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【ものの人類学】植物は生きているのか?

 前回の記事では、植物や庭いじりをきっかけに集まるコミュニティ、庭くらぶについて紹介をしました。

 庭くらぶとは、福井市のつながるベースという複合施設(クリニック・カフェ・ジム)の庭スペースを拠点に、苗を植えたり、雑草をとったり、おしゃべりしたり、ゆるく活動している集まりです。植物の扱い方を全く知らない私たち素人で立ち上げ、植物の育て方や土壌、などなどを、まちの人にに教えていただきながら、ときには植物をお裾分けしていただいたこともありました。
 庭くらぶは誰でも、どんな関わり方でもOKのスタンスなので、さまざまなきっかけにまちの人と出会ってきました。外来に来ていたときにスタッフから誘われた方、カフェに来ていてスタッフと喋っている時に知った方、訪問診療のときにたまたま話をしていたときに知った方、庭くらぶの作業をしているときにちょうど散歩をしていて通りがかって知った方、庭くらぶに来ている友達に誘われて知った方、、、 そして、何かのきっかけに持ち運び込まれてくる植物たち、そして人間も偶然の出会いから庭くらぶとつながり、友人を誘っていただいたり、友達ができたり、広がっています。

植物と人間が常に入り乱れる庭くらぶで、こんな出来事がありました。

ある時の話

日光にあまり当ててはいけない植物をいただいた時、それを知らずに、日光が当たる場所に置いてしまっていました。それを見たお裾分けしていただいた方からお叱りを受けたことがあります。

その人にとって、その植物はただの もの ではなかった。大切に愛着を持って育てていたものだったのでしょう。

それとも、自分と共に生きてきたものをお裾分け(嫁入り?)したら、その先で苦しめられたという世界観だろうか。

そうなってくるとそもそも、植物はものなのか?呼吸して光合成をしている点で生き物?なのかよくわからなくなってきます。

そこでこんな本を読みました。

 ものと人がどのように相互に関わり合っているか?という問いを明らかにする本。ものに囲まれているけど、あえて意味を考えたり、価値をかんがえたり、いつもそれを意識しているわけではない。従来:人=主体、もの=客体。人によって生産され、使用消費される側面が注目され、当該社会の社会関係、文化的象徴的システムのトークンや反映として扱われてきた。生命を備えた生物であったても、心なき物体であるかのように、一種の精巧に作られた自動機械の一種として把握される。人間と人間以外のものに対する、境界は揺らぐことはない。
 しかし、ものと人の間に起こる相互作用の実態を長期にわたって追うと。従属的で従順な客体であることを止める事態が少なからずある。人の管理・操作、思惑に抗い、そこから逃れてゆく卸難さをあらわにする。ものたちがそれ自体に孕む能動性、主体性、のっぴきならない力やポテンシャルに注目し、ものと人の関わり合いを正統に評価する道を探す態度。

養殖真珠をめぐって、人間ともの(貝)の例が挙げられていました。

 真珠養殖には、養殖工程における技術的な熟練が必要なだけでなく、生態的環境の変化が養殖の成功に大きな影響を及ぼす。熟練の真珠職人でも思った通りのものを毎年作ることは難しいという。さらに、真珠養殖に関わる技術者、組合員が集まり、真珠の生産を真珠貝に感謝し、供養する意味合いをもつ「真珠貝供養祭」を毎年全国で行われているそうです。

 生き物である貝の状態を人間と同様の身体感覚を備えた存在として把握し、対処する態度が認められる。人はものを管理支配統御するのではなく、ものに対して感謝、慰霊、懇願するような態度が特徴的。真珠貝を人間の思惑や技術では統御しきれない、独自の感覚や能動性を備えた主体とみなすような語り。統御モデルから、人とものの関係を広義の対話・交渉によって捉えるモデル。これが要請されるのは、絶えず微動に振動し、揺れ動く自然の不安定さと卸し難さが存在するからである。

 庭くらぶにおける植物を捉えてみると、植物というものは人間によって管理されるものではなく、誰かに受け渡し可能であるという物性をもち、渡し手の、思いや感情と共に、持ち運ばれてくるものではないでしょうか。

客観的に見れば、生命や心を持たないはずの人工物が、当事者との関わりを通して、単なる不活性の物体(客体)ではなく、場合によってはエージェンシーや「知性」「こころ」の要素さえ備えた行為者として立ち現れる現象。

植物にも生があり、苦悩があり、死があるのではないかと思いました。

 人間と同じように、植物も生きているのであれば、苦悩を抱えるときもあり、死(枯れる)がある。冬は雪にさらされ、夏には日光にさらされて元気がなくなり萎れている姿は、まるで苦悩を抱えているようです。そのような植物を目の前にした時、人間の感情が動かされ、人間同士で相談し対処法を模索していきます。周りの植物、土壌環境、季節、そしてこれまでの経験から人間が身につけた知恵を統合して、水をどの頻度でどれだけいるのかを考える。その時間は、人間と植物・自然が対話をしているようにも感じます。植物によって人間の行動が引き起こされ、協働し、より良い未来を創造しようとする。植物も人間と同様に主体性を持ち合わせているかのようです。

植物も生きている ーそして、死があるから葛藤する

 今回の庭くらぶでの出来事は、人間の、もの(植物)への愛着、愛していたからこそ、植物の悲鳴のような主体的に働きかけに対し、持ち主は葛藤したのかもしれません。そしてその葛藤に戸惑う私たち。

ものも生きている。だからこそ、死や喪失がある。

ものと人の境界が揺らいだ瞬間が、今回の出来事だったのではないでしょうか。

人間も自分の大切な人が亡くなった時、葛藤、後悔をする。そしてそれを誰かのせいにしたりすることもあるでしょう。

人もものも生きているということは死があるということ。生きていると、自然のどうしようもなさに打ちひしがれることもあるし、死や喪失の普遍性にあえて目を向けることは少ないかもしれない。

死・喪失において、ものと人間の間にもきっと何かつながりがあると思えてきます。

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