◆読書日記.《赤井さしみ『赤井さしみ作品集 たそがれにまにあえば』》
※本稿は某SNSに2022年1月12日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
赤井さしみさんのイラストと掌編マンガを集めた作品集『赤井さしみ作品集 たそがれにまにあえば』読みましたよ~♪
赤井さんはTwitterやPixivで美少女絵やどこか間の抜けたバケモノのイラストを公開しているイラストレーターさんです。B6ハードカバーという本自体の体裁もユニークな作品集です。
赤井さんのイラストは以前からいくつか見かける事はあったのだが、マンガ作品を見るのはこれが初めて。
しかし、マンガを見てもイラストを見ても、この人の作品はあまり印象が変わらない。
もっと言えば、マンガはイラストを単に物語化しただけであって、この人の描いているものはスタイルが変わっても違わない。
一風変わったファンタジーやらSFやらお伽噺やらの世界観で、常に少女がのほほんと生きている。
そして、その少女の前にぬぼーっとした感じの異形の者が現れるが、その異形の者も少女に危害を加える事も悲しませる事もない。
全てがのほほんと始まり、のほほんと終わっていく平和な世界。
以前、本書をぼくが紹介した時に吾妻ひでお先生の作風と比較したが、確かに類似点はあるのだ。
だが、吾妻先生の場合、美少女の前に異形の者が現れた時は、美少女は異形の者にえっちな事をされたりヘンテコな悪さをされたりして「いやー」と泣き笑いのような表情で困ってしまう、というパターンであった。
それに対して赤井さんのマンガに出てくる異形は、少女に対して害を加える事はなく、また害を加えようとしても、全く少女にかなわなくて結局最後には少女に従ってしまう事となる。
この異形の者たちは、最初から少女に従う事を決めて少女を襲いにかかる「八百長試合のヒール役」といった役割のように見える。
異形の者たちは決して少女たちに危害を加える事はできず、それどころかその裏では少女側に味方しているかのようだ。
バケモノである彼らの存在意義は、あくまで「少女たちの可愛らしさの引き立て役」としてのみあり、そのためだけに存在を許されている。
つまり「少女を可愛らしく見せる」というシンプルな意図がイラストでもマンガでも共通して現れているのである。
これが吾妻ひでお先生の作品と大きく違う点だ。
吾妻ひでお先生のマンガにおける「少女の敵として表れる異形の者」の役割は、少女に性的なイタズラをして少女をちょっと困らせる、というセクハラ的な関わり方だった。
吾妻先生と赤井さんとのこの作風の違いというのは、そのまま「自らが生み出した美少女らに対するスタンスの違い」と言えるだろう。
吾妻先生のそれは、美少女らに対する男性のセクハラ的欲望の代行役として「異形の者」が現れて、現実の男性が実際にはやれないようなセクハラを美少女に対して行うのである。
それに対して赤井さんのそれは、美少女を傷つけたり困らせたりする事は絶対にしない。
異形の者は美少女の可愛らしさの引き立て役となり、美少女らに付き従い、深刻な障碍となる事は禁じられているのである。
また、赤井さんの作品の中には「現実の男性」は一人も出てこない。
赤井さんの作品の中にはリアルな「現実の男性」は、入ってくる事を許されていないのである。
リアルな「現実の男性」というものは、美少女に惹かれるものだし、恋をする事もあるし、あるいは厭らしい欲望を抱く事もあるだろう。
赤井さんの世界では、そういった「現実の男性」による美少女への欲望や恋心が固く禁じられているのだ。
赤井的美少女世界では、現実の男性はその存在が許されない。美少女たちは、大人の男たちの生々しい関係や下世話な視線から固く守られているのである。いや、「隔離されている」と言ったほうが良いかもしれない。
自然、そこで展開される物語群はすべて「美少女ばかりの世界」になってしまうが、それだけでは「物語」「ストーリー」が成立しない。
「美」しか存在を許されなければ、「美」は存在しない。醜いものもなければ、美は引き立たない。
だからこその「美少女の引き立て役」としての、「やさしい異形の者」だったのである。
赤井さんの作品は、最初から「美少女だけが存在を許された世界観」だったのである。