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「いじめられる側にも問題がある」論について

今回は、たびたび交わされる「『いじめられる側にも問題がある』は是か非か」という議論について、多くの場合議論として成立していないですよ、というお話です。

昨日のnoteで、「『読んでね』という形で文章を提供されているのに読まれないとき、書いた人に責任はないが一因はある」ということを書いたのだが、そのときにふと思った。

この命題は、「いじめられる側にも問題がある」という、よく聞くあの話に似ているな、と。

いじめについての話題になったときに、必ずと言っていいほど出てくる議論である。

これに対して向けられる意見を見ていると、その指摘がどこからの目線で、何に対しての議論なのかを整理しないからまとまらないのだと感じることが多くある。

「いじめられる側にも問題がある」論が出てきたあとの議論は、だいたい下記のようなものになる。

A
「そんなことはない。いじめる側が悪いに決まっている」
B
「いや、いじめることはもちろん悪いが、全員がいじめの対象になるわけではないのだから、いじめられる側にも問題があるということだ」
A
「仮にそうだとしても、それはいじめていいという理屈にはならない」

この話をそのまま続けたとしても、基本的には平行線をたどることになる。
同じ議題についての話をしているように見えて、実は二人の論点がずれているからだ。

まず、Aは「『いじめ』という事象について『誰が悪いか』という観点」で話をしている
それでいうと、Bも認めているとおり、悪いのは当然ながら「いじめる側」である。
(「そもそもいじめはなぜ悪いのか」という問いについては、ここでは言及しない)

それに対してBは「いじめられる側にも問題がある」という言い方をしているが、これを言い換えると「いじめられる側にも原因がある」となる。

仮に、「自分勝手で協調性のない行動ばかりをとるから、他の人から無視されるようになった」という事例だった場合、「自分勝手で協調性のない行動ばかりをとること」はいじめが起こった原因になっているので、Bの主張も間違ってはいないことになる。

ここで気をつけなければならないのは「いじめる側に原因がある」となると、一方的にいじめる側だけに原因があるというニュアンスになってしまうことだ。

「自分勝手で協調性のない行動ばかりをとると、必ずいじめを受ける」が成立するわけではなく、いじめる側が「いじめよう」と思うことで初めていじめが発生するのだから、いじめる側にも当然原因がある。

つまり、「いじめる側にも、いじめられる側にも原因がある」が正しいということになる。
Bの主張におけるAとの視点の違いは、いじめ自体とその前後の文脈までを含めて、「いじめが起こった原因となるものはどこにあるのか」を考えたところにあるのだ。

この議論が繰り返されるのは、「いじめの要因となるのは、いじめる側といじめられる側どちらなのか」という議論に見えてしまうからであろう。

あたかも、Bの主張が「いじめる側によるいじめの正当化」として捉えられることで(そして、実際にいじめる側もその論法で言い逃れしようとするケースもあるがゆえに)、このような対立構造だと思われてしまう。

本来、「いじめられる側にも問題がある」論は、「いじめる側が悪い、どんな場合も人をいじめてはいけない」というのはわざわざ言うまでもない大前提としたうえで、「いじめを防ぐ、いじめをなくす、あるいはいじめられないための課題解決の視点」として提示されたはずであり、それが歪んで解釈されることで、上記のような意味のない「議論のようなもの」が起こる結果となってしまっているのだ。

「いじめられる側にも問題がある」論には、いじめられる側を非難する意図があるわけではない。

「いじめは悪いことだが、いじめをする人間は一定数いる」という前提においては、「では、自分がいじめの対象とならないためには」ということを考えることも必要だ、ということを言いたいだけなのだ。

━━━━補足━━━━
仮に、いじめられる人を非難する意図で言っている人がいるとしたら、これまた論点がずれてくる。
先に挙げた例でいうと「自分勝手で協調性のない行動ばかりをとること」がよくないことだ、という論法になるのだろうけれど、それは「いじめ問題」とはまた別の軸で話すべきことである。
━━━━補足━━━━

たとえば、盗みの横行している治安の悪い国で、見通しのよい店先にずらっと商品を並べていた店主が「万引きが多くて困っている」と嘆いていたとする。
その光景を見たら、誰もが「そりゃこの地域でそんなに商品並べていたら盗られるよ。盗られにくいように店の中に入れたら?」と言うだろう。

もし、それを盗んだ本人が言ってきたのならともかく、そうでなければ「だからといって盗んでいい理由にはならないだろ!」と反論されても、「いや、そういうことじゃなくてさ」となるはずだ。

「いじめられる側にも問題がある」という主張はつまり「そりゃこの地域でそんなに商品並べていたら盗られるよ」と同じことで、それに対して「いや、悪いのはいじめられる側だ」「なんでいじめられる側が見直さなければいけないんだ」というのは反論になっていないのだ。


だから、いじめについての話し合いをするときには、立場や目的を明確にする必要がある。

教育現場で働く人の立場で、「いじめをなくすには」を考えるのであれば、「いじめられる側の原因をなくす」アプローチではなくて、「いじめる側をどう指導するか」や「いじめの起きにくい教育環境とは」という観点から論じるべきだろう。

つまり「いじめられる側にも問題がある」論はあまり必要ない。

しかし、親の立場で「自分の子どもが学校いじめを受けないようにするためには」を考えるなら、「いじめられる原因を減らすように」という方向のアプローチになる。

「いじめられる側にも問題がある」論に基づいた対策を打つ必要がある、ということだ。
※繰り返しになるが、これは「いじめられる側が悪い」ということではない。親の立場だと、教育現場やいじめる側(予備軍)の子に直接影響を与えられる立場ではないので、「原因を減らそう」という手法をとるしかない、という話である。

お互いが同じテーマで議論しているのに噛み合わない場合、往々にして論点がずれていたり、そもそも主張する立場が違っているものだ。

どうにも平行線でが続くときは、一度お互いの立ち位置と前提を確認して、どこかに根本的なズレがないか、検証してみるといいだろう。

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