◆読書日記.《菊石まれほ『ユア・フォルマ 電索官エチカと機械仕掛けの相棒』》
※本稿は某SNSに2022年9月23日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
菊石まれほ『ユア・フォルマ 電索官エチカと機械仕掛けの相棒』読了。
本作はライトノベル新人賞の老舗、電撃小説大賞の第27回、大賞受賞作である。
某サイトで「アニメ化してもらいたいライトノベル」として紹介されていているのを見て読んでみる気になった。SFミステリという事で、アシモフの『鋼鉄都市』のファンでもあるぼくとしては、ちょっと気になるタイトルだと思ったわけである。
<あらすじ>
2023年(近未来?)、人々は脳とリンクしている侵襲型複合現実デバイス「ユア・フォルマ」を脳に埋め込んで生活をしていた。「ユア・フォルマ」は生活を電子化する非常に便利なデバイスだった。
「ユア・フォルマ」は犯罪捜査にも大きく影響を与えていた。
「ユア・フォルマ」は利用するユーザーの視覚や聴覚、そして感情までをも記録する。
インターポール電子犯罪捜査局は重大犯罪解決の糸口を見つけるために、この「ユア・フォルマ」の持つ"機憶"にアクセスしてその情報を読み取る権限を有していた。
エチカ・ヒエダは、その"機憶"にアクセスして「ユア・フォルマ」から情報を引き出す捜査官「電索官」の中でも、その能力が頭抜けて優れている、まさに天才捜査官であった。
しかしエチカは、そのあまりの能力ゆえに、しばしば"機憶"にアクセスする補助を行う「補助官」の処理能力を超える負荷をかけ、その脳を焼き切っては病院送りにしていたのだ。
彼女に吊り合うほどの能力を持つ補助官はほとんど存在していなかった。
そんなある日、新しい相棒を病院送りにしたエチカの元に、また新しい相棒が送り込まれてくるという。
その「相棒」に会った彼女は嫌悪感を露わにする。
新しい相棒は――人間と同じ容姿を持ち、表情豊かにふるまう人工知能を持ったヒューマノイド「アミクス・ロボット」だったのだ。
エチカは、この機械が嫌いであった。……というお話。
<感想>
文章は最近のラノベにしては抑制が効いていて落ち着いている。
近ごろのラノベは描写がスカスカであったり、恥ずかしいほど浮ついた文体であったり、奈須きのこをリスペクトしているのか悪凝りした文章であったりと、文章面から既に問題のあるものが目に付く事が多かったのだが、この著者については、そういう浮ついた感じは見られない。
ただ、抑制が効いているというのもラノベとしては損をしている部分もあって、読み易い割には読者を牽引する派手さに欠ける部分がある。
特にこの人はアクションシーンの描写に欠点があるようで、第一章のラストに出てくるカーチェイスについては、描写が簡潔すぎてあまりに迫力不足であった。
本書のラスト、クライマックスのシーンも特に見栄えのするアクションがあるわけではなく、黒幕との心理的な駆け引きがその主な見どころとなっている。
本作は世界を股にかけて飛び回るスケールの大きいSFサスペンスとなってはいるのだが、「物理的な動き」に乏しく、逆に「心理劇」のほうに重きを置いているように見受けられる。
背景描写も乏しい。そのために「世界を股にかけて飛び回るスケールの大きい物語」であるのにも関わらず、どこかそういうスケールが感じられない。その国の景色が「絵」として、浮かび上がってこないのだ。これは、そういう文体なのである。
もしかしたら著者は、少々「絵心」に欠けるきらいがあるのかもしれない。
どういうデザインをしているのか、どういう外観なのか、という描写に乏しく、非常にそっけない。
こういう「描写の貧相さ」は、本作の選考委員であった作家の三上延も指摘していて、選評にて「ただ、主人公の飛びこむ記憶のイメージはもっと豊かだといいと思います」と指摘している(引用元:https://dengekitaisho.jp/archive-comment/27-novel01.html)。
これは、主人公のエチカが捜査対象の人間の脳に埋め込まれている「ユア・フォルマ」に意識を潜り込ませてその"機憶"を捜索するシーンの事を言っているのである。
これはぼくも勿体ないと思っていて、例えば『攻殻機動隊』であったりアニメ映画『パプリカ』であったり、そういう人の精神にダイブするというイメージは過去のSF作品でイヤというほど描かれてきたが、これは人の精神という非現実的なものを自由に「絵」として表現できる、まさに作品の「SF的なイマジネーション」をアピールできる格好のネタであったはずなのだ。
しかし、本作はその部分の「絵」が誠に簡素でつまらない。著者の興味はそこにはないようなのである。
では、著者の関心は那辺にあるのか?
ぼくが思うに、本作は最初から最後まで「主人公であるエチカの心理」に焦点があたっている、と感じるのである。
ラストの「黒幕」との対決の時でさえも、興味の中心は黒幕のほうには当たっていない。
本作の黒幕の動機にはどこか迫力がないのである。
それもそのはず。
本作において発生する事件も、その黒幕の動機も、この黒幕との対決についてさえも、全ては「エチカの心理的な問題を解決するため」にお膳立てされたものでしかない。
本作の主軸をなす、主人公・エチカとその相棒ロボット・ハロルドの「バディもの」という関係性も「エチカの心理的な問題を解決するため」の仕組みであったし、本作のメインとなる事件が解決する事で解決されるものも「エチカの心理的な問題」であった。
本作は最初から最後まで、この固く心を閉ざしたエチカという女性が救済されるための物語であったのだ。
本作は、「心理劇」であった。
だから、本書にSFサスペンスに期待されるようなSF的イマジネーションであったりSF的なアイデアであったり、または派手なアクションシーンであったりというものは、期待するだけ損だと言って良いだろう。
SFとしてはアイデアに全く独創性がなく、ミステリとしては読者の興味を牽引する「謎」に乏しく、ラノベとしては新奇な「ビジュアル」に欠けている。
はっきり言って、前半は全く特徴のないSFミステリが続き、退屈だったほどだ。
思えば、「あらすじ」を見た時から、ぼくはこの物語をどこか「少女マンガっぽい」と思ったものだった。
どこか冷めた目で世の中を見ている、どちらかというとコミュ障な少女エチカ。彼女は心を閉ざしてプライベートで親しく交流する知人など一人もいない、根暗な性格。
そんな少女の相棒として、突如あらわれる社交的な超絶イケメンロボット。彼はほぼ「無償の愛」とさえ思える好意を彼女に示し、エチカから冷たい言葉を投げかけられても諦めずに彼女にグイグイ迫って絆を深めようとしてくる。
そういう、根暗な少女にイケメンが一方的に好意と愛情を示してグイグイと迫り、彼女の固い心を開いていく――という物語構成が、例えば椎名軽穂『君に届け』といった少女マンガの良くある構図を思わせないだろうか。
本作は一見、海外を舞台にしたSFサスペンスという外国映画のような固い装いを持っていながらも、斯様にこの物語の本質は「根暗な少女の心の救済」を見せるための、王道少女マンガのような心理ドラマであったと思う。
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