◆読書日記.《大出晁『日本語と論理 その有効な表現法』》
※本稿は2020年1月11日に呟きの形式で投稿したレビューを日記形式にまとめて加筆修正したものを掲載しています。
大出晁『日本語と論理 その有効な表現法』読了。
本書は論理学・科学哲学がご専門の著者による「日本語における論理」について考える一冊。
何と55年前に出帆された本なのだが、それでもかなり根本的な問題が取り上げられていたので実に勉強になった。
人間は「言葉」によって物事を考える。
絵やスポーツや職人芸などを「学ぶ」だけだったら、言葉は必ずしも必要ではないだろうが、こと「論理」に限っては、言葉がなければ成立しない。
では、日本語で物事を考える我々日本人は、「論理」をどのように捉えているのか?
その謎を、日本語文法から考えるのが本書の内容だ。
個々の内容については後ほど呟こうと思うが、ぼくが本書で全体的に学んだことは、日本の言語感覚には「明確に言い切るよりも、曖昧にして含みを持たせるほうが好ましい」という感覚が存在しているという点。
これは文学的な文章ならば良い効果を出すのだが、物事を明確に伝えねばならないときに厄介な事になる。
本書によれば、著名な言語研究者である金田一春彦氏が『日本語』という著書で「日本人には文と文との関係をはっきりさせない傾向がある」と説明しているという。
また、著者によれば「接続語は、文の間の関連を一定の仕方に押さえてしまうために『含み』のない文章にしてしまいます(本文より)」との事。
続けて「だが、『含みのなさ』が論理から見れば重要なのです」とも言っている。
では、なぜ日本人は「曖昧にして含みを持たせる」のを好むのだろうか。
著者は「日本人が文の接続を表す言葉を使いたがらないのは、角のたたない言い方を好むということに一因があるようです」と説明している。
例えば「ので」「から」「故に」「それ故」「だから」という接続語は、背後の論理関係を明確に提示してしまうので「聞き手に承認を求めている響き」を相手に感じさせるために、それを「押しつけがましさ」と捉える感性があるのだそうだ。
具体的に例文を出して説明してみよう。
著者は金田一春彦氏の『日本語の表現』の例文を引用して「電車が故障しましたから、遅刻しました」という言い方よりも、「電車が故障して、遅刻しました」という言い方のほうが「柔らかくて無難な言い方」だと説明する。
このように日本語は、一部で接続を曖昧にしたがるという感覚があるそうなのだ。
もう一つ、日本語は「わかりきったことはむしろ省略するのがたてまえである」という特徴もあるという。
例えば、「借金するならばF銀行以外にないと考えた私は、早速丸の内本店に行った」という文章も必要とされる全ての「格」を表現したら、煩わしくて読むに堪えないしつこい文章になってしまう。次に示そう。
()内が省略されている「格」となる。
「(私が)借金するならば(借金をするのは)F銀行以外にないと考えた私は、早速(F銀行の)丸の内本店に行った」
……と一文だけで読みづらさがハッキリと増す。
こういった日本語の「分かり切ったことは省略する」性質というのは、後の呟きでも別途説明しよう。
日本語にはこのように「文と文との関連を明確にしない」「『含み』のある文章を好む」「分かり切ったことは省略する」という考え方があるために、しばしば議論や会話が混乱し、そこに「詭弁」の入り込む余地が生まれる。
「詭弁」を見破るには、このような日本語の構造をある程度理解しておく必要はあるだろう。
もちろん、その他にも日本語の文章は様々に曖昧になったり複雑になったりする要素が存在する。
本書ではそれをいちいち整理して説明してくれているのがありがたい。
日本語の構造は「入れ子構造」になっているので、学生時代の現国の授業で出て来る厄介な「係り結びの関係」といったややこしい関係も出て来るのだ。
ぼくは本書を「論理」について考えるために読み始めたのだが、読んでみると案外と、日本語の言語論についての考え方のほうが面白かった。
<日本語の包摂構造について>
本書を読んで面白いと思った事の一つは、言語学の時枝誠記博士の日本語論を引用して、日本の文法構造を「包摂構造」という面から説明している点だった。
時枝理論では、日本語の文法は画像のように、後に来る語が先に出た語の意味をどんどん包み込んでいく構造になっていると説明している。
日本語の文の構造は「詞」と「辞」でなりたつそうだ。それらの関係は「話し手の気持ちをむき出しに伝えるもの(辞)と、一度のその内容が客観化されて和らげられるもの(詞)との区別がある」というのが時枝理論の立場なのだそうだ。
上の例で言えば「梅」「花」「咲く」などが「詞」で、「の」「が」などが「辞」となる。この場合、「梅」の意味を「の」が包み込んでつなぎ、更に「梅の花」の意味を「が」が包んで次の「咲く」につなげる……といったように意味が展開さていく。
つまりは、客観的な語である「詞」を、感情の表される「辞」によって包み込みながら接続していくのが日本語構造なのだ。
そして、日本語に重要なのが文章の一番最後に付く「辞」である「陳述の助動詞」だ。
「陳述の助動詞」というのは、文章の末尾につく「~だ」「~です」「~なのだ」「~である」などの事となる。
これは必ず付いているものだというのが時枝理論にはあって、これによって日本語の文章は否定と肯定を決定づけているという。
それでは例えば、「空を飛ぶ」などというシンプルな文ではどうだろうか。
「空を飛ぶ」の末尾には「辞」が付いていないように見えるが、これは時枝理論では「零記号の辞」と読んで、肯定を表す辞が省略されている。
だから、この一文の場合だと「空を飛ぶ(のである)」という末尾の「肯定の辞」が省略されているという事になるのである。
これは、否定を表していれば「空を飛ば"ない"」と、ハッキリ「陳述の助動詞」を付けなければこの文章の否定/肯定が分からなくなってしまう。
このように日本語は辞によって詞を次々に包んでいき、最終的に文末に付けられる陳述の助動詞(辞)によって最終的な結論がつけられるという構造となっているのだ。
<日本語における述語の重要性>
日本語は主語よりも述語のほうが重要視される言語なのだそうだ。
言語学者の金谷武洋氏の著作にも『日本語に主語はいらない』というそのものズバリな本もあるくらいだ。
日本語の文章は述語を修飾する形で形成されるものが多いそうだ。
例えば、この傾向は会話文になると明確に表れる。
「お~い」
「あん?」
「畑さ手伝えやぁ!」
「いやだ」
「なしてじゃ」
「メンドくせ」
「こっちさ来いやぁ!ぶん殴っでやっがらよ!」
……と言ったように、全く一度も「主語」を出さずとも、やり方によっては述語のやり取りだけで日本語の会話と言うものは成り立ってしまう。
日本語の文法構造では、述語を修飾するために「補語」を付ける「補語+述語」という基本的な文法構造があるそうだ。
これが、日本語がよく「語尾まで聞かないと結論が分からない」と言われる原因の一つとなっている。
これにプラスして、文末に付く陳述の助動詞も「語尾まで聞かないと結論が分からない」一つと言っていいだろう。
「陳述の助動詞」というのは、文章の末尾につく「~だ」「~です」「~なのだ」「~である」などの事。
この陳述の助動詞によって、日本語の文章はその一文の全体の「否定」と「肯定」を決定づけている。
例えば、「彼は私に本をくれ"た"」と「彼は私に本をくれ"なかった"」では語尾の違いだけの事で中身は全くの正反対の意味になる。
日本語で「語尾をにごす」というのが「結論を曖昧にする」という意味になるのはこのためだろう。
それに対して英語は主語ー述語が文頭に来て、結論は文頭でわかるようになっている。
文のメインとなる「主ー述」の後に詳細を説明する語が色々とぶら下がって来るというのが英語の構造なのだそうだ。
英語と日本語では「文章のどこに重要ポイントが示されているのか?」という事がこういった部分に現れているのである。
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