◆読書日記.《ジェラール・ド・ネルヴァル『暁の女王と精霊の王の物語』》
※本稿は某SNSに2021年7月24日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
ジェラール・ド・ネルヴァル『暁の女王と精霊の王の物語』読了。
19世紀フランスの夢と狂気のロマン主義派文学者によるエキゾティシズム溢れる幻想的な物語。
旧約聖書やその他の伝説に出てくるシバの女王と古代イスラエル王ソロモンのエピソードを基にして作られた愛憎劇である。
ソロモンとシバの女王の物語は様々な伝説として残っていて、紀元1世紀の頃の話だろうとされている。
その多くはソロモンにシバの女王が感化せられたり、ソロモンと恋仲になったりするが、本作での両者の関係は愛憎渦巻く敵対関係に近い。
<あらすじ>
時はダビデの子、イスラエルの王ソロモンの治世の頃。
自らの権威と国の繁栄を象徴するべく命じた巨大都市の建設が完成に近づきつつあるとき、ソロモンはその威光を示さんとシバの国より女王のバルキスを呼び寄せる。
シバの女王バルキスは若く、知性にあふれる美女で、彼女は忽ちソロモンの心を虜にしてしまった。
ソロモンはバルキスの前で自らの威光や知恵を見せつける。
バルキスはソロモンの知恵を試すために、彼に三つの謎を問いかけるが、王は事前にシバ人の祭祀から買っておいた解答のおかげで難なく正解を口にする。
だが、バルキスはそういったソロモンの高慢と虚栄心に満ちた側面を見抜いていたのである。
バルキスは王よりもはるかに知恵が回り、ソロモンを手玉に取る。
ソロモンは屈辱に燃え、ますます彼女の魅力に取りつかれてしまう。
だが一方のバルキスは、王に案内された王都にてその建築群や彫刻に心打たれ、感嘆する。
「この彫刻は誰が刻んだのです?」
「大棟梁のアドニラムです」
――バルキスは棟梁に心奪われる。
バルキスとアドニラムは互いに心惹かれあうが、アドニラムはソロモンの配下であり、バルキスはそのソロモンに求婚されている身である。
バルキスはアドニラムの仕事を見たいと希望する。そのためアドニラムは配下の職人たちを集め、銅の海を作ろうとするが、配下に大棟梁の地位を狙う裏切り者が混じっていた。
裏切り者たちの奸計によって、溶けた銅を流し込む作業は失敗する。溶けた銅はたちまちあふれ出し、破裂し、空中に噴出した。
巻き上がる炎と煙と熱風の中、事態をおさめようと奮闘するアドニラムの前に「トバル・カイン」を名乗る幽霊が現れる。
カインの幽霊はアドニラムを地下世界に連れていき、そこで彼のルーツを教える。
そして、アドニラムに「汝のなすべき事を敢行せよ」と説くのであった。
――夢から目覚めたアドニラムは、失敗したかに見えた仕事を完遂するために再び仕事に就く。
一方、シバの女王はソロモンの奸計によって、王との結婚を約束させられてしまうのであった。……というお話。
<感想>
本書はネルヴァルの大長編『東邦紀行』の中の一部分を抜き出して一冊にした長編小説となっている。
ネルヴァルは早熟な才能で、早くからの文壇での活躍による疲労によって精神錯乱の発作に襲われるようになる。
彼は約八か月の療養の後、医者の反対を振り切って長年の夢であった東邦への旅に出かけた。
狂気の発作の中、ネルヴァルの脳裏にはエキゾチックな古代ペルシアと熱帯の自然の幻想が燦然と輝いていたのである。
彼はコンスタンチノープルに到着した。
「何と奇妙な街だ。コンスタンチノープルは、華やかさと惨めさ、涙と悦び。何処よりも気儘に。また放逸に」――彼はこの地で一気呵成のこの恋物語を書きあげた。
ネルヴァルは2歳の頃に母親を亡くしている。
それからというもの、彼は自身の理想の女性イメージを、母親の面影に寄せて聖母マリアや豊穣の女神イシス、シバの女王といった孤高の女性像として作り上げる事となる。
本書で語られる物語も、一見ソロモンが主人公に見えて、その実これはシバの女王の物語だったのかもしれないと思わせられる。
この物語では、終始シバの女王とソロモンは敵対するような関係にある。
そこにソロモン配下の建築家であるアドニラムが入ってシンプルな三角関係となるのである。
しかし、この三角関係は結局、誰の恋も実る事無く終わる。これはある種の三種三様の悲劇なのかもしれない。
しかし、シバの女王まで孤高な存在のままという部分には、もしかしたらネルヴァルの「シバの女王を誰の手にも渡したくない」という密かな願望が隠されていたのではないだろうか。
彼の理想的なイメージの中にあるシバの女王は、何者かと添い遂げ、幸福な人生をまっとうするようなものではなかったのかもしれない。
ネルヴァルの理想としていたイシスもマリアも、彼にとっては「悲しみの聖女」であった。
セトに殺されたオシリスを復活させるために彼の遺体を集める女神イシス。そして、磔刑にされたイエスを見とる聖女マリアである。
シバの女王も「旧約聖書」のストーリーに反して、この物語では結果的に「悲しみの聖女」となるのである。
ネルヴァルは、この物語によってシバの女王を、より彼の理想に添うようなイメージとして作り上げ、彼の脳裏にある東邦幻想の環境の中に組み入れたのであろう。
――この「夢と狂気のロマン主義詩人」の最期は、彼の作品同様、謎と象徴に満ちている。
1855年のある冬の朝、ネルヴァルの首つり死体が見つかる。
英国の詩人アーサー・シモンズによれば、彼の首には、ネルヴァルが東邦より持ち帰ったシバの女王のものと言われる帯紐がかかっていたそうだ。――
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因みに、この角川文庫のリバイバル・コレクションでの『暁の女王と精霊の王の物語』は旧仮名遣いのままで刊行されていて読みにくいかもしれないが、訳者の中村真一郎による「はしがき」の名調子は是非とも見て頂きたい。
この「はしがき」のためだけにこの文庫を買っても良いとさえ思える名文である。