◆読書日記.《ジョナサン・キャロル『パニックの手』》
※本稿は某SNSに2022年7月3日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
ダーク・ファンタジーの旗手、ジョナサン・キャロルの短編集『パニックの手』読了。
デビュー作『死者の書』から読者を魅惑し、魅惑した読者をラストにどん底に突き落とす愛と地獄と神と死人と天使と悪意のふしぎなふしぎな物語を綴り続けた小説家の短編集である。
キャロルの短編は初めて読むのだが、なかなか新鮮な味わいのある作品が多かった。
キャロルの作風と言えばアメリカ人らしい軽快で洒脱な文体、気の利いたセリフの応酬、ユニークな人生観を開陳する魅力的なキャラクターの数々、考えさせられる警句、そしてあっけらかんと出てくる非現実……というイメージだが、短編でもこれらのキャロルらしい個性と言うものは変わりなく発揮されている。
しかし、本作の幾つのかの短編はほぼ「掌編」に近い短いものもあり、そういった短いものについては流石にキャロルお得意の気の利いたセリフであったり、洒脱な修辞であったりといったものを存分に発揮するという事までには至らず、その代わりキャロルの中にあるテーマ性とその「象徴性」がより露わになっていると思う。
キャロルの描く作品は「ダーク・ファンタジー」と呼ばれ、非現実的な現象を物語に取り入れている。
だが、長編『蜂の巣にキス』もそうであったように、必ず全ての作品がファンタジーであるとは限らない。
そして、まさに本書の作品の幾つかも非現実的な事の起こらない「現実的な」作品が混ざっている。
この事からも分かるように、キャロルは別に「ファンタジーが書きたい」というタイプの作家ではないようなのだ。
彼の表現したいテーマを見せるために、ある部分に限ってファンタジー的な要素を「利用」しているだけなのだろう。
恐らく、彼が書きたいのはいつでも「人」だし「人生」だし、そのどちらも思うままにいかないという不条理感なのだろう。
現実というやつは、ハリウッド映画のように、ちゃんと伏線を回収してくれない。
必ずしも努力は報われるとは限らないし、他人が羨むようなロマンティックな恋は必ず成就するとは限らない。
ある時、人生はどん底に落ち、或いは徐々にくすんだ色に染まっていき、或いは絶望が待っている。
ある人に向かっては、その人の「人生」は、突如キバを剥く。
キャロルはしばしば、突如としてそんな状況に陥った人々の姿を描いてきた。
それも、例えば擬人化された「人生」が、ひょこっと彼らの目の前に現れて「よう。おれ、お前の人生。突然かもしれないけど、おれお前のこと以前から嫌いだったんだよね」と告白してくる。
そんな、あっけらかんとした「非現実」が、キャロルの描く生き生きとした「現実」に侵入してくるのである。
「気づけよ、お前の人生はダメなんだ。以前からそうだろ? これからもさ」――自分の「人生」にそんなことを言われて、素直に「はい」「わかりました」と従う人間が、いったいどこにいる?
キャロルの書くキャラクターは、たいていの場合、自分独自のユニークな人生観を抱いて生きている。
そういった人々か、そんな「人生の不条理の象徴的キャラクター」に出会ったら、どうなるのか。
あがいたり、考えたり、洒落た方法で「人生」に一発お返ししてやる方法を考える――それが、キャロル的キャラではなかろうか。
本書の集中、ぼくが意外と好きだと思った作品は、意外にもキャロルの作品の中でも「最も何事も事件や事故が起こらない作品」である『秋物コレクション』だった。「最も何事も起こらない」が、そのぶん、この作品の設定は、幾分ストレートだ。
この作品の主人公は、自分が癌に侵されて余命いくばくもない事を知らされている。
そして、この作品の一行目から、既に印象深いものになっている。
「最初から、男は憐れみを拒否した。死にかけているとわかった者に他人が反射的にさしのべる、あのいやま、はれものにさわるようなやさしさなど欲しくはない」
彼はありありと見せつけられた自分の「人生」に、どう反抗するのか?
そう、彼はある意味「反抗」するのである。
彼は教師の職を辞し、貯金を全て下ろしてニューヨークへ向かう。彼は自分が癌である事を誰も気づいていない地に来て、自分の思うままの生活を送るのである……というお話。
この話は、ラストにちょっとした事が起こるものの、基本的には何の不思議な事も起こらないのである。ただ淡々と、男の最後の日々が描かれる。
意味ありげな男の行動。何の目的なのか、何を考えて、彼はラストの人生をそのようにしたのか、何一つ説明らしい説明も与えられずに物語の幕は下りる。
だが、これこそが「キャロルらしさ」だと言えるだろう。
男はいまいちパッとしない人生を送り、パッとしない女性とつきあってきた。
その彼が、自分の人生がいよいよ終わりに近づいてきたとハッキリわかった時に何をしたのか?
ニューヨークに来た時に初めて発見した、見た事もないような美しい傘、――その傘をぱっとさして死ぬ。そうと決める。
では、その傘に相応しい服を買わなければ。彼は初めて切るような仕立ての良いヴェローニの服を仕立ててもらう。
彼は服に詳しくなり、ちょっとした衣装持ちになり、そして女性から「ヴェローニの服が多少なりとも似合っている男の人は初めて見たわ」等と言われるまでになり、彼が本当に望んでいた「真実わくわくするような女と交際を持った」――思えば、これが彼が冒頭に示した「死にゆく人間への憐れみ」から逃れる手だったのだろう。
このように、キャロルの作品に出てくる人間の人生は、他人とは違っている。
良く見るフィクションの通りにはいかないし、彼らは延々に「ハリウッド的なフィナーレ」を迎える事はないだろう。
だが、そんな残酷な「人生」に対して、彼らの抗い方は、何とも独自で、ユニークで、そしてあまりに人間臭い。
キャロルは彼のファンタジー作品で、あっけらかんとした感じで突然「非現実」を作品に投げ入れてくる。
一つ間違えば、読者が失望しかねないほどに、本当にあっけらかんと非現実的なものが入り込んでくるのだ。
ベンチの隣に座ったお婆さんが「神様」であったり、子供の頃に想像していた「空想上の架空の友人」がひょっこりと表れて「久しぶり!」なんて言ったりする。
何の前触れもなく何の因果関係もないまま「非現実」がひょっこり現れるのだ。
普通の小説家がこんな事をしたら、荒唐無稽すぎて読んではいられないだろう。
だが、キャロルの小説に出てくるこういった「非現実」が効果を上げているのは、ひとえにキャロルの「リアル」の書き方が、非常に巧くて堅固だからだ。
彼の描写は、まるでジブリ作品の日常描写のように「生活感」の演出が鋭いのである。
この生活感から来る堅固なリアリティが、このキャロルの「あっけらかんとした非現実」の侵入を高等なものとして受け入れられる下地を作っているのである。
彼ら彼女らの人間臭い生活の中に突如として出てくる不条理な「非現実」に、キャロルのキャラクターたちは苦しみ、あらがい、七転八倒して、最後に目を見張る行動に出るのだ。
満ち足りた日常は、いつでも「現実」とも「非現実」ともつかないイジワルな「人生」に、その運命を狙われているのである。
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