見出し画像

◆読書日記.《ジグムント・フロイト『エロス論集』》

※本稿は某SNSに2020年4月2~6日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 ジグムント・フロイト『エロス論集』読了。

ジグムント・フロイト『エロス論集』

 精神分析学の祖・フロイトの著作の中から「エロス」にテーマを絞って13の論文を集めた論文集である。

 やはり何と言っても前半の論文「性理論三篇」が本書の半分の分量を占めており、またフロイトのエロス論の総まとめといった性格もある論文であるだけにその存在感が目立つ。

 この論文は、フロイトが精神分析治療を行っている現場で得られた知識をもとに「性倒錯」の分類とその原因がどこにあるのか、を考察している。

 その考察の結論として、人間が生まれてから成人するまでに性欲動がどのような変遷を経て発展していくのか、そのプロセス中に性倒錯の原因が潜むと考えた。

 このような流れで説明するために「第一篇 性的な逸脱」「第二篇 幼児の性愛」「第三篇 思春期における変化」という三篇に分け、それぞれを通して人間が性的な欲動を作り上げていくプロセスと、そのプロセスの異常によっておこる「性倒錯」のプロセスを解説していく内容になっている。

 フロイトの功績のひとつには「幼児にも性欲がある」ということを広く主張したこともあるだろう。
 幼児期に存在していた性欲が様々なプロセスを経て大人の性欲に発展していく。その発展プロセスの途中に何かしらの障害が起こる事が様々な性倒錯や神経症の原因にもなる、と実に構築的な理論を作り上げている。

「幼児にも性欲がある」という主張は多くの人から否定されたようで、そのこともあってフロイト理論は「パンセクシャリズムだ」というレッテルも張られたのだろう。

 フロイトの理論の中では、確かに性理論は重要な位置にあるがフロイトは「それだけ」の人ではない。基本的には臨床医として実際に精神分析治療にあたった精神医だ。
 だから、フロイトの論文は当然の事ながら自分の扱った症例報告をもとにしていたり、その他の学者の理論を引用したりして構築している。

「ああ、そうなんだ」と思ったのが、フロイトが自分の論文にけっこうハヴロック・エリスやクラフト・エビングなんかを引用してる事だ。両者は性について有名な著書のある医師だ。
 ハヴロック・エリスもクラフト・エビングも、フロイトと同じ時期に活躍してたんだな、というのはぼく的にはけっこう驚きだった。なんか、感動的な発見だなあ。自分の知ってる英雄が同時期に活躍してたって事実を発見したかのような。

 で、『性理論三篇』の特徴の一つは性倒錯を「性対象」と「性目標」の二種類の倒錯傾向に分けて考えた事。

「性対象」というのは、性愛の対象の事。これがノーマルな異性ではなく、同性や幼児、家族、動物、物などの特殊な対象に向けられると「倒錯」と考える。

 念のため、これは「倒錯」であって「病的変質」ではない。

「性目標」というのは、性欲によって行われる行為の事。
 この行為の「最終目標」がノーマルな性交ではなく、加虐行為であったり被虐行為であったり、はたまた肛門愛であったり露出行為や窃視行為であったり、という行為となると「性目標倒錯」と見るわけだ。

 この「性対象」と「性目標」は、どうして倒錯するのか。
 その要因を追及していった末にフロイトが辿り着いたのが幼児の性欲から発展していくプロセス中に起こる出来事によって要因が作られるのではないかという事。

 勿論、生物学的な要因や本人の生まれながら素養もあるだろうが、との予想もフロイトは立てている。

 だがフロイトはあくまで精神科医なので、自らの精神分析治療によって得られた情報を駆使してこれらの要因を精神分析医としての立場から考えるのである。

 そこで出てきたのが有名な「口唇期」や「肛門期」といった幼児性欲の発展プロセスだったわけだ。当たり前乍ら、幼児の性欲はまだ「性器」とは関係がない。だから、幼児の性欲は「前性器的性欲」になる。

 この性欲は体の様々な部位に性感帯として散らばっている。それが様々なプロセスを経て最終的に大人になるまでに性器に集中すると正常な「性器的性欲」になる。

「性器的性欲」になるプロセスが何らかの事情で疎外されると、その性欲は性器以外に固着したりする。
 それが例えば「肛門期」に性欲が固着してしまうと、その人にとって肛門愛が重要な性目標となったりするわけだ。

 この理屈は、幼児の性欲が発展していくプロセスと、その疎外によって発生する性倒錯のメカニズムを綺麗に説明していて実に美しい。

 だが、このフロイトの説は基本的には今から約1世紀前の理論なので、現在ではこの説がどのような扱いになっているのか、そして現在の性理論がどこまで発達しているのか、というのも後追いで知りたいところだと思った。

◆◆◆

 その他の12編の論文も、この「性理論三篇」を踏まえて、敷衍したり詳細にしたりして説明している。

 性倒錯については「フェティシズム」や「ナルシシズム入門」などで種別の性倒錯の原因について考察しているし、幼児性愛から思春期への性欲動の変化や発展については「性格と肛門愛」や「欲動転換、特に肛門愛の欲動転換について」「エディプス・コンプレックスの崩壊」等にも詳しく書かれている。

 精神分析という医療分野がフロイト自身が始めて理論構築している最中だったということもあるが、フロイトは結構自分の理論には慎重な所があるようで、はっきりと分からない部分については「今後の研究が待たれる」といった書き方で自分の結論を保留している箇所も多い。フロイトはかなり真面目な性格だったようだ。

 フロイトの理論は「パンセクシャリズム」として批判されることが多いが、これはフロイトがいう所の「性(セックス)」をエロや助平なものと捉えてしまうタイプの、単純な「誤解・勘違い」から来ている批判が多いと言われている。

 フロイトも度々この「性」という概念が、いかに他人からの顰蹙を買ったか繰り返し言及している。

 編者の中村元は、このフロイト理論に対する世間の顰蹙の原因を当時のヨーロッパの性意識の観点から説明している。
「ヴィクトリア朝に代表される当時のヨーロッパの雰囲気においては、性的なものとは口にすることも憚られるようなタブーだったのである」とある。

 当時の西洋の道徳心が、フロイト理論に反感を抱いたのだ。

 だが、フロイトの性理論を「全て精神病の原因を性欲のようなものに還元してしまっている」と考えるのは間違いだ。

 フロイトが「性」とか「エロス」とかいう場合、その概念範囲は通常の「性(セックス)」の考え方よりもかなり広義だ。

 フロイトの言う「エロス」とは「タナトス」と対概念なのである。

 フロイトの性概念は、「他人との関係を結んでいきたい」と願う欲望であり、他人と繋がっていたい、他人から承認されたい、良い関係を築いていきたい、といった「他者へと向かう身体的・精神的な欲望」そのものを「性(セックス)」と捉えていたわけで、性交渉のみの事を言っているわけではないのである。

 要するに、動物などには見られない、あまりに特有すぎる人間の「性倒錯」という性の形態の原因が一体どこからくるのかという疑問を解決するためには、「性」という考えそのものの意味をそこまで広げていかなければ説明できなかったのだ。
 人間以外の動物にはサドやマゾ、フェティシストや同性愛者は基本的にはいないのである。

 人間の精神形成のプロセスの中で何かしら特別なプロセスを経ることで、そのような人間特有の性倒錯が形成される。
 そういった「人間の性」という壮大な謎に挑んで整然とした解釈を付けたのが本書の主論文「性理論三篇」だったと言えるだろう。

 因みに「性倒錯」そのものはいわゆる精神病ではない。

 フロイトが「性倒錯」を研究していたのは、治療を受け持っていた患者を精神分析している間に付随的に得られたものだったともいえるだろう。
 あくまえフロイトにとっての問題は精神病の治療を、精神分析の考え方を適用する事によって行う事にあったのだから。

 フロイト以前では、病気の考え方というのは「物理的な原因がある」と考えられていた。
 だからこそ、精神病についても何かしらの「物理的な原因があるのではないか」と考えられていたのだ。
 それをフロイトは、その要因を精神的なものに求めた。疾患の「意味」を発見する事から精神分析はスタートしたと言ってもいいだろう。

 フロイトはその精神疾患の症状の意味を「性的な要因」に求めた。
 それが、フロイト理論をいわゆる単純な「パンセクシャリズム」と勘違いさせる原因ともなったのだ。

 フロイトの言う「性」は「性交渉」の「性」ではない。他者へ向かう欲望のエネルギーの流れの事であり、そこにある種の神経症の原因があるというわけだ。

 この考え方への反発から、フロイトはブロイア―ともユングとも袂を別ったのである。

 精神分析はある意味では解釈学と言っても良いだろう。
 以前も言ったがこの解釈学は「説明概念を作り出すための仮説」という意味において、治療法としても科学としても正しいと思う。

 このフロイトの性概念は、人間の精神発展史とパラレルな関係にあるからか、この考え方を元にしてフロイトは医療以外の様々な分野に精神分析を転用していくようになる。

 芸術、教育、文化、宗教、戦争等々。精神分析の考え方がそれだけ広範な分野に適用できるのは「エロス」が人間精神の根底に関係しているからなのだろう。


いいなと思ったら応援しよう!