『セッちゃん』
セッちゃん自身がもう限界で、
世界がきっかけを作って
待っていたのかもしれない
『セッちゃん』で一番印象に残っているのはこの部分。
巷の感想をみると、こっち側とあっち側の話を「リバーズ・エッジ」などを引き合いに出しながら語っている。
ただ、若者(自分のことは若者だと信じている)から言えば、そんなことは微塵も考えなかった。考えなかったよ、こう思ったよということをネットの海に流したい。このノートはただ単に感じたことを赴くままに綴る雑感である。
セッちゃんやあっくんのぬるい日常は、自分の生活をゆるりと送っているときの私に重なる。世界に溢れる様々な存在や関わりをスルーし、適当にこなす。そういうものに積極的に関わるのは大人じゃない、ダサいという意識。それが招くのは停滞した日常だ。何も変わらない。何も変えない。変えようとする気力もない。そういうぬるさが作品全体に漂っていると思った。
そのぬるさは気持ち悪く、心地よい。
そして気持ち悪さが勝つとき(それは決まって疲れていたり微睡んでいたりする夜と朝だが)、この世界から消えたいと思う。自ら変える勇気はないので、世界が私を殺してくれるのを待っている。
私は世界のきっかけをずっと待っている。
大島智子『セッちゃん』小学館、2018年