【全史】第8章 かみ合わない歯車/1975(昭和50)年
(1)崩壊した投手陣と期待外れの助っ人
V2を目指すキャンプは賑やかだった。2月1日からスタートした鹿児島・鴨池球場にはこれまで以上のファンとともに、取材に訪れたマスコミも例年以上の多さだった。カネやんはオフに渡米。自身の400勝の記念ボールが米野球殿堂に展示される式典に参加した。その時、現在でもメジャー記録として残る56試合連続安打を記録したジョー・ディマジオ氏に鹿児島での臨時コーチを依頼し、快諾を得ていた。
7日、ディマジオはサンフランシスコ・ジャイアンツの若手メジャーリーガーキングマンと来日。鹿児島キャンプに帯同した。キャンプでは有藤通世、山崎裕之、弘田澄男らのバッティングを見て、指導する場面が見られた。また、まだ粗削りだったキングマンのフリーバッティングでは、その飛距離に全員が驚いた。
開幕は4月5日、宮城での南海3連戦だった。5日の初戦は20,000人、6日のダブルヘッダーは16,000人。多くの仙台市民がスコアボードにはためくチャンピオンフラッグを見に集まった。
開幕投手はプロ入り初の開幕投手に指名された村田。その村田が8回を2失点。打線も7回に逆転に成功。最後は木樽が締めて、前年の投打がかみ合った試合を開幕ゲームで見せた。翌6日のダブルヘッダー第1試合は零封負けを喫したものの、第2試合は9得点、12安打と打ち勝ち、2勝1敗と勝ち越す、まずまずのスタートを切った。
ところが、この後、なかなか勝ち越せない。5球団と一巡対戦が終わったが、10試合を消化して5勝5敗だった。
18日からは川崎球場で日本ハム4連戦。私はようやく20日のダブルヘッダーに今シーズン初観戦することになった。1勝1分で迎えた20日、ウキウキして川崎球場へ。ところが第1試合では村田が打たれ、第2試合では三井が打たれ見事に連敗。肩を落として帰路についた。気になったのはファンサービス。ロッテのお菓子は変わらずプレゼントされたが、昨シーズンまであった選手のシール、メンコ、カードなどのグッズが無くなっていたことは残念だった。
チームは6勝7敗と黒星が先行した。
翌21日、カネやんにアクシデントが起きる。軽い心臓発作を起こし、チームから離れて一週間療養することになった。高木公男二軍監督が代理を務めた。この間の近鉄3連戦(宮城)を2勝1分と再び勝率を5割に戻すが、カネやんが復帰した途端4連敗、1つ勝って連敗と波に乗れない。
ところが上位チームも一時阪急が飛び出す気配を見せたものの再び5割ペースで飛び出せない。オリオンズは5月13日からの南海3連戦(後楽園)に3連勝、続く近鉄2連戦(日生)に連勝して、今シーズン初の5連勝をマーク。勝率を5割に戻し、首位阪急に3ゲーム差と上位の混戦に食い込んだ。
しかし、期待を持たせたのもここまでだった。この後も5割を割り込むところをウロウロ。この間に阪急が一気に飛び出し独走状態に入ると、一気に突き放された。
カネやんが苦悩したのは投手陣だった。前年МVPで最多勝の金田留が勝てない。調子も悪かったが、好投すれば打線の援護が無く、打線が援護すれば打ち込まれるという悪循環。結局、前期は勝ち星なしに終わった。その他、成田は5勝3敗とまずまずだったが、木樽が3勝7敗、村田が7勝9敗と黒星が先行した。ただ、明るい材料もあった。左腕水谷が先発と中継ぎにフル回転。前期だけで自己最多となる7勝(3敗)を挙げた。
もう一つ、カネやんを悩ませたのは、新助っ人の存在だった。オフの渡米中に自ら見つけ、連れて来たジミー・ロザリオ外野手だったが、開幕から振るわず24試合で打率.207、特に期待された本塁打が全く出ず、5月11日には自由契約となった。
また、前年日本一に貢献したラフィーバーも5月30日の太平洋戦(川崎)でパ・リーグ初の1試合左右両打席本塁打を記録(この試合は私にとって思い出の試合。詳細は次項)するなど、9本塁打を放っていたが、打率は.258と低迷。この年は打撃コーチ兼任だったが、外国人枠(2人しか契約が出来なかった)とラフィーバー自身も「体力の限界」を口にしたことから、6月1日の太平洋戦(川崎)を最後にコーチに専任することになった。
代わりに入団したのが、ビル・マクナルティ外野手とラファエル・バチスタ内野手だった。2人揃って6月3日の南海戦(大阪)でスタメンに名前を連ねると、三番に座ったバチスタが初打席にホームランを放って期待を抱かせた。
しかし、以降は期待に応えられない。両助っ人は前期を終了した時点でマクナルティが打率.172、4本塁打、バチスタが打率.167、3本塁打と低迷。チームも優勝の可能性が無くなると、6月下旬には6連敗して一気に転落。7月1日に終了した前期は2シーズン制となって5シーズン目で初の最下位に終わった。
1週間後には後期が開幕するが、明るい話題も少なく、重い雰囲気で後期を迎えることになった。
(2)川崎球場のマウンドで「始球式登板」
チームがなかなか波に乗り切れない5月26日の夕方、自宅に1本の電話が入った。母が出ると相手はオリオンズ球団からだった。
「始球式の抽選に当たりました。30日ですが可能ですか?」
母はその場で快諾。家族3人で行きますと答えた。それを伝え聞いた私は、公園で友だちと早速「練習」に入った。ただ、選ばれたのは二人。一人は投手役で一人は捕手役。どのように決めるのかは、当日にならないと分からなかった。
5月30日、父が学校の校門の前に車で出迎え、川崎球場に向かった。5時30分に選手入口が集合場所だった。そこで球団の職員さんともう一人の子と落ちあい、球団事務所へ向かう。まず「ジャンケン」で投手役と捕手役を決めることになった。そして「ジャンケンポン」。何を出したか覚えていないが、見事に勝って投手役をゲットした。本当は飛び上がって喜びたかったが、相手の子に悪いので、ぐっと喜びを押さえた。
ユニホームに着替える。投手役は背番号34、捕手役は背番号28。「ありえないバッテリーだな」などと考えつつ、時間まで事務所で休憩する。
そこでハッと気がついた。川崎球場に来る途中、父の知人のところに寄ったので革靴だったのだ。運動靴が車にあるのを思い出す。球団の方に事情を説明。すると「ああ、その靴で大丈夫大丈夫。黒いからスパイクに見えるよ」と一言。いや、ちょっとヒールが高いんですが、とも言えず、結局ユニホームに革靴というスタイルでマウンドに上がることになった。
いよいよグラウンドへ。グラウンドではオリオンズのシートノック中。記者席でしばし待機。すると、知人の記者さんが「お父さんに頼まれて、うちのカメラマンが写真撮るからしっかり投げろよ」と。
「えっ?プロのカメラマンさんが撮ってくれるの?」緊張感がさらに上がる。
太平洋のシートノックが終わりグラウンドへ。すると顔見知りの飯塚佳寛内野手が「さっきお父さんに会ったら始球式するって聞いたから」と登場。その場で私と捕手役の二人を相手にキャッチボール開始。目の前でカネやんもニコニコして見ている。
さて、マウンドに向かうのだが、正直、頭が真っ白になってあまり覚えていない。ただ、木樽が「もう少し前で良いよ」と言ってくれて、プレートの少し前から投げたことと、打席に立ってくれたマティ・アルーが思ったよりも小柄だったことくらいしか頭に残っていない。
この試合はもう一つ記憶に残ることが起きた試合でもあった。スイッチヒッターの助っ人ラフィーバーが1回の第1打席で東尾修から左打席で6号、4回に安木祥二から右打席で7号を放ち、1試合左右両打席でホームランを放った。当時はスイッチヒッターは珍しく、この試合の2週間前の17日に広島のリッチー・シェーンが記録していたが、それが日本球界初だった。ラフィーバーは2週間遅れで日本球界2人目、パ・リーグでは初の記録だった。ラフィーバーはドジャース時代の1966(昭和41)年5月7日にもメジャーで記録しており、初の日米での記録者となった。
後年『千葉ロッテマリーンズ球団50年史』が発行された際、「外国人選手列伝」の中の「ジム・ラフィーバー」の紹介記事の中で、この記録が記述されており「この試合で始球式をした」と周囲に自慢した。
(3)乱入でつぶれた「的当て競争」
さて、無事始球式を済ませた翌々日、念願だった、もう一つの先着企画である「的当て競争」に友だちと挑むことになった。前年、同じ先着企画の「選手と写真撮影」は参加出来たが、こちらはチャンスがなかった。
前年、開門時間の1時間ほど前に並んでギリギリだったので、友だちと自宅の最寄り駅に午前7時30分に待ち合わせ。開門の2時間前に並ぶことにした。
無事予定の8時30分過ぎに川崎球場に到着。しかし、誰もいない。友だちは「本当に今日川崎でやるのか?」と不安そうな表情。「一昨日始球式やってるんだから」と言ったものの、あまりの静けさに私も不安になる。とりあえず、改札ゲートに並ぶ。もちろん先頭だ。しばらくすると、小学生の子どもとお父さんが並んだ。写真撮影狙いだそうだ。去年経験したことを伝えると、お父さんは「じゃあ大丈夫だな」とホッとしていた。
しばらくすると30人ほどの列になっていた。列を見て帰る人もいた。10時30分の開門時には、列は相当の長さになっていた。この日は入場者が2万人を超える、川崎球場では今シーズン一番の入りだった。
実は、この日に「的当て競争」の狙いを定めたのには理由があった。この日がダブルヘッダーだったからである。シングルゲームの時は試合後に実施されるのだが、ダブルヘッダーの時は第1試合と第2試合のインターバル時に実施される。第1試合と第2試合の間のグラウンドに立ってみたかったのである。
10時30分の開門と同時に申し込み場所へ走り、無事友だちとともに参加資格を得た。第1試合の7回終了時に集合場所へ集まる様に指示があった。
午後1時試合開始。前述のとおり、この日の観客は22,000人(第2試合の発表は23,000人)。A指定席はガラガラだったが、内野自由席と外野席は埋まっていた。
7回表が終わった時に集合場所へ。一昨日、始球式の時、誘導してくれた方が担当だった。「今日は的当てか」と笑われた。しばらくして球場内へ。試合終了まで、この日は記者控え室で待機した。
そして、試合終了と同時にベンチ横の通路へ。選手は一旦ロッカーに引き上げる。そのタイミングを見てグラウンドへ出た。
「的当て競争」はマウンドに立てられた、ロッテのチョコレートを掲げたカネやんの的めがけてボールをホームベース少し前から投げる競技だ。私がトップバッターだった。
ところが、ダブルヘッダーだったことが、とんでもない悲劇だった。グラウンドで説明を受けているその時だった。数人の子どもが内野席から飛び出して来た。それが合図かのように、一塁、三塁、外野各席から一斉にグランドに飛び出し、あっという間に、グランドが子供で埋まった。もう私たちももみくちゃである。私は帽子を取られた。
試合終了後ではない。ダブルヘッダーの試合と試合のインターバルである。グランド整備をしていた係員も一時引き上げ、係員が子どもたちを排除した。
結局、的当ては中止となり、大分遅れて第2試合が始まった。結局、参加賞のお菓子をもらい解散。帽子を取られたことを話すと、後日、送ってもらえることになった。
試合終了後にお客さんがグランドに出てくることはあるが、ダブルヘッダーの間に出てきたのは、前代未聞の出来事だったと、翌日の新聞に載っていた。
第1試合ではガラガラだったA指定席が、第2試合では子どもたちで埋まったことは言うまでもない。
さて、この頃、お菓子をプレゼントされる機会が多かったが、どうも私はキャンディーの「小梅」のイメージが強く残っている。もちろん、色々な商品をプレゼントされたが、必ず「小梅」入っていた。「小梅」単独でのプレゼントもあったように記憶している。後年、聞いたところ、「小梅」は1974(昭和49)年に発売された商品で、一番宣伝に力を入れていたそうだ。私の記憶もあながち間違っていなかった。
(4)後期もかみ合わないまま終了
後期は7月8日、西宮での阪急戦で開幕した。開幕戦は木樽が先発。その木樽が6回途中まで2失点と好投するも、打線は山崎の一発に封じ込まれて黒星発進となったが、翌日からスタートダッシュを決める。翌9日に成田、木樽の完封リレーで後期初勝利を挙げると、雨天中止の後、13日の太平洋ダブルヘッダーに連勝、続く日本ハム戦も2勝1敗と勝ち越し。阪急とともに頭一つ飛び出し、オールスター期間に入った。
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