話し、大切にして、終戦後も決して手放さなかった意味は、なんだろう。
彼はきっと誰かと会話していたかった、本当の意味で人と理解し合いたかったのだ、どんな《言語》であっても。天才だって、孤独を抱えたひとりの人間なのだから。
◆「普通」を希求するすべての人への救済
"おまえは「普通」の人間ではない"
私は、そんな烙印を決して押されぬように青春時代を送ってきた臆病な人間である。
虐められるのが怖かったから、自分の好きな物、考えていることが周りから浮きそうであれば絶対に黙っていた。かといって当意即妙の面白い会話ができるような人間でもなく、人の輪に入りコミュニケーションをとるのがひたすらに億劫で、とりあえず当たり障りのない、人並の発言をしてその場を凌ぐことも多かった。似たような経験や悩みを持っていた方が、きっと山ほどいるのでないだろうか。
私は今も昔も、人との関わり、会話に自信がない。けれど生きていくためには社会性を身につけねばならないから、他人のコミュニケーションを必死に「模倣」する。
本作のタイトル、「イミテーション・ゲーム」とはおそらくチューリングテストを直接的には意味しているものだろうが、個人的には、「普通の人間になれないコンプレックスを抱えた主人公の、必死に普通の人間を模倣しようとした生き様」を表現しているように思えてならない。まるで、人工知能が人間の振る舞いを求めて開発されていくように。
アランは何度も、他人から「普通ではない」と烙印を押されていた。自分は普通ではないのだと、自己評価さえしている。「普通ではない」、それは決して彼を天才なのだと褒め称える言葉ではなく、たとえ賢くても人と協調できない人間を、輪から外してしまう言葉だ。アランがどれほど「普通ではない」ことに苦しめられてきたか、想像に難くない。決して自分の能力を卑下することはなかったし、パズルが好きな自分が嫌いだということはないのだけれど、しかし叶うことなら彼は、「普通」になりたかったのではないかと思う。他人と、ごく自然にコミュニケーションがとれるようになりたい、という意味で。
アランとチューリングテストを行った刑事は、質問に答えたのが人間か機械かを問われ、「わかりません」と言った。もしもあの時彼が、「人間」だと答えていたなら……アランの心はいくぶんか、救われていただろうに。同僚たちから化け物呼ばわりされた彼の、「普通の人間」になりたいという切望は、ついぞ果たされることはなかった。同性愛者であるという、当時のイギリスの価値観では「普通ではない」ことによる罪で薬物を投与され、大好きなパズルが解けなくなるほどに衰弱した彼は、アラン・チューリングという人格すら否定され、喪失させられてしまった。こんなに酷いことが、現実に起こっていたなんて、できれば信じたくない話だと思ってしまう。
だが、「普通でない」ことは悪なのか?「普通でない」人間は、救われないのか?
本作はそれにハッキリと、NOと言ってくれる映画でもあるのだ。
ジョーンという、当時からすれば「普通ではない」が人付き合いの上手い聡明な女性との出会いは、確実にアランの人生を変えただろう。彼女はアランに、人の輪に入るきっかけを与えたし、どうしても回りくどく嫌味な言い方をしてしまうアランと他者との間に入り、意思疎通を手助けしてくれた。そんな最高の理解者を得て、同僚達とアランは関係を深め、良き仲間となっていく。アランは相変わらず不器用極まりないし、同僚達もアランが「普通」だとは思っていない。だが相手を少しでも認め合い、理解しあうことでチームになれているのだ。
無事エニグマを解読した後も、彼らの苦難の道のりは続いていく。究極的に合理性を突き詰め人の命を天秤にかけながら、戦争を終結に向かわせる壮絶な極秘任務を、彼はやり遂げた。だから私達は今、高度に発達した情報化社会の中で、コンピュータの欠かせない、豊かで平和な生活を送ることができている。
ジョーンはアランに言う、あなたが普通じゃないから救えた命があるのだと。
そのセリフは、アランだけではなく、己が普通でないことに悩むすべての人間を、救済する言葉でもあるだろう。
2023.7.29鑑賞
◆おまけの日記
友達とオススメの映画をホテルでひたすら鑑賞する会を行った。「イミテーションゲーム」はその時に観た一作である。
直前に「戦場のメリークリスマス」(感想は下記リンク参照)を鑑賞し、第二次世界大戦時の日本兵と英国兵捕虜との、国や宗教、文化の違いによる理解の断絶と魂の触れ合いとに情緒をぐちゃぐちゃにされた。からの、ナチスドイツの暗号を読み解き戦争を勝利にみちびく「イミテーションゲーム」である。連合国側の視点と、枢軸国側の視点の対比には、言葉にならない感情が込み上げた。
「平和のために戦争を終わらせる」という論理は確かに美しいけれど、人を殺すことには変わりない。アラン達が天秤にかけ、見捨てた英国兵がもしかしたらジャワで捕虜になり、日本兵に残酷な仕打ちを受けていたのかもしれないし、英国がナチスを追い詰めれば追い詰めるほど、それはまわりまわって日本を追い詰め、多くの日本人が死ぬことにも繋がったのかもしれない。
数字のパズルを扱い、神の如く人の生き死にを定める。だがその数字一つひとつに、人生があるのだ。生々しく戦時中の人間を描いた「戦メリ」でそれが胸に刻まれたからこそ、アランの決断の難しさも非道さも賢明さも、より胸に迫ったように感じたし、勝利に湧き立つ英国のシーンを観ても、虚しさしかなかった。でも、それでよかったのだと思う。この映画は決して、アランを英雄扱いしない、真摯な脚本だったと思う。
そして「イミテーションゲーム」の次は、「ブレードランナー」。自分は機械か人間かと問うたコンピュータの祖の物語の次に、もはや人との区別がつかなくなるまでに進化した人造人間の暴走の物語を観ることになるなんて、なんて最高のセトリなんだ!「ブレードランナー」では、人と人造人間の判別を目的とし、問いかけ形式のテストを行う場面が印象的に描かれる。それがなんだか、チューリングテストにも似ているような気がして、胸が轟く思いだった。