◆評釈.《いま/〇〇/〇〇〇〇〇〇/〇〇〇――若山幸央(『濁青』S43年)》
※本稿は某SNSに2022年1月7日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
今朝、まだ雪をかぶったままの町の姿を窓から見ながら思い浮かべたのがこの俳句であった。
しかし、「俳句」とわざわざ言わないと、まるで詩のような西洋的な響きのあるこの作品を俳句だと認識できないかもしれない。それくらい、気を使ってしまう繊細さだ。
この絶妙な味わいは多行形式でしか味わえないからこそ、タイトルに掲げる部分は「〇〇」と伏字にしてネタバレを避けねばならなかった。
多行書きの俳句というのは昭和の前衛俳句の俳人・高柳重信が提唱・実践したスタイルで、若山はその高柳に師事し、『俳句評論』の同人として自らも師に倣って多行形式を試みた俳人であったという。
しかし、彼の作品集はこの『濁青』のみで、その後俳句からは遠ざかってしまったそうで、そのためにネットを調べてもウィキペディアはおろか、ろくなプロフィールが出てこないのである(参考:https://gold-fish-press.com/archives/9049)。
ぼくとしては多行書きの俳句というのは、通常の俳句と如何ほどの違いがあるのかと、少々疑問ではあったのだが、若山のこの句を通常の俳句と同じように「いま俺を優しく殺す雪の樅」と表記すると、その違いが歴然とするのがお分かりになるであろう。この差は驚異的ですらある。
この作品についても、最初に目にしたのは塚本邦雄による俳句100句の評釈集『百句燦燦』であり、この改行の仕方についても『百句燦燦』に準じて記載している。このように改行すると、俳句というよりかは詩のようなリズム感が出るのが面白い。
俳句の様に十七音で成り立っているものでも、改行がなければ「五七五」のリズムで区切りながら読むか、もしくは句の意味によって句跨りの読み方になる。
だが、この多行形式というのは見ての通り、改行によって自ら望む部分で区切りを入れる事ができ、俳句とはまた違ったリズムを造り出す事ができるのが分かる。
二句と結句との間に一行、空行を開けているというのも『百句燦燦』の表記に準じているのだが、まるで結句の「雪の樅」の一言を前にして一瞬、作者が逡巡して息をのんでいるかのような「ため」となっていて、結句がより強調されている。たかが改行を入れるだけで、これだけの効果を発揮するのである。
内容についても、これが通常「映像的」を良しとすると言われる俳句とは違った、幾分観念的な内容になっている事が分かるであろう。
何しろこの作品の作者である若山は、いままさに「殺されている」最中なのだから。
これが「厳しく殺す」であったり「残酷に殺す」であったりした場合、「雪の樅」は恐怖を伴う殺人者を表す所であろうが、この場合は「優しく」作者に引導を渡す、どこか甘やかな響きを持った死神を思わせ、作者も自らの死を恍惚と受け入れているようにも思える。
作者に引導を渡す凶漢である「雪の樅(モミ)」は、西洋ではクリスマスツリーとして、日本でも信仰の対象としてのオミノキ(臣の木)が転じたとする説があるくらいで、やはりどうしても「聖なる植物」という象徴性を纏っている。
樅のような常緑樹は、植物が死に絶え動物が冬ごもりする「死の季節」である冬場でも、夏と変わらぬ青々とした姿を見せる事から、死の法則に影響されず一年中生命力を称えた「聖なるもの」という意味合いが持たされている文化圏も多い。
このような「聖なるもの」からもたらされる「死」というものが、どれだけ作者を陶然とさせた事であろうか。
無論これは単に、雪深い山中に深く分け入り、疲労困憊の中で見上げた一本の立派な樅木が、雪を頂き陽を受けて耀然と光を放っているのを見て、まるで窒息するかのような美を感じた……という具体的な場面を思い浮かべる事もできるであろう。
しかし、ここまでのスタイルへの拘りを見ると、「雪の樅」もそれ以上の抽象的な観念性をあれこれと想像して堪能したい気持ちが沸いてきてしまう。
例えば、塚本邦雄は、この若山幸央を殺しに来る凶漢をある種の赤江瀑的な芸術観念であると見たように。
『濁青』ひとつで「俳人としてのこの世を去った」若山には、他にも多行書きの作品が幾つか残されている。
この若山の感覚は、かなりぼくの好みである。
「泪壷」や「鹿殺し」といった語彙の選択も好きだし、「こころの常闇に」や「象は溶けつつ」といったシュルレアリスティックで観念的な修辞も良い。
塚本はこの一句に寄せる文章で「私は一度も死んだことのない芸術家を信じない。あまり度度死にすぎる作家も同様である。そのような意味合いでの死を笑殺する詩人がいるなら生涯蔑むだろう」と言っている。
芸術を愛する者であるのならば、そこまで徹底した死の境地まで至りたいと思うのが本物であろう。象徴的に雪を被った樅の前で迎える「死」が、果たして如何ほど甘美なものであったことか。