【全史】第21章 有藤監督、屈辱の最下位/1988(昭和63)年
(1)キャンプとドーム開幕
前年「機動力野球」を目標に掲げた有藤監督は、さらに加えて「守り勝つ野球」を目標に加えた。前年は現役引退直後で暗中模索の部分も多かったが、2年目の今シーズンは、どっしり構えて指揮していくことを示唆した。
オフの間、有藤監督はあまり動かなかった。コーチ陣が2人退団し入れ替わり、トレードも故障続きだった石川賢を新天地として大洋に放出し、堀井恒雄投手、小山昭晴捕手とのトレードを決めた程度だった。
11年間主軸を務めたリーに代わる新外国人として、ビル・マドロックが加入した。メジャーリーグで15年間プレーして首位打者を4回獲得した実績を誇る。メジャー通算2008安打、打率.305もさることながら、メジャー通算本塁打も163本塁打と長打力も魅力。メジャーでの実績は、オリオンズ歴代助っ人の中でも、最高の数字だった。年俸も約1億3650万円。この金額はロッテ球団史上最高年俸で、当時日本人最高額の落合の1億3000万円とほぼ同額だった。ただ、気がかりは37歳という年齢だったが、本拠地川崎球場を視察した際には「この野球場なら自分の打撃ならまだ大丈夫。(本塁打)50本は打てると思う」と話した。
鹿児島キャンプでは、言葉どおり前年と違い有藤は自ら口を出す回数は減った。ただ、厳しさとアグレッシブさは変わらない。特に若手の底上げには力を入れた。
投手陣は前年まずまずの結果を出し、ようやく見通しが出てきた。先発は村田と荘を中心にベテランの仁科、深沢に対して3年目の左腕・園川、4年目の小川が争う。抑えには牛島が健在だ。中継ぎには右田、平沼、ベテラン佐藤政に、前年は肩痛で15試合の登板に終わった3年目左腕の伊藤優は中継ぎで復活を期す。その他にも前年ともに14試合の登板に留まった井辺、関のドラ1コンビもリリーフ、先発の座を狙う。
前年はブルペンに入る回数が多かったが、今年はグラウンドにいる時間が圧倒的に増えた、やはり、打撃陣を指導する時間が増えた。高沢、横田、西村が機動力野球の中心だが、前年は揃って3割をマーク出来なかった。高沢にはクリーンアップも期待される。新外国人マドロックは圧倒的なパワーをフリーバッティングで見せていた。有藤も「4番・指名打者は任せられそうだ」と話した。死球で離脱した12本塁打に終わった古川は「25本塁打が目標」と気を引き締めた。
キャンプを終えた有藤は「それぞれがレベルアップ出来た」と手応えを口にした。
さて、4月8日の開幕戦はこの年の3月に完成した、日本初の屋根付き球場・東京ドームでの日本ハム戦だった。デーゲームで読売-ヤクルト戦、ナイターで日本ハム-ロッテ戦という日程(完全入れ替え)が組まれた。
その開幕戦は、0-2とリードされた8回表に代打・山本功の押し出し四球で逆転して勝利、3年連続11回目の開幕投手の村田は6年ぶりで開幕1勝、牛島も初セーブ。牛島は前年8試合連続セーブのリーグタイ記録で終了していたが、年またぎは連続記録とならないため、9連続セーブはパ・リーグ新も参考記録とされた。有藤2年目は白星スタートとなった。
しかし、2回戦は小川が8回途中3失点も打線が9回に1点と沈黙、3回戦は荘が4失点完投も打線が初回の1点に封じられ、開幕3連戦は1勝2敗と負け越しスタートとなった。
(2)スタートダッシュで首位争い絡むも…
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