【全史】第15章 オリオンズ沈下への序章/1982(昭和57)年
(1)山本一義丸、かみ合わない歯車
1月12日、川崎球場で若手中心の合同自主トレーニングがスタート。20日から主力も加わった。山本新監督は「激しさをグラウンドに叩きつける『エキサイティングベースボール』」をテーマに掲げ、徹底した体作りと基礎技術の向上を目標とした。
2月1日、恒例の川崎大師参拝を終え、主力バッテリーは鹿児島県指宿市へ移動し2日にキャンプイン。本体は9日まで川崎で一次キャンプを行い、10日に鹿児島に移動した。ところが、前日9日に羽田沖で起きた墜落事故の影響が残っており、空港で足止めを食うも、何とか移動を果たし鹿児島市内で歓迎式典。翌11日から二次キャンプが始まった。
さて、本来は「1日からキャンプ合流」予定だったリー、レオンきょうだいが、来日はしていたものの、契約がこじれ、合流が遅れていた。「ダウンは仕方がないが、複数年契約」を要求し、平行線を辿っていた。
ここ数年、リー、レオンきょうだいの我がままぶりが目立ってきていた。前年のプレーオフ期間、チームは川崎市内のホテルに宿泊したが、リーきょうだいは参加しなかった。山内は「好きなようにさせておけ」と放任したが、「甘やかし過ぎ」とマスコミも批判的だった。ただ、リーにしてみれば、毎年トレード候補に上がるなど、球団に対して不信感があったことも否めない。結果が残せれば良いが…。フロントは「結果が出なければ、それなりの裁断が必要」との声もあり、火種となって残っていく。
開幕は4月3日、川崎球場の南海3連戦だった。ところが、リーが古傷の太ももを痛め、開幕に間に合わなかった。
リーの代わりにスタメン出場を果たしたのが、10年目28歳の新谷だった。9番ライトで出場すると、1号と2本の二塁打で猛打賞3打点。5失点完投の開幕先発・村田を援護した。
その新谷が4月は大暴れ。翌4日の2回戦はノーヒットに終わったものの、5日の3回戦は当時のパ・リーグタイ記録となる3本の二塁打で猛打賞をマークした。新谷は開幕南海3連戦で9打数6安打3打点とリーの代役として合格点だった。ようやく打撃陣にも若手の芽が出てき始めていた。
ただ、チームは2勝2敗と五分の滑り出しとなった。
その後も黒星が先行するも、16日の阪急1回戦(川崎)からリーが復帰。3打数2安打を記録すると、開幕から不振を極め打率が2割を切っていたレオンも今シーズン初のマルチ安打を記録。12安打で10得点を奪い上昇気配を見せる。18日の阪急3回戦では期待の三宅が今シーズン初先発。7回を2失点で今シーズン初勝利を挙げた。
ようやく投打のコマが揃ってきたが、歯車がかみ合わない。打線もリーが復帰し、各人の数字は上がってきたが、白星につながらない。20日の日本ハム3連戦(後楽園)に3連敗すると、続く近鉄3連戦(宮城)も1敗2分で4連敗。続く阪急3連戦(西宮)は2勝1敗と勝ち越したものの、4月は8勝11敗3分と負け越しスタートとなった。
月が替わっても状態が上がらない。日本ハム3連戦(川崎)、南海2連戦(大阪)と黒星が重なる。結局、ゴールデンウィーク中は白星なしの6連敗となった。打線は4月に絶好調だった新谷が、変わらず3割をキープしたものの、新谷以外は落合も含めて2割台、レオンは2割を切って.196まで落ち込んだ。
チームは一気に最下位に転落。このまま低迷が続き、5月中旬にはリーが再び離脱。チームは最下位を独走する状態に陥った。
そんな時、投手陣に緊急事態が発生。好調な滑り出しを見せていたエース村田が離脱してしまう。
(2)村田が離脱、チームは前期低迷
今シーズンもエースは好調だった。8年連続開幕マウンドに上がると、4回に3点を失うものの打線の援護もあり好投。9回に2点を失うも10-5で完投勝利を挙げるスタートとなった。以降の先発を追うと、
・8日 西武2回戦(平和台)2-0で今シーズン初完封勝利、2勝0敗
・13日 西武3回戦(西武)5-0で2試合連続完封勝利、3勝0敗
・20日 日本ハム1回戦(後楽園)4回3失点降板、今シーズン初黒星、3勝1敗
・5月7日 日本ハム7回戦(後楽園)9回一死降板も、4勝1敗
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