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【全史】第5章 東京球場のロッテオリオンズ/1971(昭和46)年~1972(昭和47)年)


(1)1971(昭和46)年 スコアボードが止まった

東京球場のスコアボード

 永田雅一は、リーグ優勝を置き土産に、矢折れ力尽きた。5年間の約束の「名義貸し」だったが、2年で永田は球団経営からの撤退を決意した。永田は重光に球団を引き受けてくれる様、哀願した。
 重光は黙って引き受けた。永田の気持ちを慮っての重光の決断だったが、経営上の判断もあったと思われる。実際に2年間球団を持ち効果を感じていたはずだ。宣伝広告費から換算すると、格安の買物だったはずだ。毎日大映球団の累積赤字12億円(すでに半分は融資済み)の肩代わりと年間1億円の運営費。当時、ゴールデンタイムの30分番組を1年間提供すると5億以上はかかっていたからだ。
 永田はさすがにホッとした様子で「資本の肩代わりであって、これでまったく私はオリオンズと赤の他人になるのではない。できればロッテに全面的にやってほしい。赤の他人に渡すことだけは絶対にしたくなかった」と話した。「身売り」ではなく「肩代わり」と表現したことは「必ず戻って来る」という強い気持ちがあった。しかし、永田が再び球界に戻ってくることは無かった。

 ただ、重光は永田の紡いできた球団への歴史と気持ちを尊重し、その後「株式会社ロッテオリオンズ」の取締役として、永田雅一の名前を残していたことは、ほとんど知られていない。

1981(昭和56)年の「株式会社ロッテオリオンズ球団の役員」 永田雅一の名前がある

 球団名は変わらないものの、ロッテオリオンズ球団として新しいスタートを切った1971(昭和46)年、開幕前に驚きのニュースが発表された。この年に開局するUHF局「千葉テレビ」が東京球場のロッテ戦を全試合中継するというニュースだった。ただ、当時はいわゆるVHFが主体。千葉テレビは千葉県内の放送局であり、横浜ではUHFという名称自体聞いたこともなかった(テレビ神奈川が放送を開始するのは翌72(S47)年だった)。
 そこで、父が知人の電気屋に相談。電気屋にもなかった「UHFアンテナ」を取り寄せて、実験することとなった。設置して「ザラザラ」ながら画面と、雑音が入るものの音声も拾えることを確認。我が家では、この年は「ザラザラ画面の野球中継」を見入ることになった。
 ただ、千葉テレビの中継はこの年限りで終了した。

 さて、前年、圧勝してリーグ優勝を飾っていただけに、オリオンズの前評判も高かった。特に前年6月に加入した、セ・リーグで2度の首位打者を獲得した江藤慎一が、フルシーズン働けるからだ。

 ところが、開幕からどうにも波に乗り切れない。第2戦に先発した小山正明が3連勝と好投したものの、開幕投手の木樽正明が2勝3敗と負けが先攻するなど、4月は7勝7敗1分スタートとなった。5月に入った最初の3連戦は本拠地・東京球場での東映フライヤーズ3連戦。1、2戦と江藤が連続サヨナラ打を放ち1点差で連勝、東映は9連敗。一気に波に乗るかと思われた。
 5月3日は祝日。ゴールデンウィーク唯一の東京球場での3連戦だ。もちろん、父と観戦に出かけた。まさか、ド派手な本塁打記録を目撃することになるとは知らずに…。

 試合は終始ロッテ優勢で進んだ。4回裏に若手の得津高宏の3ランで3点を先制。6回裏には2試合連続サヨナラ打の江藤が2号ソロ、8回裏にはまたまた江藤の3号2ランで2点を追加。8回を終えて6-1とリード。試合の内容ははっきり覚えていないが、多分、左うちわで見ていたに違いない。
 ところが、8回まで東映打線を1点に抑えていた先発の池田重喜が捕まる。1死から大杉にソロを許し2-6。クルスチャンに三塁線を破られるも二塁で憤死させ2死。この後、ヒットと四球でピンチを招き2死1、2塁。ここで、八木沢壮六がマウンドに上がる。八木沢は代打の末永を遊ゴロに打ち取るも、遊撃・広瀬宰が二塁にトスしたボールを二塁・山崎裕之がまさかの落球。2死満塁とピンチが続く。代打・今井務にレフト前へ2点タイムリー。2死1、2塁から大下にセンター前へタイムリーを許し、5-6と1点差に迫られる。2死1、2塁から、大橋は遊ゴロ。今度こそ試合終了と思われたが、広瀬が間に合わない二塁へ送球しオールセーフ。この間に、三塁に到達していた二塁走者の代走・佐野が本塁突入。山崎が捕手・醍醐猛夫に送球。佐野は、慌てて三塁へ戻るが、醍醐からの送球が佐野の頭に当たり、ボールは大きく三塁ファウルグランドに転々。その間に佐野がホームインして6-6の同点に追いつかれた。この回、一挙5点を失ったが、池田の自責点は大杉ソロの1点。八木沢は0点だった。

 そして10回表に悲劇が起こった。2死満塁から守備固めで入っていた作道烝がグランドスラムを放つ。6-10となり試合は決まった。10連敗を逃れたかった東映打線の意地だったのだろう。しかし、そこからド派手な連続本塁打だ。大下剛史、大橋穣、さらに張本勲がレフトスタンド叩き込む4連続本塁打。当時の大洋ホエールズの日本記録に並ぶ。そして、大杉勝男が同じくレフトスタンドへ放り込み、5者連続本塁打の日本記録が完成した。1イニング5本塁打も当時のプロ野球新記録だった。ちなみに、1イニング「連続」5本塁打は現在でも日本記録である。試合は一挙8点を失い6-14とリードされた。
 マスクを被っていた醍醐は後年「そのうち1、2本は東京スタジアム以外なら入っていないだろう」と話した。球場の狭さが生んだ悲劇だった。

 実はこのシーンは鮮明に覚えている。満塁弾を許したところで、父が「帰ろう」と言い出した。相当怒り心頭だった。そして、立ち上がって帰ろうとしたところで3連続本塁打が飛び出した。だから、この場面は、スタンド上部で立ったまま見ていた。「何だ、何だ」という感じだった。父も横で苦笑していた。
 そして、何より覚えているのは、東京球場のスコアボードの10回表が「5」で止まってしまったのだ。東京球場のスコアボードは昔の電車やバスの方向幕のように下から数字が上がり、0~1~2と点が表示されるのだが、5までしかなかったのだった。

 結局、立ったまま最後まで観戦。10回裏に江藤の2ランが飛び出し、江藤の3打席連続本塁打を目撃したのだが、東映の5打席連続本塁打に圧倒された一日となった。
 ちなみに10回裏に江藤の一発が飛び出し、両チーム合わせて1イニング6本塁打も日本記録だった。

 帰りがけ、さすがに父も「東映のホームラン、凄かったな」と話していたが、私も嬉しい気持ちが強かった。何せ、人生で初めて「日本記録」を東京球場で目撃したのだから。連休明け、学校に新聞を持って行き、友人に目撃談を一生懸命説明したことを覚えている。

(2)1971(昭和46)年 新生ロッテの船出も「放棄試合」で一転…

抗議する濃人渉監督(中央)と矢頭高雄コーチ(55)、右は江藤慎一

5月3日に9回2死から5点差を追いつかれ、延長10回に5連発を食らうという歴史的屈辱を味わった我がオリオンズだったが、逆にこれで目が覚めたのか、一転、白星を重ねる。9日のダブルヘッダー2試合目に勝利すると4連勝、一つ負けて、15日から1分けを挟み7月2日まで10連勝を飾る。 しかし、好調の阪急ブレーブスもオリオンズと同じペースで突っ走る。オリオンズは6月に入り、勝ち越したものの14勝10敗とペースを落とす。阪急は好調さを維持し、6月末でその差は6.5ゲーム差と広がった。3位の近鉄バファローズには10ゲーム以上の大差をつけ、パ・リーグは早くも阪急とロッテの一騎打ちの様相を呈してきた。
 オリオンズは打線が好調だった。特に期待の江藤が、力の衰えを隠せなくなった榎本喜八に代わり、4番一塁に座り3割5分を超える打率で打線を引っ張っていた。投手陣が踏ん張り、守り勝つ野球を展開している阪急とは対照的だった。
 オリオンズも7月に入ると8勝2敗と持ち直し、5ゲーム差で阪急との序盤の天王山を迎えた。オールスタ休みの1週間を挟んで、前半戦最後は西宮球場での3連戦だった、後半戦スタートは東京球場の2連戦、オールスターを挟み、阪急との5連戦が組まれていた。

7月13日の初戦だった。阪急に先行されたもののアルトマンの23号ソロで追いつく。しかし、先発の成田が踏ん張れず、5回に1点を失い再びリードを許すと6回には2点を失い、1-4とリードされ、7回表を迎えた。ロペスが倒れた1死から打席には4番の江藤が入った。カウント1ボール2ストライクからの4球目。阪急先発・足立光宏のスライダーに江藤のバットが動いた。微妙なところでバットは止まった。砂川忠源球審の判定は「ボール」。しかし、阪急岡村浩二捕手の「バットが回っている」という抗議に「ストライク、バッターアウト」と判定が変わった。
 この判定にオリオンズが怒った。まず、三塁コーチの矢頭高雄が砂川球審に対当たりした。真横から見ていただけに、バットは止まったと確信していた。しかし、砂川球審は矢頭に「退場」のコール。これがオリオンズベンチの火に油を注いだ。濃人監督と砂川球審がホーム付近で激しくやり合う。江藤もバットも持って「止まっている」とアピール。このやり取りに、普段は大人しいと言われている西宮球場のスタンドのファンが過熱。グラウンドに飛び出したファンが江藤に飛びかかる。江藤も殴り返す。ファンはベンチ上に集まり怒号を飛ばす。首位決戦ということで、この試合は21,000人と1階席はほぼ満員の状態だった。

濃人監督はベンチに引き上げる。今度は、審判団が興奮しているオリオンズベンチをなだめ始める。ネット裏で観戦していた武田一義代表もベンチに入り、審判団とやり合った。

この試合、NHKがラジオ中継をしていて、私も父とラジオを聞いていた。しかし、小学3年生である。いくら野球好きとはいえ、事態が全くつかめない。「江藤はバットを振ってないのになあ…」と父は言うがラジオである。「そんなの見える訳ないじゃん」と最初は軽い気持ちで聞いていたが、そのうち父が「大変なことになるかもな」と言い出した。色々と聞く私に細かく説明してくれていたが、そのうち「黙ってろ」と怒られた。この時、ただならぬ事態になっていることを子ども心に感じたことを覚えている。

この武田代表がベンチに入った時、ネット裏で試合を見ていた中村長芳オーナーの「伝言」を持って来ていた。
「審判が判定を覆さない限り、試合の再開に応じなくても良い」
放棄試合やむなしの「オーナー裁定」だった。
 試合が中断したのは午後8時33分。30分が経過した。審判団は「後日提訴を条件に試合再開を」と説得したがオリオンズ側は受け入れない。審判団は「没収試合」の言葉を持ち出した。

そして午後9時8分。阪急ナインが守備位置に着く。オリオンズベンチから次打者であるアルトマンは出てこない。砂川球審が「プレーボール」をコール。バッターがいない打席に足立がボールを投げる。砂川球審は「フォーフィッテッドゲーム」を宣告した。プロ野球史上10度目、審判の判定を不服としたものは4度目となる放棄試合となった。記録は0-9でロッテの敗戦である。
 オリオンズも急ブレーキ。翌日は小山正明の好投で勝利したものの、翌々日は黒星。オールスター明け、東京球場での2連戦は連敗。5連戦は1勝4敗と阪急に突き放されてしまう。

球団首脳が大慌てとなるのは、この事後処理だった。球界では「試合を放棄してはならぬ」という不文律が出来ていた。
 当日の試合後は「砂川君は終始一貫、ロッテに不利な判定を下していた。あまりにひどすぎた。ファンには申し訳ないが、筋を通すことがしかるべき道であるこると思った」と発言していたが、翌日の新聞が「ファン無視の自殺行為」(朝日新聞)「首位攻防戦に汚点」(報知新聞)など、ロッテ批判が並んだことで、翌朝、興奮冷めた中村オーナーが一転して謝罪した。「やむにやまれぬ気持ちで行われた行為だったが、ファンに心からお詫びする。全ては私の責任」と陳謝した。しかし、ロッテ批判は収まらなかった。
 特に、球界内では「説得すべき立場のオーナーと代表が現場にいて、一緒に興奮してどうする」と、フロントに疑問を呈した。「永田さんだったら、監督を説得して試合を続けさせただろう」という声まで上がった。

21日、リーグの裁定委員会から出された発表は重かった。
1)ロッテ球団に対して制裁金200万円を科す。試合放棄に伴い主催球団に与えた損害は一切ロッテ球団が補填すること(当日、ロッテ球団が使用したバスの破損及び用具紛失等に関する損害はロッテ球団の負担とする)。
2)ロッテ・濃人監督に制裁金15万円を科す。
 「裁定書」には厳しい言葉が並んだ。
「責任は全てロッテ球団にある」
「試合を放棄し、球場を混乱させファンに迷惑をかけた」
「プロ野球の信頼を傷つけた」
ロッテ側への庇護は一切なかった。
 結局、「制裁金・200万円」「バスの破損及び用具紛失等に関する損害・299万1366円」そして、金額は明らかにされていないが、没収試合となったため、阪急は払戻しをするため、入場料の弁済金も発生した(すでに試合終盤だったため、多くのファンは入場券を所持していなかったと思われるが数百万円はあったと思われる)。総計で1千万円近くなるとも言われた。当時の月平均生活費が8万円と言われていた時代。今ならば2倍くらいの換算になるだろうか。あまりにも、大きな負担となってしまった。

そして、事はこれだけでは収まらなかった。後半戦スタートとなった阪急との2連戦で連敗した試合終了後、球団は濃人監督の交代を発表した。中村オーナーは「濃人監督を二軍に降格し、大沢啓二二軍監督を昇格させ、24日から指揮を執ってもらう」と発表した。後の「大沢親分」の登場である。39歳の青年監督の誕生だった。

(3)1971(昭和46)年 東京球場とカップヌードル

 薄っすらと覚えている東京球場の思い出の中で、今でも強烈な印象を持った出来事がある。

 ある試合、試合も中盤に差しかかった頃だっただろうか、ふと、後ろのスタンドを見上げると子どもたちが、下を向いて、何かを飲んでいる風景が目に飛び込んできた。
 当時の東京球場では、ジュース類は三角パックの牛乳が売れ筋だったし、地元の子ども同士で来ている小学生たちは(胸に学校の名札を付けていたので地元の小学生だとわかる)普段、水筒を首からぶら下げている子が多かったのでコップに入っているジュースを飲む子どもはほとんどいなく、不思議な光景に見えた。
 かく言う我が家も両親が一緒であるが、おにぎりを持参し、三角パックのコーヒー牛乳を買うのが観戦スタイル。大人たちも球場近くの酒屋で購入したワンカップを持ちこむ人が多くビールを飲む人も少なかったので、紙コップを手にしている風景が不思議だったのかもしれない。

 横にいた母親にトイレに行くと言って席を立って、その子どもたちを見ると左手のコップは一瞬ビールと見間違えるほど大きなカップだった。
 ますます中身が何か知りたい。もう少し近づいて私はあっけにとられた。
 「箸だ!!」
 なんと、彼らが右手に持っていたのはストローではなく割り箸(当時商品に添付されていた透明のフォークではない)で、それを使ってカップの中のものを飲んでいるのではなく「食べて」いたのだ。

「何見てんだよ!」それを食べていた子どもに言われて我にかえった。小学2年か3年である。高学年の小学生に凄まれたら、何も言い返せない。その姿を横目で見ながら席に戻った。とにかく、訳が分からない。ただただ、強烈なカルチャーショックだった。

早速、席に戻って父に話をした。私の受けたショックが伝わったのか、両親が自分たちも食べてみたいと思ったのか定かではないが、いつも「何か買って」と言っても聞き入れない父親がすぐ私の手を引いて売店へ向かった。
 売店では「えっ、そんなものないですよ」との答え。何なのか、売店ではさっぱり分からない。とにかく、売り子が売っている様だ。気になったのか、父がそれを食べていた子どもを私から聞いて、聞きに行った。そして、父がニコニコしながら席に戻って来た。その時点でそのものが「ラーメン」であること、そして「売り子さんが売っている」ことが判明した。しかし、試合も終盤に入り、もう、売り子の姿はなかった。

それから2週間後ぐらいだろうか、再び東京球場へ。私の目的は、もちろん「不思議なラーメン」である。しかし、試合が始まっても売りに来ない。もう試合どころではない。
 「来た!!」
 遠くのA指定席に売り子の姿が見えた。30年経った今でもはっきり覚えている。東映戦だった(なぜか、印象に残っているのは東映戦が多い。阪急戦と近鉄戦の記憶はほんどない)。
 ロッテの攻撃中に念願の「不思議なラーメン」を食べた。ちょうど食べてる時に有藤がホームランをった。なぜ、覚えているかというと、こぼしそうになり怒られたからだ。
 小学生だった東京球場での出来事である。
 翌日、学校で友だちに説明したが、誰も信じてくれなかった。後年、それは日清食品が新しく売り出した『カップヌードル』であり、市場調査を兼ねた試験販売だったことを知った。横浜で広く流通しだしたのは翌1972(昭和47)年だった。

今では、私の生活に何の不思議もなく溶け込んでいるカップのインスタント食品。私が東京球場で初めて目にした「カップヌードル」はあまりにも不思議な光景で、あまりにも強烈だった。
 あの時の情景が今でも鮮明に頭に浮かぶのはそれほどインパクトが強かったのだろう。

(4)1971(昭和46)年 不協和音のロッテ本社とフロント

監督交代を発表する左から、濃人渉監督、中村オーナー、大沢啓二新監督

 永田雅一の後を継いでオーナーに就いたのは中村長芳だった。中村がロッテオリオンズに招かれた経緯については第2章に記した。ロッテがスポンサーとなった際に「副オーナー」として着任し、ロッテに経営権が移った時点で「オーナー」を重光武雄から託されていた。
 「岸信介元首相の懐刀」と言われ、内閣総理大臣秘書官まで務めた中村だったが、球界での当初の評判は良くなかった。「なあに、すぐ軌道に乗せてやるよ」と豪語したと思えば「プロ野球なんて」と見下すような発言もあったからだ。「中村の目的は、名前を打って政界へ出ることだ。プロ野球は腰掛だ」という噂も絶えなかった。これらの「中村が言った」という言葉は新聞や週刊誌で確認される。しかし、中村が本当に発した言葉かどうかは不明である。それだけ、中村オーナーという人については、噂が先攻した人物だった。ただ、野球に興味が薄いオーナーだったことは間違いないようだった。

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